ゲームをプレイすると、さまざまな知識やスキルが身につく。これまでは、「何となく身についている気がする」感覚でしかなかったものが、ゲーム研究者によって徐々に概念的に整理されて、学術的な言葉で説明されるようになってきた。
最近、翻訳書が出たおかげで広まったのは、スティーブン・ジョンソンの「ダメなものは、タメになる テレビやゲームは頭を良くしている」のなかで触れられている、「プロービング(probing、調査)」と「テレスコーピング」という認知的スキルだ。「プロービング」とは、ゲームを始めて、そのルールや目的、コツを理解するための調査行動、「テレスコーピング」とは、目的達成のための行動を構造化して順序だてる知的作業のことを意味する。
インベーダーやパックマンのような昔のアーケードゲームやテトリスのような単純なパズルゲームであれば、ルールも目的もすぐに理解できるため、プロービングもテレスコーピングも不要だ。ところが最近の大作ロールプレイングゲームやリアルタイムストラテジーゲームのような複雑なゲームになってくると、ゲーム世界は広大で、与えられる情報も膨大、複数の目的やタスクが同時に進行するものが多い。そうなってくると、上手くゲームをプレイするためには、インベーダーをやるような感覚とは全く違った高度な情報処理が必要になってくる。
プレイヤーは、そのような複雑なゲームの世界で、自分のおかれている状況や次に何をすればよいかを把握するための調査行動を取って、その世界のルールや自分が取れる行動の範囲、次に行うべきことを見出す。その次に、取れる行動の中で、目的に合わせて最適な行動を取るためにはどの順番で行なえばよいかを大目的、中目的、小目的と構造化して、制約条件を勘案しながら順序立てる。地点Aに行くのがゴールとして、そこに行くためには地点Bに行って地図を手に入れ、途中の地点Cに出てくる敵を倒すために必要なアイテムを地点Dで手に入れ、そのアイテムを手に入れるための条件を地点Eで満たし・・・といった具合に、作業工程がガントチャートのような形で頭の中にマッピングされる。
ゲームの初心者は、このプロービングもテレスコーピングもできないままにプレイすることを余儀なくされるため、目的到達までに余計な労力と時間を要する。慣れてきて上達してくると、ゲームの勘所がわかってきて、無駄なことをせずに必要な作業に労力を集中することができるようになる。
この二つのスキルは、日常生活において未知の環境で必要な情報を見つけ出したり、複数のタスクを与えられても混乱せずに効率よく仕事を進めるために必要なスキルそのもので、斉藤孝の言うところの「段取り力」に近い概念だと言える。問題は、ゲームの中で身につけたこれらのスキルが他の環境に置かれた時に引き出してこれるような、「メタ化された知識」として定着させられるかにかかってくる。
一つのゲームに熟達することで、他の同じジャンルのゲームでも上達が早まるということが起きるのは、そのジャンルのゲームを一つの領域とした知識(ドメインナレッジ)が蓄積された状態になっている。それを異質な環境や全く異なる領域でも利用可能な知識にするには、ドメインナレッジをもう一段階押し上げて、メタ化する必要がある。部分的な知識をドメインナレッジ化して、さらにメタ化した知識にするような認知的変容を、教育学的には「学習の転移」と言い、学習の転移を起こす学習原理や教育方法の研究は、長年にわたって取り組まれてきた。
ゲームで身につく知識は、普通に一つのゲームだけ熟達しても日常生活や他の領域で使える知識にはなりにくい。知識を領域化し、メタ化を促す作業が必要となり、なかでも特に個人の学習行動の中では振り返りや省察と呼ばれる行動に支えられる要素が大きいと思われる。そうした学習行動を起こすには、ゲームの中でそのようなサポートをするゲームが出てきてもよいし、ゲームの外で行われる学習活動を支援する活動の中で消化するということも可能だ。そのために重要になってくるのは、ジョンソンが指摘しているように、昔のゲームのイメージで今のゲームを捉えないことであり、ゲームの中で起きている知的作業の意味を捉え直していくことだろう。
※プロービングとテレスコーピングの詳細は、次の文献を参照。
教育評価の7つの落とし穴
どの分野の研究でも似たようなものだと思うが、教育分野の研究においては、新たな教育方法や、開発した教材、デザインした学習環境のもたらす効果に対する評価が問題となる。評価の観点は、その教育・学習活動に参加した学習者の学習の成果、デザインされた環境や制作物の使い勝手や利用者の満足度、得られた成果と実施にかかる費用の対比、などがよく取り上げられる。
新たにデザインした教育方法や学習環境が優れていることを説明するには、これらの評価項目において何らかの優れた点を実証することが求められる。新しい教育方法、教材への批評はまず、評価面が指摘される。「どうやってその効果を測定して評価しているのか?」と質問すれば、とりあえずは形になるので、その質問を言い放って威張っているだけの人たちも学会に行けばたくさんいる。だが、だいたい評価云々しか言うことのない人のほとんどは、自分自身が評価というものを理解しているわけではないことが多い。
