ニューメディアコンソーシアムとEDUCAUSEが共同して毎年出している教育テクノロジーのトレンド予測レポート「2007 Horizon Report」が公開された。
2007 Horizon Report
http://www.nmc.org/horizon/
このレポートでは、近い将来にどのようなテクノロジーが教育分野で大いに利用されるようになるかを予測して、6つのテクノロジーを短期・中期・長期で二つずつ取り上げて解説する形でまとめられている。
★1年以内に採用
・User-created content
・Social networking
★2~3年で採用
・Mobile phones
・Virtual worlds
★4~5年で採用
・New scholarship and emerging forms of publication
・Massively multiplayer educational gaming
最初の二つは、Web2.0の話題でよく取り上げられるし、ユーザーレベルでは定着していて生徒・学生たちは普通に利用している。これらがもっと学校で公式的に教育や研究のために利用されるようになるでしょう、という話だろう。携帯電話も教育利用の研究があちこちで進んでいるようなので、妥当な線なのかもしれない。5つ目のNew scholarship and emerging forms of publicationはわかりにくいかもしれないが、研究活動のやり方や成果の発表方法がよりテクノロジーベースドで新しいものに変わっていくでしょう、という話。
トレンド予測というのは、消費者的な発想で当たり外れを云々しているうちは平和でよいのだけど、メディアリテラシーの観点から見ると、それでは少し危なっかしい。この手の書き物には、書き手の「そうなってほしい」という願望や意図が含まれているのが常なので、純粋な予測として見るには少し割り引いて考える必要がある。しかしそれと同時に、書き手の側の「これを流行らせたい」という意思表示でもあるので、割り引いた分以上にこれから普及に向けて力が入れられるだろうと見た方が良い。
このレポートでは、「バーチャルワールド」と「教育用多人数参加型オンラインゲーム」が入っているところに、この書き手の願望や意欲が表れているように見える。その分野の研究をしている身としては、単純に歓迎しておいてもよいのだけど、この分野を知っているだけになおのことそう能天気でもいられない。この二つは別に一つにくくっても構わない性質のもので、わざわざ分けて書いているところは、他に手ごろなネタがなかったのか、よほどこのテーマで書きたかったのかどちらだろう。実際、このレポートの書き手の一方のニューメディア・コンソーシアムは、最近話題のMMO「セカンドライフ」の教育利用に力を入れているので、このテーマで書きたいことがたくさんあるのには違いない。
「未来とは予測するものでなく、自ら創り出すもの」と考えれば、自分たちの創りたい未来を描いて語ることは間違いではない。むしろ大いにやって、それをたたき台にして、どんな未来に向かって進みたいのかを議論する方が健全だと思う。
だがその一方で、テクノロジーの普及というのは、ある段階から非常に政治性を帯びた活動が多くなる。特に学校や行政のような旧来的なシステムへの導入のような場合には、さらにその色合いが強くなる。テクノロジーの良し悪しや、そのテクノロジーを使ったシステムのデザインの良し悪しよりも、「オカネの流れと掴み方を知っているかどうか」、「そのテクノロジーであおりを食うことを心配している人たちをいかに丸め込むか」といった泥臭い話になってくる。
この手のトレンドレポートもそのような政治的活動におけるツールの一つとして機能する面が大きい。だが、だからといって忌むべきものでもない。なぜなら、研究者の立場でテクノロジーを普及させようとした場合、必ずしも得意ではない泥臭い政治活動を回避するための有効なツールとして使えるからだ。なぜそのようなことを考える必要があるかは、書き出すと長くなるのでまたあらためて書こうと思う。
