自分史上最高の親子丼

 晩御飯に親子丼を作った。もう親子丼はたぶん100回以上作っていて、自分の作り方のパターンが決まっていたのだけど、味的に何かもう一つフックが足りず、伸び悩みを感じていた。
 いつもは、始めからゆでるタイプの作り方でやっていたのを、今回は何気に先日作ったカレーの手順が頭に思い浮かんで、炒めから始めてみた。少し玉ねぎがこげたけれど、ほどよく茶色で、玉子のとろみ具合も最適で、色も香りも従来品をはるかに凌ぐクオリティの親子丼が出来上がった。味も見た目にたがわず、今までのものにはない深みが加わっていて、新境地に達したといえる一品が完成した。
 物足りない状態から微調整を加えても、60%のものが65%になっても、90%になることはない。一回その慣れ親しんだやり方を壊して作り直すことで飛躍的なレベルアップができるのだなと、ささやかながら実感できた。
 きちんと基礎を習っておけば、たぶんもっと早くにこのレベルに達していたのだと思うけど、自分でたどり着いたという手ごたえがあると、学んだ実感も強い。しかし所詮は自分史上で最高なだけであって、世の中に出れば、もっと旨い親子丼を作る人はたくさんいるわけで、親子丼界(?)でどこまで通用するかはわからない。まあ、通用したいわけでもなくて、自分が食って旨くて、周りの人が旨いと思ってくれればそれで十分なのだけど。
 考えようによっては、こういう手ごたえから、さらにその道を深めたくなる人もいるだろうし、ほかの人がどんなモノを作っているのか関心を高めて、学習のアンテナが高まる人もいるだろう。なので、こういう「日常の中で感じる手ごたえ」というのは学習の観点から見て、あなどれない存在だと思う。

いちどに全ては得られない

 最近、知らない人から急に連絡が入って、食事に誘われたり、電話でインタビューされたりする機会が増えてきた。わざわざコンタクトしていただいているので、こちらも都合がつく限りお応えしている。頼まれたことに対しては手を抜かずに対応するのがいいと考える点については以前に書いた。これを書いた当時と状況が変わったのは、何で私にそんなことを頼んでくるかなぁ、とぼやきたくなるような、変な問い合わせが減ったことだ。以前は魚屋に野菜を買いに来るような的外れな人や、アメリカにいるという理由だけで頼んでいるだろうそれは、というような問い合わせもあったので、やや対応が面倒だったりしたのだが(とんちんかんな人ほど余計な時間を取られたりする)、そういうのが減ったのは、こちらの看板や軒先に並べてるものが明確になってきた効果かなと思う。
 食事でも電話でも、一回の懇談でせいぜい一時間程度で、その中でシリアスゲームの動向やら研究の話やらいろいろと質問される。こちらも駆け出しなので、エライ人のようにもったいぶったりせずに、知っていることはできる限り相手の腹に落ちるような形で説明するよう心がけている。質問者との相性というか、その場のケミストリーの作用で、いい形でこちらの伝えたいことが伝えられ、普段整理し切れてないことがすっと整理された形で説明できたりすることがある一方で、どうもかみ合わずに、こちらの説明したいことの半分も伝えきれないままで終わることもある。特に最近は英語での懇談の方が多くなったので、なおさらやり取りの質のばらつきは大きくなる。
 そんなにしょっちゅうこのような機会を持てるわけではないので、懇談やインタビューの相手の姿勢は、自然とこの一度の機会で、この対談相手(私のこと)の専門分野の状況をまるごと把握してしまおうという姿勢になる。それは大事なことなのだが、その目論見が必ずしもうまく行くわけではない。何かの調査の目的で話を聴きに来る人は、報告などをまとめる際には、自分の集めた情報が意味のあるものであるという前提でまとめることになるわけで、こちらの答え方がいまいちだったりしたところを、これがこの分野の現状である、みたいな捉え方をされてしまうのはあまりうれしくない。こちらの答え方に不備がある場合は仕方がないが、聞き手の方に知識が足りなくて浅い理解しかできないということも少なからずある。どんなに予習をしっかりしたとしても、その場のケミストリーで良くも悪くも結果は変わるし、聞き手のスキルで精度を高めることはできても、一度の機会で重要なことを吸収しきってしまうのは不可能だ。別の言い方をすれば、ランチ代や一時間の懇談に費やす労力で得られることは高が知れているのであって、それで全部吸収できるのであれば、たいした専門分野ではないし、取材者はみんな専門家になれる。大事なことを知りたければ、少し時間をとって継続的にその分野を追っていかないと、見えることも見えてこないものである。
 これは同時に、インタビューのような動的な状況でのデータ収集に頼る質的研究(特にインタビュー主体でやるフェノメノロジー研究)の難しさでもあるなと認識した。質的研究は、自分自身をいかにデータの中に漬け込んで自分のマインドセットをチューンしていくか、というところにかなり依存するので、訓練の足りない人や、事前データの読み込みが足りない人の集めたデータは、肝心なことを集め切れていない可能性が高くなる。この点では、質問紙に頼ったサーベイ研究や、ウェブをちょこっと検索しただけの調査研究は、さらに大きな不確実性を抱えている。ワンショットのアンケート調査だけではたいしたことはわからないし、勘所のない人が収集した情報というのは、これがネット上で集まるものを全て調査した結果です、と言われても、本当かそれは?と言いたくなるような穴がすぐに見つかるので当てにならない。よほど設計がしっかりしていて、その分野の情報にある程度勘所のある人が調べて、集めた情報をしっかり吟味した結果でなければ、説得力のある結果は得られない。
 普段は研究する側、情報を集める側の立場でものを見ているが、こうしてたまには調査される側、情報を集められる側に立ってみると、、気をつけないといけないことにも気づかされるし、違ったことが見えてきて面白い。