教育評価は簡単ではない。複雑な要素が絡み合っていて、一般に考えられているほど簡単には適切な評価を行うことはできない。さらに今までにないような教育方法を評価しようとすると、なお困難が伴う。それは次のような状況から生じている。とりあえず、「教育評価の7つの落とし穴」と名づけて列挙してみる。
<教育評価の7つの落とし穴>
1. 評価(Evaluation)を行うには、測定(Measurement)を適切に行う必要があり、測定を適切に行うには、評価の軸を明確に持っておく必要がある。評価の軸を持たずに測定を行っても、評価に必要な材料は集まらないし、そもそも適切な評価などできない。
2.測定は、測定者の想像力の及ぶ範囲のことしか測定できない。デザインした時にはやや漠然としていて測定項目に仕立て上げられなかったことや、想定していなかったことは、測定指標には盛り込まれず、予期していなかったよい効果が生じてもそれを学術的な正統性を主張できる形で説明するのは困難になる。これは評価全体について言えることで、評価者の想像力の及ぶ範囲のことしか評価できない。そのため、評価者がヘボければ、ヘボい人の頭で理解できることしか評価されない。
3.測定は、測定・評価者のスキルの及ぶ範囲のことしか測定できない。評価する側が学力テストや質問紙しか測定方法を知らなければ、その方法で測定できるものだけを測定して、そこからあぶれてしまう学習者の質的変化や相互学習の質のような要素は説明できない。授業観察などの手法を取り入れる場合も同様で、観察者の技量を超えるデータは得られない。
4.測定は、測定を行う人が得意な方法や、評価者が好む方法で行われる傾向にある。そのため、テスト理論の専門家ならペーパーテスト、質問紙調査の専門家なら質問紙による学習者調査、と自分の得意分野でメインの仕事が行えるように研究自体が設計される。そのため、研究の趣旨によって純粋に測定方法や評価項目を決めるのではなく、測定しやすいことや評価者が扱いやすいことに影響されて決められてしまうことが多い。
5.ある研究分野の専門家は、必ずしもその分野の教育測定の専門家とは限らない。むしろ測定の専門知識と経験を持った人は稀少であり、学部でかじった程度の素人知識を頼りにぶっつけで測定を行うことのほうが多い。テスト理論はある程度ノウハウが普及しているので信頼性や妥当性の安定を図ることができるが、質問紙調査の方は専門性がなくてもできそうな気がしてしまうため、いい加減に実施されることが多い。
6.測定は、その活動の状況に依存する要素が大きく、科学的再現性を証明するのは困難が常に伴う。教室の気温がちょっと寒いとか、教師が使うマイクの電池が途中で切れたせいで教室の緊張感も切れたとか、ちょうど昼飯前で学習者の腹が減っていたとか、昼飯後に実施したのでみんな眠かったとか、パソコンが原因不明のフリーズを起こしたとか、翌日に何かイベントが入っていて、学習者が気もそぞろだったとか、成果を変動させる要素は無数にある。そのため、たまたまコンディションのよいときと悪い時で、測定結果は大きく変わる。ゆえにその結果を基にした評価の結果もブレが大きくなる。統計的手法は、より科学的に分析してそういうブレを小さくするために用いられるが、多くの場合、統計的有為というのは、論文が学会誌で採択される程度の説得力を与える存在に過ぎない。
7. 高度なハードウェアを使用した測定方法は、それだけで信頼性ある測定ができているような「科学への過信」に影響される傾向がある。何でも脳をスキャンすればよいわけでもないし、スキャンした結果の解釈も、多くの要素を考慮に入れて行われる必要があるので、誰が見ても一つの解釈に落ち着くとも限らない。それに高度な設備が利用できる場合、そういう設備を利用することを前提に評価方法が決まり、それに影響されて研究そのものが設計されてしまって本末転倒になることもある。
今はとりあえず思いつくのは7つだが、おそらく考え出せばもっとあると思う。問題は、一般人はもとより研究者も、こういう落とし穴があることを考えず、とりあえず評価、評価と言っていれば何か仕事をしたような気になっていることだ。測定も評価も専門知識が必要で、必要な知識を持った研究者というのは驚くほどに少ない。
数千万、数億円規模の研究プロジェクトにおいて、必要な評価の知識を持った人がいないまま、適当な測定とお茶を濁すような評価が行われて、何となく使えない研究成果に終わるような例も見受けられる。というか、残念ながら大学の研究プロジェクトというのは、耳障りのよい研究計画書を書いて資金獲得してきて、プロジェクトメンバーに予算配分されたら、そこでやれやれひと段落、というものばかりで、成果として社会で何かの役に立つようなまともなものが出てくることはほとんどないといった方がよい。
