適応と退化

 晩御飯に、この間アジアンストアで買ってきた食材を使って、「キムチ納豆ツナ豆腐」なる意味不明な料理を作って食べた。単にちょっとずつあまっていた物を全部一皿に盛って、胡麻ドレッシング(なぜかこんなところでもフンドーキンのドレッシングが売ってる)をかけて料理と称しているだけなのだが、それでも結構ウマかった。
 それで、その準備をしている時に、納豆についているタレを空けようとした時のこと。日本の商品ではよく目にする「イージーオープンでこちら側のどこからでも開けられます」とわざわざ書いてくれているのに、その「こちら側」の辺ではない方から無理やり切り開けようとして、そのイージーオープンの側を全部切り取ってしまった。イージーオープンはおかげで機能せずに、さらに開けにくい状態になって開けるのに苦労した。がさつなアメリカ製品に慣れてしまって、考えもなく力任せにやるクセがついてしまって、せっかくの細やかな日本のテクノロジーを享受できない身になってしまったらしい。粗雑な生活をしていると、以前に身につけていた文化がどこかにいってしまって、急には適応できないようだ。
 これを新しい文化への適応と呼ぶのか、一度は身につけたリテラシーがどこかへ行ってしまったことで退化と呼ぶのか、判断の分かれるところだ。自分の国だからとえこひいきするわけではないが、こういう製品に使われた細やかな技術は、日本が最高だと思う。権利保護とか契約なんかについてはむちゃくちゃ細かいくせに、こういうところの技術はアメリカ人は超ガサツである。なぜかそういうところだけカウボーイ気質のままというか、感性が鈍く、不便を感じようが感じまいが、みんなそのまま使い続けている。日本の技術がすごいことを感心することはするけど、だからといって取り入れるわけでもない。それも一つの文化といえば文化なので、こちらで生活する限りは、バカにせずに尊重して合わせてきた。それがストレスなくやっていく上で必要な心構えではある。