デジタルゲームやMMOの教育利用の推進は、こんなところで取り上げられていることでも、米国ではすでに気楽な研究レベルの段階を超えて、政治的な動きを伴う段階に入っていることを示している。どんな意図かはわからないが、このレポートもある意図の中でどこかに位置づけられているのだろうということに思い至る。そんなわけで、単純に歓迎もしていられない面をやや感じている。
「Don’t Bother Me Mom」脱稿
拙著「シリアスゲーム」もあと一週間でリリースというところで、翻訳書「Don’t Bother Me Mom-I’m Learning!: How Computer And Video Games Are Preparing Your Kids for Twenty-First Century Success 」もどうにか脱稿しました。訳者解説がもう一つキレのある文章が書けなくてやや手間取ったものの、ようやく満足いくレベルで書き上げて、原稿に魂を入れた感じで仕上げることができました。テレビゲームが子どもたちの学習と将来のために貢献している、というテーマの本で、ゲームや最近のデジタルメディアのポジティブな側面を詳しく論じています。順調にいけば5月~6月には刊行できるのではなかろうかと思います。こちらの進捗はまたお知らせします。
さて、「シリアスゲーム」の出版情報ですが、オンライン書店では紀伊国屋書店のKinokuniya Bookwebで先行して予約を受け付け開始していますが、アマゾンほかはまだ始まっていません。予約開始されたらお知らせします。
ゲームと非ゲームとシリアスゲーム(1)
先日受けた「まんたんブロード」の取材の時に、ニンテンドーDSの成功とともに「非ゲーム系コンテンツ」が注目されており、それらとエンターテインメントゲームやシリアスゲームをどう区別して捉えればよいか、という話になった。記事ではその話はうまく伝わる形では触れられていなかったので、簡単に考え方を示しておこうと思う。
エンターテインメントゲーム、シリアスゲーム、非ゲームとも、その境目のあたりはそれぞれに重なっており、区切りははっきりしない。「エンターテインメントとして遊べて、シリアスゲームとして機能して、コンテンツのコアの部分は従来のゲームではない」コンテンツというのは存在し得る。エンターテインメントゲーム、シリアスゲーム、非ゲームの3つの輪が重なったベン図をイメージしてもらえばよいと思う。既存のタイトルの例では、「脳トレ」、「常識力トレーニング」、「ニンテンドッグス」などはここに含まれるだろう。それ以外の「これってシリアスゲームでは?」「非ゲームでは?」と思いつくタイトルも、いずれも何らかの形でその境界線のあたりにいると考えてよいだろう。
3つのタイプのコンテンツが重なる部分を無理やり切り分けて考えようとしても、厳密に切り分けることは不可能だし、そんなことをしてもあまり意味はない。むしろそれらが重ならない要素を整理した方が得るところが大きいので、少しその辺りを整理してみようと思う。
★エンターテインメントゲームとシリアスゲームの違い
もうすぐ発売の拙著に考え方を整理しているが、基本的には「作り手の意図」と「使い手の意図」の要素がその違いとなる。まず、そのゲームがシリアスゲームかどうかを判断するポイントは、作り手が「純粋な娯楽以外に何かのタメになる」ことを意図しているかどうか。次に、使い手が「娯楽以外の目的で」そのゲームを利用しているかどうか。この2点が判断軸となる。「遊んでいるうちに脳が鍛えられる」、「癒される」、「何かができるようになる」、という要素を考慮してゲームがデザインされているか、販売されているのであれば、そのゲームはシリアスゲームだと言ってよい。
また、作り手にそのつもりがなくても、使い手側がそうした意図を持ってゲームを利用することもある。エンターテインメントゲームとして作られていたとしても、学校の授業で利用されたり、運動不足解消のために利用されたりすれば、そのゲームはシリアスゲームとして利用されていることになる。
シリアスゲームとは、「エンターテインメント性のないゲーム」ではない。ゲームの持つ人を夢中にさせる力や学習を活動のなかに埋め込む技術を教育課題や社会問題に利用する、ということが基本にあるので、エンターテインメント性、あるいはゲーム性は、そのコンテンツの重要な要素として扱う必要がある。その意味で、エンターテインメントゲームとシリアスゲームの重なる部分は大きい。