そうなってしまう事情は、大学というシステムに起因する問題から生じている面が大きく、研究者は両手を縛られた状態でいい成果を出しなさいと言われているような状況にある。なのでこれは個々の研究者を責めてもしょうがない性質の問題だと考えた方がよい。誰だって外部資金の無駄遣いをしたいわけではないし、自分で選んだキャリアにおいてよい仕事がしたいという想いは変わらないだろう。
このような寒い研究環境から抜け出すための方策としては、評価の専門知識をもった人材を適切に配置できるようにすることで、そのためには評価に対する世の中の甘い認識を変えていく必要があると思う。少なくとも、今の研究者育成環境の中では、適切な知識を持った評価者が生まれることはなくて、たまたま評価に関心を持った研究者が一部いるだけである。特に質的測定や評価がまともにできる人となるとさらに数は限られる。きちんとした教育評価の知識を持った人が一定数以上世の中で活躍するように手を打っていけば、そこから教育分野の研究の質も上がり、各分野の教育活動の改善にもつながるだろう。
アメリカンアイドルシーズン6開始
「24」に続き、全米視聴率ナンバー1の歌手オーディション番組「アメリカンアイドル」シーズン6も今週から放送開始された。この番組もこれまでのシーズンと同じフォーマットを踏襲している。最初の数週は全米各都市でのオーディションの模様、次の数週を勝ち残った参加者がハリウッドでの2次予選に進み、上位12人での決勝からは毎週一人ずつ脱落していって優勝者がアメリカンアイドルとなる。
毎シーズン、優勝者と準優勝者はメジャーデビューしてアルバムをリリースしていて、決勝に残ったうちで人気があったもう一人二人もデビューを果たしている。決勝に残った挑戦者の多くはプロとして十分通用する歌唱力を持っているが、この番組の持つ独特のノリと勢いによって下駄をはいている面が多分にある。番組が終われば熱狂に支えられたマジックは消えてしまい、一発屋で終わろうとしている人たちもいれば、人気を保ってそのままアイドルとしての地位を確立しようとしている人たちもいる。シーズン1優勝のケリー・クラークソンやシーズン2準優勝のクレイ・エイケン、シーズン4優勝のキャリー・アンダーウッドはトップアイドル入りを果たしている。Wikipediaを見ると、他の優勝者やメジャーデビューを果たした上位入賞者の何人かは数十万~100万枚のアルバム売上を挙げている。番組のマジックに依存していた人たちはメジャーデビューは果たしたがCDの売れ行きが伸び悩んでいる。そんな人たちはメジャーでシンガーとしてそのまま生き残るのは厳しそうだが、俳優や司会業、地域のアイドルなどの道を模索する人もいる。なかにはつい先日、映画「ドリームガール」でゴールデングローブ助演女優賞を受賞したジェニファー・ハドソンのような大成功例もある。いずれにしてもオーディションのおかげで開かれた、新たなキャリアの歩を踏み出していることには違いない。
番組のシーズン後半は、そうしたアイドルの卵たちが毎週競って成長していく様子が番組の売りになるが、シーズン当初の数週の番組の売りは彼らではない。自分の実力を省みずに自分が次のアメリカンアイドルになると信じて疑わず、恥ずかしいパフォーマンスを披露してジャッジに酷評されては消えていく人々の滑稽さである。見ていると、アメリカの広さといろんな人が生きていることをしみじみと考えさせられる。
自分のことを客観視する力がなく、痛い目に遭う機会もなく公共の電波でネタにされてしまう人たちは、気の毒といえば気の毒だ。あきらかに実力がないのに、家族や音楽の先生に励まされて参加してきて、ジャッジに酷評されて激しく傷ついて帰っていく人たちは見るにいたたまれない。
競争環境での経験がよい学習の機会となる面はある。だが、競争の中で学べるのはそのための準備のできている人たちだけで、それ以外の人たちにはよい経験どころか逆効果でしかない。歌が好きな人でも、こんなところに出てきてひどい目に遭えば、それがトラウマとなって好きな歌が嫌いになってしまう人も結構いることだろう。
競争のなかでやっていける人と違って、その準備ができていない人は、次の自分の学習課題を把握する力量もなければ、厳しさに耐える耐性もない。そういう人は、そもそも競争に身をさらそうなどと考えずにカルチャースクール的な平和な環境で気楽に楽しみながら学ぶか、上を目指すのであれば競争環境に放り込んでも大丈夫なだけの準備的な学習機会を提供する必要がある。
アメリカンアイドル自体は教育番組ではないので、そんなことはお構いなしで視聴率が取れれば問題はないし、自己認識と実力にギャップの激しい人ほど観ていて滑稽で視聴者には受ける。なので番組のスタイルに異論があるわけではない。でも教育的な観点で見ていくと、少し違ったアレンジができる。それにそうした低レベルの参加者を切り出す形でもう一つ二つスピンアウト番組の企画ができる。そんなことを考えつつ、無数に出てくる下手くそな人たちの様子を見ていた。