Gamasutraインタビュー記事掲載

 シリアスゲームジャパンでも告知してますが、一応こちらでも。
先月の中頃くらいに電話取材を受けた日本のシリアスゲームに関する記事が、Gamasutraのシリアスゲームニュースサイトで掲載されました。
Gamasutraの記事
http://www.gamasutra.com/php-bin/news_index.php?story=8960
The State Of Serious Games In Japan(インタビュー全文)
http://seriousgamessource.com/features/feature_041806_sg_japan.php
 英語の電話取材というのは難しい。微妙に違った感じで伝わってるところも若干あったりするけど、それ以前に、なんかすごいシンプルなことしか言ってない。難しい言い回しとか一切なし(それと文章にすると意味不明なところを編集でわかりやすく直してくれてる)。それでも通じるし、何とかやっていけるということで、皆さん自信を持って海外留学してください。

今シーズン初打ち

 すっかり春の穏やかな気候になり、天気があまりによかったので、近くのゴルフ練習場で今シーズンの初打ちをしてきた。半年もやっていないのでいい当たりはしないだろうと思っていたが、クラブを握れば身体が覚えているもので、10球も打てば身体が慣れて普通に当たりだした。昨年はかなりの頻度で練習したおかげでだいぶ上達したが、今年は果たして次のレベルに上がれるかどうか。90台前半をコンスタントに出せるようになって、ベストで90を切れれば上出来。日本に帰ったらゴルフなんて高くてやっていられないので、こちらにいる間にせいぜい楽しみたい。