ポイントは「エンターテインメントの要素をどれだけ前面に出すか」ということにあり、そのゲームの想定される利用シーンによって、扱い方が変わってくる。ユーザーの自由時間の利用をメインにするのと、学校の授業での利用をメインにするのとでは、楽しさの要素の力点の置き方は変わってくる。
いかに何かのタメになることをうたっていたとしても、つまらないゲームはユーザーの生活に浸透しないし、逆に学校での利用がメインであれば、(ゲームに対する期待水準が下がるので)楽しさの部分はある程度妥協できても、学習効果や授業での使いやすさの点で強みを出す必要がある。
このように考えると、エンターテインメントゲームとシリアスゲームの切り分けは、機能面の捉え方の問題であるとともに、多分にゲーム開発のマーケティング問題に絡むところが大きい。そう考えると、エンターテインメントゲームの開発においても、ゲーム業界が社会に働きかけるための補助線的なコンセプトとしてシリアスゲームを捉えていくと、まだ未開拓分野は広大で、アイデアしだいで新たなヒット作を生み出す可能性は大きいことが見えてくるだろう。
今日のところはここまでにして、不定期連載で次のトピックで話を続けようと思う。
★エンターテインメントゲームと非ゲームの違い
★シリアスゲームと非ゲームの違い
「シリアスゲーム」の紹介
シリアスゲームジャパンで、拙著「シリアスゲーム」-教育・社会に役立つデジタルゲーム」の公式アナウンスと、本書の目次等の紹介をしましたのでご覧ください。
シリアスゲーム解説書発刊のお知らせ
バーチャル講演会初体験
先日シリアスゲームジャパンでも紹介した、AOGCプレイベントのセカンドライフ内でのバーチャル講演会の件について、こちらでは個人的な所感を。
日本時間の2月2日金曜午後1時から開始されて、東部時間のこちらは2月1日の午後11時、深夜の参加となった。講演会とはいえ、アバターだけで本人の顔出しはないので、本人はだらしない家着姿。アバターはこの講演のためにセカンドライフ内のメンズウェア店で買ってきた青シャツにネクタイ姿に着替えて参加。スーツを買おうと思って、カジノでお金を増やそうとがんばったがだめだった。
会場は、リアル、バーチャルともデジタルハリウッドさんにご提供いただいての開催となった。バーチャル会場は多目的広場のようになっているところに結構立派なものが特設ステージが設営されていた。
会では、駒澤大学の山口先生の講演の合間にゲストとして10分くらいでシリアスゲームとシリアスゲームの観点から見たオンラインゲームの話をした。聴衆はリアル会場の方にプレス関係者が10数人にいて、バーチャル会場の方も10人くらい。こちらはアメリカからの完全バーチャル参加なので、リアル会場の様子はさっぱりわからない。バーチャル会場もアバターなので聞いているのかどうなのか反応はわからない。話している感じとしては、ラジオ講座や電話会議をしているのと似た感覚だと思う。自分のペースで話せるようになるには少し慣れが必要になる。今回は慣れてないので話しづらさの方が上回った。
せっかくバーチャルな世界でプレゼンをするのだから、なにかセカンドライフだからできることをやれないかと思って、とりあえず宙に浮いて高い位置にあるスクリーンの横で話をしてみた。そうしてみたのはよかったが、スライドを見える視点にしながらアバターに前を向かせる方法がわからず、聴衆にはずっとオシリを向けたまま話すことになってしまった。リアルでもバーチャルでも、慣れない環境ではいちいち勝手のわからないことが起きるのは変わらない。
バーチャル会場では机と椅子が並んでいたが、座るとスクリーンが見やすいわけではないので、もっとみやすい位置を求めて宙に浮いて話を聞いている人が多かった。講演会場は、リアル世界をモデルに作られていたが、必ずしもそうする必要はないのかもしれない。空を飛べることを活かした講演会場やイベント会場の座席配置をデザインするのは面白そうだ。その意味では、セカンドライフ内の施設の多くは、リアル世界の模倣でしかないので、セカンドライフの特性を活かしたリアルのモデルにとらわれない施設デザインと言うのが今後重要なテーマになってくるだろう。