「24」シーズン6開始
今週から「24」シーズン6の放送が開始された。2時間の放送を二日連続。これでもう今シーズンも目が離せなくなってしまった。
内容について書くのはやめておくが、基本的なシナリオの型はこれまでのシーズンと同様で、最悪の選択の中で苦渋の選択をして、結局は大きな犠牲を出したり、絶対いなそうなところに裏切り者がいたり、良かれと思ってやったことがものすごく裏目に出たり、テロリストにも事情があったり、不運なご近所家族が災難に遭ったり、テロリストと政治取引をしたり、過去に犯した罪のしっぺ返しを受けたり、こんなことになったら終わりじゃないか、と思ったらまださらに大変な問題があって話が続いたり。基本的にこの作品で確立した型を踏襲している。
見ていて力が入るので、肩が凝る。展開が速いので、英語で話を追うのが大変だというのもあるし、ずっと緊張感が続くので見ていて気疲れする。見終わった後に変な気の高ぶりが残った感じで、やや身体に悪い気がする。それでも見てしまう。そして見終わって、なんとも言えないやるせなさが残る。人の業の深さというか、仕方無しに犯してしまう罪に結局は足を取られて、みんなが不幸の連鎖に陥って誰も救われない様子を見続けさせられる。安っぽい勧善懲悪ではなく、善の方もろくでもないことをするし、悪の方もいろいろな事情を抱えている。不運が人の関係をすれ違わせることもある。
パターンが同じで、スケールが大きくなるにつれて時間感覚がおおざっぱになってきているところはあったとしても、この手のドラマの中では群を抜いて質が高い作品であることは間違いない。前のシーズンでハマった人は、また今シーズンも楽しめるのも間違いないだろう。
ブログの掃除
少しブログの整理をしました。カテゴリーを整理し直して、大昔に作ってそのままにしていたおすすめ本紹介をエントリー化して一覧できるようにしました。
留学のタイミングでWebサイトを開設したので約4年半、ブログに移行してから3年半程経ってて、エントリー数ももう600ほど。最初の頃に何となく付けたカテゴリーが時間とともに意味を成さなくなっていたので、まずはカテゴリーを少し修正して、エントリーを整理し直した。
次に、大昔に作ったおすすめ文献リストがそのまま残っていたのを片付けた。昔はフロントページなどを使って1ページずつ管理していたのでずいぶん手間だったが、ブログやオンラインで提供されているツールのおかげで作業はずいぶん楽にできるようになった。ほんの数年前のことなのに、隔世の感がある。
たったこれだけでも3時間くらいかかってしまい、集中しすぎて疲れたので、続きの作業はまたいずれ。パッと見はほとんど変わってないのだけど、散らかった仕事場を整理してすっきりしたようなそんな気分になった。
北米版クソゲーワースト10
雑誌「PCワールド」のカナダ版で、「The 10 worst games of all time」という記事が出ているのを見かけた。ベストゲームだったらグローバルによく知られたゲームが出てくるものだが、ワーストとなるとローカル色が豊かになって、知らないゲームばかりになる。カナダのパソコン雑誌の記事なので、これは北米版クソゲーワースト10。軽く取材して書いたような半分ジョークの雑誌ネタなので、話のネタ程度に軽く読んでください。
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1. E.T.: The Extra-Terrestrial (Atari, 1982): Atari 2600
2. Super Columbine Massacre RPG (Danny Ledonne, 2005): Windows
3. Custer’s Revenge (Mystique, 1982): Atari 2600
4. Daikatana (Eidos Interactive, 2000): Windows, Nintendo 64, GameCube
5. Pac-Man (Atari, 1981): Atari 2600
6. Smurf Rescue (Coleco, 1982): ColecoVision, Atari 2600
7. Shaq Fu (Electronic Arts, 1994): Sega Game Gear, Sega Genesis, Super Nintendo, Amiga, Game Boy
8. Make My Video (Digital Pictures, 1992): Sega CD
9. Prince of Persia: Warrior Within (Ubisoft, 2004): PlayStation 2, Xbox, GameCube, Windows, cell phone, PlayStation Portable (as Prince of Persia: Revelations).