適応と退化

 晩御飯に、この間アジアンストアで買ってきた食材を使って、「キムチ納豆ツナ豆腐」なる意味不明な料理を作って食べた。単にちょっとずつあまっていた物を全部一皿に盛って、胡麻ドレッシング(なぜかこんなところでもフンドーキンのドレッシングが売ってる)をかけて料理と称しているだけなのだが、それでも結構ウマかった。
 それで、その準備をしている時に、納豆についているタレを空けようとした時のこと。日本の商品ではよく目にする「イージーオープンでこちら側のどこからでも開けられます」とわざわざ書いてくれているのに、その「こちら側」の辺ではない方から無理やり切り開けようとして、そのイージーオープンの側を全部切り取ってしまった。イージーオープンはおかげで機能せずに、さらに開けにくい状態になって開けるのに苦労した。がさつなアメリカ製品に慣れてしまって、考えもなく力任せにやるクセがついてしまって、せっかくの細やかな日本のテクノロジーを享受できない身になってしまったらしい。粗雑な生活をしていると、以前に身につけていた文化がどこかにいってしまって、急には適応できないようだ。
 これを新しい文化への適応と呼ぶのか、一度は身につけたリテラシーがどこかへ行ってしまったことで退化と呼ぶのか、判断の分かれるところだ。自分の国だからとえこひいきするわけではないが、こういう製品に使われた細やかな技術は、日本が最高だと思う。権利保護とか契約なんかについてはむちゃくちゃ細かいくせに、こういうところの技術はアメリカ人は超ガサツである。なぜかそういうところだけカウボーイ気質のままというか、感性が鈍く、不便を感じようが感じまいが、みんなそのまま使い続けている。日本の技術がすごいことを感心することはするけど、だからといって取り入れるわけでもない。それも一つの文化といえば文化なので、こちらで生活する限りは、バカにせずに尊重して合わせてきた。それがストレスなくやっていく上で必要な心構えではある。

見栄えも大事

 シリアスゲームジャパンのウェブデザインをリニューアルして以降、更新作業のモチベーションがいくぶんあがって、楽しくなってきた気がする。見栄えの良さというのは、人から見てどう映るかという以前に、送り手側のモチベーションに影響する面が大きいのだなと感じた。きちんとした服装をすると気が引き締まったり、いい車を買うと手入れをしっかりしたくなるのと同じような効果だと思う。人がどう思うかというのも心理的に反映されてのことだと思うが、その見栄えを一番見るのは自分自身なのだから、見栄えがよければ悪い気はしない。服装に限った話でなく、自分自身の気分をリフレッシュするために、自分の関わっているものの見栄えを少し工夫してみるというのは案外有効なようである。

たいくつ発見器

 MITメディアラボの研究者が、人が退屈しているかどうかを見分ける装置が開発したという記事が出ていた。メガネに内蔵されたデジタルカメラとモバイル端末を使った画像認識装置で、会話中の相手が退屈したり困惑したりしているしぐさを検知して、その端末のユーザーにお知らせが入る仕組みなのだそうだ。マシンラーニングのアルゴリズムで、人の顔のパーツの動きや表情のパターンをソフトウェアに学習させて、そのパターンとの適合度で退屈を判断するというメカニズムで、今はさらにその認識の精度を上げたり、利用するデジカメの技術を高めたりしているそうだ。
 この装置は現状では少人数の会話を想定した設計になっているが、記事の最後に紹介されているコメントのように、授業やプレゼンのような場で大人数の反応をモニターするのに使えたら教室でのダイナミクスはずいぶん変わるかもしれない。あるいは、この装置を使って、教師のタレントショーみたいなことをやって、退屈判定が一定以上出たら退場、みたいなことができるかも。でも、人のしぐさのクセはさまざまなので、この方式がどこまで有効なのかはわからない。よく年配の人で、明らかに寝に入ってるようなしぐさで人の話を聞いてる人なんかもいたりするし(ホントに寝てるときの方が多い気がするが)、そういうのをいちいちチェックして正しく判定するのはかなり困難な感じがする。とはいえ、技術革新は普通の発想では及ばない形で進むので、研究を続けていれば何かすごいものが出てくるかもしれない。