講演中のやり取りにしても、まだ実施する側も話す側も不慣れで未開拓な要素は多い。講演者としては、質疑応答の時に音声とテキストチャットと二つのチャネルがあるため、リアルの質疑応答とはやり取りの仕方が変わってくる。不慣れなために、チャットの方に気をとられて音声での質問をうまく聞き取れず、ずれた回答をしてしまうことも生じた。この辺りはこのようなイベントを何度かこなす中で型が見えてくると思う。
現時点では、セカンドライフならではの使い方はまだ出てきていない。だからといって、一度や二度試しただけで、あまりよさが見えてこないと考えるのは早計だろう。いかなるツールも少し使い込んでみないと判断できない。セカンドライフは使い込んでみるに値する多様な機能とポテンシャルを持っていると思う。今回のようなリアルとバーチャルの連動イベントのような試みを重ねて行けば、また面白い用途も思いつくだろうし、そこからあらたなデザインのアイデアも浮かんでくるだろう。
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★補足:なお、先日毎日新聞のフリーペーパー「まんたんブロード」に掲載された記事が「まんたんウェブ」に掲載されたのでご覧ください。
特集:脳トレ・DSビッグバン 「DSの成功は世界に驚き」シリアスゲーム研究者に聞く(毎日新聞まんたんウェブ)
http://mantanweb.mainichi.co.jp/web/2007/02/dsds.html
外は激寒
ここ二週間ばかり寒い日が続いていて、この週末はさらに気温が下がった。雪は少ないのだけど、気温がやたらに低い。今朝に至っては、華氏で0度に届こうかという寒さだ。摂氏でマイナス20度以下。ペンシルバニア中のあちこちで観測史上最低気温を記録したというニュースをやっている。学校も休校や午前休みが続出。天気だけはよくて、お日様が照らしている。うちの中にいれば大丈夫なのだけど、個人的には身も心もこの寒さにつられて冷え込んでくる。ついでに懐の寒さも身にしみてくる。せめて希望くらいは持っていなければやっていられない。
「シリアスゲーム」発売情報
おかげさまで、拙著「シリアスゲーム-教育・社会に役立つデジタルゲーム」の発売は2月20日で、現在印刷に入っています。著者としてはもう何もすることはなく、ただ待つだけなのですが、気になってやきもきしてきます。
オンライン書店でも再来週くらいには予約開始されると思います。表紙のデザインもあがってきました。こんな感じ。
進捗は追ってお知らせします。
通じないのは英語力のせいとは限らない
アメリカに来て4年半、英語で苦労した経験は数知れず、今も拙い英語で日々の生活をどうにか送っていることには変わりはない。
ここに至りつくづく思うのは、外国語の修得に関しては「ここまでできるようになったから言葉には苦労しなくなった」という絶対的な境地など存在せず、どのレベルにいてもそれなりに苦労や悩みがあるということだ。少し高度なコミュニケーションができるようになれば、そのレベルに見合ったチャレンジをするようになる。もっとうまくなりたいと思う限り悩みは尽きない。その限りにおいて常に学習は継続し、もう学習しなくてよい、という状態になることはない。そのような状態があるとすれば、それはその人が自分の状態に満足した時か、向上を諦めた時だ。
以前は、何か通じないことがあると自分の英語力のせいだと思うばかりだったが、最近必ずしもそうでないことも多いのではないかと感じるようになった。英語のリーディングやリスニングの力の不足は、文脈を読み取る力でかなりの部分カバーできる。ライティングやスピーキングの力不足は、相手に文脈を掴んでもらえるような表現の仕方をすることでかなり補える。英語のフレーズを知っていることは大事だし、たくさん知っているに越したことはないが、結局のところ英語という言語の問題だけでなく、コミュニケーション力そのものに影響されるところが大きい。
知識の不足による影響も大きい。たとえば、読書課題で英語の文献を読んでいて、英語が難しいわけではないのに???となることはよくある。先日たまたま同じ文献の日本語訳が手元にあって、同じところを読んでみたら、やっぱり???だった。この場合、どれだけ英語を勉強してもその部分を理解できるようになるとは限らない。