10. Elf Bowling (NStorm, 2005): Nintendo DS
ランク外
Death Race (1976)
Microsoft Bob GeoSafari (1995)
Postal (1997)
Deer Hunter (1997)
The Typing of the Dead (2000)
The Howard Dean for Iowa Game (2003)
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こうしてみると、「ユーザーの期待と現実のギャップの激しさ」を演出したゲームが「記憶に残るクソゲー」として思い起こされるようで、これは日米同じというところだろう。パックマンがランクインしているのは、Atariの移植版があまりにも出来が悪くてユーザーをがっかりさせたゲームだから。Daikatanaは、Doomをデザインしたことで有名なクリエイターの次回作ということで期待させながら延期でさんざんファンを待たせた挙句に失敗作が出てきたということらしい。
あとは、「作りこみの甘い安易なタイアップ、キャラクターもの」、「人気ジャンルを追従して大失敗」、「実験的な挑戦にコケた」、「どうしようもなく見るに耐えない品のなさ」という要素のいずれかがここに挙げられた理由となっているように思われる。
栄えある1位となったETはもちろんのこと(当時のテレビCMを見ると、手にした人の落胆ぶりが想像できる)、7位は人気バスケットボール選手のシャキール・オニールを使った格闘ゲー。タイトルからすでにグダグダな脱力感にあふれている。10位はクリスマスのサンタのボーリングゲームで、これも一応キャラクターもの。「人気のニンテンドーDSで、クリスマスものを出せばそこそこいけるだろう」という感じの企画の安易さがにじみ出ている。ダメなゲームというのは、どこの国で作られていてもそんな感じで、今や日本のDSマーケットにもそういうのは山ほど出ているだろう。初代ファミコンの頃はそんなのばっかりだったし。
これらのゲームは幸か不幸か、クソゲーとして人々の記憶に残っているが、人目に触れず、話題にもならずひっそりと消えていった、誰も思い出してもくれないようなクソゲーがこれらの陰にたくさん存在する。安易な企画で適当に作られた、ユーザーの時間を浪費するだけでしかないゲームはクソゲーの名に値するし、ここにランクインしているゲームは、どうもそういう臭いのするゲームばかりだ。しかしその一方で、作った人たちが夢や想いを込めて世に送り出したけれども、何かの不幸が重なってクソゲー認定を受けてしまったゲームも数あることだろう。それは作った人たちの気持ちに思いを馳せると、いろんなドラマが想像されて泣けてくる。なので、一概にどれもこれもクソゲーと言ってバカにすることもできない。食べ物にはお百姓さんや料理した人の想いがこもっているのと同じく、ゲームにも作り手の開発者たちの想いがこもっていることを忘れてはいけない。
あと一つ目を引くのは、The Howard Dean for Iowa Gameがランク外で登場していることだ。これはシリアスゲームの事例としてよく知られる、米大統領選挙キャンペーン用の広報ミニゲームである。ここにリストアップされているゲームの中で唯一のウェブゲームで、わざわざ取り上げられているところは、それだけ認知度はあったということなのだろう。一発芸的な狙いで即席で作られた低予算ゲームなので、こんなところで取り上げられるくらいにまで知られたのであれば、クソゲーと言われても作った側としては狙い通りといったところだろう。
参照記事:
http://www.pcworld.ca//news/column/e73b0b190a0104080187a604e28f6492/pg0.htm
「セカンドライフ」世界を理解するための本
最近日本でも話題になっているオンライン社会生活シミュレーションセカンドライフの公式ガイドブック「Second Life: The Official Guide」はアマゾンの洋書ランキングで36位まであがっていた。テレビでも紹介されたりし、ゲーム系以外の講演イベントで開発者が呼ばれたりして、関心が高まっているとは聞いたが、たしかにすでに人気の「洋ゲー」といったレベルを超えて、一般に普及している様子がこの辺りにも現れてきている。