リフレッシュは必要

 早く片付けたかった原稿が片付いて、当面のメインの仕事にじっくりかかれるぞと思った土曜の午後、どうもノリが悪くてまるではかどらない。どうにもはかどらないので、ちょうどキャンパスで映画をやっていたのを観に行った。「ハウルの動く城」を見たあと、別の場所で「ナルニア国物語」をやっていたので二つ立て続けに観た。
 「ハウル・・」の方は、宮崎アニメの型を踏襲したものを少し違ったモチーフとテーマを込めている、という感じで、大作の谷間の作品という印象だった。悪い意味ではなくて、型があるというのは産業的な作品には大切なことで、継続的にいいものを作っていくには不可欠なことだと思う。その型にはまり過ぎれば退屈だと批判されるし、違うことをやりすぎれば、聴衆は取り残された気分になる。この作品はそのバランス的には、やや型に頼った感があるかなという程度で、十分に新しさはあるし、満足感も得られたので、自分にとっては十分にいい作品だった。
 「ナルニア国・・」の方は、なんと言うか、ロード・オブ・ザ・リングとハリーポッターをブレンドして、美味しいところを出そうとしたのに、ブレンドを間違えて、良くも悪くもディズニーの味付けで仕上がった、という感じの作品だった。敵役の女王が、テレビの特撮ものの敵ボスキャラのような安っぽさに仕上がっているのが実に微妙で、場内からも失笑を買っていた。ストーリーやコンセプトはよくて、金を掛けて特殊効果に凝ったとしても、演技や演出の細部を詰め切れないと、今一つキレの悪いこういう感じの作品になってしまうのだなと考えさせられた。動物やクリーチャーと子役たちは、個々にはなかなかよかったのだけど、ちょっと惜しい感じ。ディズニー作品の中での位置づけ的には相当にがんばっている方なのかもしれないが、原作が有名なのに加えて、同種のファンタジー物でロード・オブ・ザ・リングがあれだけすごかったので、それに引っ張られて聴衆の期待値が高くなったことも影響しているような気がする。とはいえ、ディズニー映画はいつも観たあとに悪い気はしない。それもプロダクションの型の一つであって、聴衆にとっては、元気になりたい時にはディズニー映画を選べばだいたい外さないという安心感がそのブランドに込められている。その範囲で考えれば、観る側の期待値とのバランスが悪かっただけで、この映画も悪い映画ではなく、十分楽しめた。
 映画が終わり、他の部屋から音楽が聞こえるのでのぞいてみたらバンドコンテストをやっていたので、コーヒーをすすりながら観た。週末のキャンパスのイベントにはごくたまにしか顔を出さないのに、その時はなぜかたまたまこのバンドコンテストをやってる日だったりする。最初に見たのは2003年の春のはずなので、もう3年も経ったのかと不思議な気がした。そんな時間を過ごして、夜半過ぎに帰宅した。
 結局そのままほとんど仕事にならなかった上、寝る前にこの日からちょうどサマータイムに入ったことに気づいて、一時間寝る時間損したーとかムカついて寝たのだが、翌日はなぜか朝から、今まで詰め切れなかったゲームデザイン案が大幅前進するし、他にも小ネタが浮かんだおかげで一つ仕事が片付いた。ただの休息ではなくて、違ったタイプのリフレッシュが必要なのをつくづく実感した。