日常会話の場合、相手に問題がある場合もある。いかにネイティブスピーカーとはいえ、カンの悪い人というのはたくさんいる。カンの悪い人と話すときに通じないのは、多分に英語のせいではない。相手がこちらの言っていることの文脈を拾えるように話してあげる必要がある。そのことに気づかないでどんなに正しい発音の練習をしても、それだけで通じるようにはなかなかならない。
英語の勉強をした方がよいのはもちろんだが、ポイントを外すと徒労が多く、効率的でない勉強を延々と続けることになる。実践の文脈から抜き出した形で英語だけを勉強すると、あまり効率的でないことが多い。特によく学校でやっている「学んでから練習する」というスタイルは、テンポが悪くなりがちで練習が意味を成さないことが多い。テレビで「使える英語」のフレーズばかり覚えても、肝心な時には使えない。
あなたが英語教育の提供者であれば、ある文脈の中でコミュニケーションをとる練習をいかに積ませるかが重要で、その考え方が欠落した教育は時間とコストの浪費なのでやめた方がよい。
あなたが学習者であれば、通じないのを何でも英語のせいにしていると、ストレスになるし、学習の的を外すこともあることに気をつけた方がよい。逆に少し目先を変えることで通じるようになることも多い。英語の力をつける、という漠然とした目標よりも、「パーティトークを磨く」とか「医者に自分の状態をきちんと説明できるようにする」など、何でもいいので自分の関心に合った具体的なテーマを持って臨んだ方が結果的に上達は早いし、文脈の中でコミュニケーションをとる力も一緒に身につけやすい。
どこにでもある「あるある」問題
ここしばらく、日本では「あるある大事典」の捏造問題で大騒ぎになっているのをネット上のニュースでよく目にしている。発端となった納豆だけでなくて、味噌汁もあずきも実験データはインチキだったという話で、今までの放送の信憑性そのものが疑われ始めていて、さらには同様の健康情報番組にも疑惑の目が移っているという状況には、情報源の多い日本の皆さんの方が詳しいと思うので説明の必要はないだろう。
データの捏造については、実験の方法やデータの集め方をいちいちあげつらえば、いくらでも難癖は付けられる。すでに世の空気がバッシングに傾いているため、今までスルーしてきたことがすべて今明るみに出たような風に取り上げられ、「なんてひどい番組だったんだ」という社会的な評価を下される。実験に参加した人たちや、コメントを取られた専門家たちも、ここぞとばかりに「私はずっと怪しいと思っていた」などと言い出す。これは「不二家の期限切れ原料使用問題」でこれまでの問題が掘り起こされて批判的風潮にさらされているのと状況は酷似している。
いただけないのは、みんな被害者面をして叩けばいいと思っていることだ。視聴者は「だまされた」と口を揃えて言う。視聴者の問題は多分に情報リテラシーの低さの問題に起因している。むしろこのような極端な情報に影響され過ぎる風潮に水が差されて、こういう話を安易に鵜呑みにしてはだめだという社会的な教訓となってよかったと思う。楽してやせようとか、苦労せずに得しようというような、虫のよい話はインチキだったり裏があったりするのが常なのだし、納豆代程度の被害で教訓を得たのだからありがたいと思うべきだろう。
さらに根が深いのは、被害者面をしているテレビ局や広告代理店、スポンサーなどの提供者の側だ。彼らもただ制作会社を悪者にして言い逃れをし、今後このようなことが再発しないようにと、おそらくは制作会社をさらに締め付ける方向で社会の関心をそらしてやり過ごすことだろう。
だがここには、テレビ業界のシステム的な問題があり、さらには他の業界や日本社会全体に共通する問題が内在している。図式としては、強者や支配者による被支配者の締め付け的な構図に起因していて、その中ではいかに成功しようと失敗しようと、最終的には誰も報われない構造になっている。テレビの世界では、番組が当たれば視聴率が上がり、その番組からの収益が上がる。収益が上がれば制作側への期待とプレッシャーは高まる。同じレベルの刺激では視聴者に飽きられてしまうので、さらに刺激の強いものが制作側に要求される。期待の上昇に見合った予算やリソースが提供されるわけではなく、要求だけが高まる。無理をして結果を出すのも長続きはせず、結局は今回のような実験データの帳尻あわせに走り、それが慢性的な不正体質化につながる。中途半端にヒットを飛ばしてしまうと、この構造の中でブレイクダウンを起こすまで消耗させられるため、平凡な仕事しかできない場合よりも、最終的には不幸な結果につながるリスクは大きくなる。
この構図は、テレビ業界だけでなく、どこにでも見られる。高校の必修科目未履修問題も根は同じだ。大学受験で結果を出すことが評価につながり、行政から降りてきた施策への対応も同時に求められ、現場レベルではパンクする。結果として、現場レベルであまり目立たない形で帳尻を合わせようとして安易なソリューションに走る。隣の高校でそんなことをしていると聞いて、ではうちも、という形で次々に伝播する。暗黙の了解とされていたものが、あるタイミングですべて明るみに出て、学校が悪者となり、批判が集中する。
まっとうで普通に仕事のできる人間も、ずっと締めつけられて無理を強いられ続ければ、創造性は枯渇して仕事のクオリティは下がるし、限界を超えればどうしようもなくなって不正に走りやすくなる。あるいは精神に異常をきたしてしまうか、最悪なケースでは死を選んでしまう。視聴率だけを追い求めて、制作側にキャパシティを超えた負担をかけ続ければ、このような抜け道を考え出して、間に合わせようとする事態は容易に起こる。スポーツ選手も周りの期待が過度すぎて追い詰められればドーピングで切り抜けられるような気がしてくる。売れっ子の作家も仕事をさばききれないままにプレッシャーだけかけ続ければ、ちょっとだけのつもりで盗作に走って泥沼にはまる。学校で安易に民間校長を呼んで教育委員会と教員組合の間で板ばさみの状態で放置すれば、思い余って死を選びたくもなる。
どんな組織にも、似たような構造はあって、これを変えていかない限り、このあるある大事典のような問題はあちこちでいくらでも起こる。明るみに出たものだけを批判しても状況は改善せず、監視を強化するという安易な対策は、社会的コスト増と現場レベルの生産性を下げることにつながるだけで、よい結果につながることはまずない。
問題の根源には、作り手のモチベーションが軽視されていることがあるし、個人も組織も、社会全体が何か魔法のようなお手軽なソリューションを求める風潮もある。期待だけしていれば誰かがすごいことをして助けてくれるのではないかという受身な姿勢や、問題があっても見て見ぬ振りをしてやり過ごす姿勢もある。
そんな状況ではどんな成果を出そうと、誰も報われないし、むしろ下手に成功してしまうと、そんな破綻へのレールに乗ってしまいやすい。そして問題が顕在化してきた時にはもう手遅れとなっている。これは他人事ではなく、誰の身にも起こり得る。だが、残念ながらこの状況は容易には変わらず、個人はその中で生きていくことを余儀なくされる。個人レベルでできることは多くないが、まず大事なのは、少なくとも自身がそのような状況下に身を置いているということを認識し、不正や破綻への道が目の前に広がって来た時に見えるシグナルを見過ごさないようにすることだろう。
「しゃべる!DSお料理ナビ」 レビュー
少し前に日本で入手した「しゃべる!DSお料理ナビ」を最近よく利用している。このレシピを参照しながらここ一週間で、自分のレパートリーからは微妙に外れていた、肉じゃが、玉子スープ、ポテトサラダを作ったし、ネタに困った時のアイデア出しにも活躍している。
このソフトは、ニンテンドーDS用のお料理レシピソフトで、200種類ほどのレシピを利用できる。紙媒体のレシピには、検索の便利さで勝っていて、従来のマルチメディアレシピには、持ち運びの便利さで勝っている。検索の方法も、料理名、食材別、テーマ別などの複数の方法が提供されている。DSのハードの特長であるペン入力が活きていて、操作性もよくて快適に利用できる。ソフトの名前の通り、料理の手順を読み上げてくれるので、読まないといけない情報量も少なくて済む。