進むメリケン体質

 今日はふだんより早めの夕食にして、酒を飲みながら昨日作った生春巻の残りなどつまんで、ちょうどやってたプリズンブレークとかテレビを見ながらくつろいでいた。早い時間からくつろぐのは悪い気はしないのだけど、その後やることがあるときには面倒くささが倍増する。美味い酒なぞ飲んで緩んだ精神には、普段は耐えていることが果てしなく面倒なことに思えてきて、何をするのも嫌になってくる。面倒くささが極まったところでベッドに倒れこんでふて寝したら、中途半端な時間に目が覚めた。頭はすっきりしているので仕事はできるのだけど、また生活時間が不規則になるのでなかなか悩ましい。
 ところで、時々ふと自分の食行動などを冷静になって見てみると、自分のメリケン体質化がいろいろと目に付いてくる。こちらに来た当初は食えなかったような、スーパーに売ってる甘くて不味いケーキを、この間もらって食べたら、結構美味いなと、でかい一切れを普通に食しているし、インターンの職場ではフリーソーダなのをいいことに、日本ではおそらく売ってないであろう、ダイエットドクターペッパーとかダイエットマウンテンデューなんていう意味不明な飲み物をウマーと飲んでいたりする。ウェンディーズのトリプルバーガー(肉が三枚重ね)のような普通の人の食べ物ではないようなものを、時々すごく食べたくなったりする(そこはさすがにダブルで抑えている)。日本にいる頃はフライドポテトはほとんど手をつけなかったのだが、今ではわざわざ買い求めて食べている。日本食に対しても、以前はとんかつ定食とか牛丼とか、いろいろむしょうに食べたくなったりすることはあったけど、今は自炊する分で事足りていて、特に日本食が恋しいという感覚もほとんどなくなってしまった。普段は気にしてなくても、あるときふと振り返ると、そんな感じで自分のメリケン体質がかなり進行していることに気づく。
 アメリカの食生活というのは普通にしているとすごく不健康で、不健康なものほどものすごく安い。健康志向にすると金が余計にかかるので、余裕のない人たちはそういう不健康なものを日々食べざるをえない。健康に気をつけない人は、普通にアメリケンな食生活をして、普通に太っている。ウォルマートみたいな大衆スーパーに行くと、もはや人間の形を呈していなくて、自分の体重も支えられないような人たちがたくさんいる。そうかと思えば、朝も晩もあちこち走っていたり、食事に気をつけすぎる人も多くて、ちょうどよく健康的な生活を送るのが非常に大変なところである。
 そんな中で、ちょうど自分に合った食生活というのを見出して、やっと定着してきたという感じなのだけど、ここまでメリケン体質化してしまうと、今度は日本に帰ったときが問題になってくる。ダイエットドクターペッパーは売ってないだろうし、牛肉は高いし、ケーキやお菓子は逆に美味過ぎてやばいし(日本の空港のお土産売り場とか行くと、日本のお菓子文化の素晴らしさにマジで感動する。アメリカの空港にはまともなお菓子屋はなくて、あってもせいぜいゴディバみたいなヨーロッパ系な感じ)、また逆に適応するのが大変な気がして先が思いやられる。

インタビュー記事掲載

 年末に受けたシリアスゲームのインタビュー記事が掲載されました。
シリアスゲームジャパン藤本徹氏インタビューと今後の展望(株式会社シナジーWebサイト)
http://syg.co.jp/seriousgame/gfh4_1.html
記事の内容は、インストラクショナルデザインとシリアスゲームを絡めた内容になっていて、たぶんそんなのは他では読めない楽しい内容になっていると思うのだが、なにより顔写真デカすぎ。想定外、という言葉はこういうシチュエーションで使うんだなと、このページを見た時思った。でも世の中的にはたいしたことではないなと気を取り直した。こういうシチュエーションには慣れていないので、今いち居心地が悪くて困るけど、シリアスゲームが次の段階に進んでしまった感があるので、そうも言っていられないのかもしれない。
 あまり関係ないのだけど、ふと、徒然草の説経を学びそこねた法師の話(第百八十八段)を思い出した。その男は法師になったらあちこちに呼ばれるので、馬の一つもうまく乗れないと恥ずかしいと、乗馬を習い、酒席に呼ばれて芸の一つもできないと恥ずかしいと、早歌を習った。それらが上手くなった頃には説経を学ぶには手遅れなほど歳を取ってしまっていた、という話。ちなみに徒然草は好きなエピソードが結構ある。学校で古典を学んでよかったと思う数少ないことの一つだ。
 何かをやろうとするとあれこれ雑念が入って、本来やろうとしていることがおろそかになりやすい。うまくいきはじめて状況が変わってくると、なおさらそうなのだろうと思う。ちょっと取り上げられだすと、お肌や髪型なんかが気になりだし、いい服もほしくなる。金が入れば車やら家やらも気になり始める。それはそれでいいことなのだろうし、そもそも身なりくらいはちゃんとしておけよという話なのだけど、それでも何が一番重要なのかを忘れてしまうと、この法師みたいに、肝心なところにたどり着けないで終わってしまう。馬に乗れて歌が歌えれば、法師としては平凡でも十分幸せな人生には違いないし、うまくやればそうしたものが本業の深みを増すということもあると思うけど、バランスを失ってしまって、肝心なことがダメになったら残念だろうなと思う。
 たぶんこの話を思い出したのは、自分自身にそういう雑念の気配を感じたからなのだろうと思う。
 これからいろんなことが動いていきそうですが、そんな中でも引き続き、一番大事なことに注力して、弛まず精進して仕事に励みたいと思います。