一般的にレシピの用途は、主に「料理のアイデア出し支援」という探索的用途と、「作りたい料理を作るために必要な情報提供」という検索的な用途があると思う。前者は紙媒体のレシピも結構強い。きれいな写真つきのレシピをパラパラと見ていれば、そのうち作ってみたい料理が見つかる。だが、後者の方は紙媒体だとあまり用を足さないことが多い。目次や索引が食材別、テーマ別、場面別など細かく分かれていても、もう一つ使い勝手が悪いし、情報を盛り込めばその分だけ重くなって使いにくくなる。
また、料理を作る場合、かなりハードコアに料理が趣味な人でない限りは、レシピがルーチンとして生活に入り込むのはなかなか難しいと思う。普段は手持ちのレパートリーのローテーションでレシピを参照する必要はない状態で、あるときふとテレビを見ていてうまそうな料理が出てきてから作ってみようと思ったとか、ジャガイモが余っていて悪くなるから使い切りたい、などの動機から始まる。そのためあるとき思い立ってカッコいいレシピを買ったとしても、本棚でほこりをかぶって忘れ去られるということになりがちで、たまに本棚から引っ張り出して使ってみても、使い慣れていないのでかえって効率が悪くなる。レシピのCD-ROMソフトウェアは、さらに面倒で本よりも使われる頻度は下がる。かろうじて、レシピ情報ウェブサイトは、その検索性の高さのおかげで利用されやすいが、いざ使うときは紙にプリントアウトして持ち運びよくする必要が生じる。
この「しゃべる!DSお料理ナビ」は、その辺りのデザイン上の課題をうまく消化していて、ユーザーの行動にあったデザインを提供できている点が優れている。料理のアイデア出しのためにパラパラとめくることもでき、手持ちの食材を入力して、それで作れる料理を検索できる。キッチンに持ち込んで、手順を参照しながら利用することもできる。DSでレシピという新規性だけでなく、この辺りの利便性が付加価値となっていることが人気の理由の一つになっていると想像できる。
学習支援的な要素も多い。作ったことのない料理を、手順通りに作れば美味しくできるというのはもちろん実現している。さらに、「お料理事典」として、切り方や下ごしらえの方法を項目別にしてあって、「たんざく切りってどうやるんだろう?」、「ごぼうのささがきってってどうやるの?」といった技術的な疑問も実演映像を見ながら解消できる。手持ちのレパートリーの料理においても、それまで我流で適当にやっていたところを、より簡単な方法やもっと上手に味を調える方法を教えてくれたりするので気づかされることも多い。以前は特に火加減調節はあまり気にせずに作業することが多かったが、レシピの指導のおかげで気をつけ方がわかってきた。
いくつか利用上の制約はある。実際にキッチンにおいてみると、結構水が飛んでDSがぬれることもあるのが気になる。それに音声認識が包丁でトントンと野菜を切る音を拾ってしまい、ナビゲーションのシェフのおじさんが「ん?」といちいち反応してくる。次に進む時は「オッケー」と言ってページをめくるのだが、これも途中でうざくなってペン入力でバシバシ飛ばして進むようになってしまう。この辺りは、キッチンで利用することを想定して作られていても、100%想定通りに機能しているわけではない。
それでも、これまでのいかなるレシピ媒体も凌ぐ利便性を提供しているし、マルチメディアレシピソフトウェアとしては、媒体ごとキッチンに進出できた初めてのレシピソフトではないかと思う。
つい先日、コーエーが「しゃべる! DSお料理ナビ まるごと帝国ホテル」を発売すると発表された。これも本作の利便性を踏襲しつつ、家庭で帝国ホテルの有名レストランの料理を作れるようにアレンジしたレシピが提供されるということなので期待できる。
このソフトに見られる、「ゲーム会社が主導して、ゲームで培ったインタラクティブメディアのノウハウを活かして、従来は接点のなかった業界と協力して社会に付加価値を提供する」という動きは、欧米ではシリアスゲームの枠組の中で起こっていることだが、まだコンシューマ市場でのビジネスモデルを確立するには至っていない。その一方で日本では、シリアスゲームの普及より先に、その精神とするところがよく実践され、ビジネスモデルも示されている。この辺りに任天堂をはじめとする日本のゲーム会社の持つ強みは活きており、高度な大作ゲーム分野で敗色が濃くなっている日本のゲーム会社の活路の一つがここにあるのかもしれない。