このガイドブック、「地球の歩き方」のような旅行ガイド風で、セカンドライフの世界を旅してみるにはちょうどよい。英語だけど読み易いので、セカンドライフの日本語版が出る前にヘッドスタートを切りたい人や、すでに始めているけど今ひとつ入り込めないという人にはちょうどガイドになる。私もセカンドライフは土地を持たずにたまにイベントを見に行ったり、名所散策するだけの超カジュアルユーザーなので、知らない情報がたくさん載っていて重宝している。
このガイドはセカンドライフ自体を理解するのにとてもよい本だが、セカンドライフに興味のある人にはその世界の背景を知るための文献として「スノウ・クラッシュ(ニール スティーヴンスン 著、早川書房)」をおすすめしたい。バーチャル世界「メタヴァース」と現実世界を行き来しながら展開するSF小説で、1992年に出版されてベストセラーとなった。セカンドライフの開発者たちはこの小説に大いにインスパイアされて、かなりの部分をこの小説で描かれている「メタヴァース」をモデルとしているので、その意味ではセカンドライフの元になった作品とも言える。SF小説が未来世界のイメージを人々に伝えるという役割を果たしているが、この作品もそういうところを大いに兼ね備えている。
バーチャル世界のイメージを映画「マトリックス」のような感じで捉えている人には、さらに豊かなイメージを持つことができるだろう。マトリックスはかなり影響を受けていると思うし、日本刀を振り回す主人公の描き方は、タランティーノが「キルビル」でやっているところに通じる。
セカンドライフの周辺にいる人たちが「メタヴァース」と言っているのを聞いて、あぁなるほど、と反応している時は、この小説に描かれた世界を共有している。なので、少しセカンドライフにはまってみようと思っている人は、こちらも合わせて読んでみてください。
The Apprentice LA
一月も二週目に入り、テレビ番組も通常の編成に戻ってきた。ゴールデンタイムのドラマ番組は、みんなシーズン途中でクリスマス前に一休みしていたのが、徐々に再開している。Friday Night Lights、Boston Legalは今週から始まり、Prison Break、Heroesなどももうすぐ再開する。「24」シーズン6は来週から始まり、アメリカンアイドルも新シーズンの放送が始まる。
ドナルドトランプの弟子の座を争うリアリティショー「アプレンティス」もLAに舞台を移してのシーズン6放送開始となった。「You’re Fired」が流行語となるくらいに話題となったこの番組も、マンネリ化して新鮮味を失ってきていた。Wikipediaには視聴率の変遷が出ていて、回を追うごとの人気低下がはっきり現れているが、英国をはじめ、世界各国で同じフォーマットの番組が制作されていたりして、影響力は大きいといえる。前にも書いたように、この番組はトランプ自身とスポンサーの大手企業のインフォマーシャル的要素が強いので、営業面の強みが番組の継続につながっている面は大きいことが想像できる。この後のシーズン7もすでに制作が決まっているとのことだ。
今シーズンは、視聴率回復のために、いくつかのルールを変えて演出のフォーカスを変えることで、刺激を加味している。ロケ地をLAに移したことはまず一つ大きな変更点。それから勝者と敗者の待遇格差を拡大したこと。勝者は豪華マンションに滞在できるが、敗者は庭のテント暮らし。勝った方のプロジェクトマネージャーは翌週もプロジェクトマネージャーを続けることができ、敗者を決めるボードルームでトランプに助言を送ることができる。
一週目の放送は、これらの変更点がうまく機能して目新しさを出していた。それに加えて、今シーズンから、これまで準レギュラーだったドナルドトランプの娘、イヴァンカがアドバイザーとしてレギュラー出演するようになった。彼女のキャラクターが番組の面白さをかなり盛り上げているところがあって、この辺りは演出の作戦が成功しているように見える。彼女が「トランプの娘」というポジションに期待されるところをよく理解しているのかそれとも素なのか、トランプや前任のキャロリン(先シーズン終了後、彼女自身トランプにクビにされて、今度はビルゲイツのリアリティーショーで雇われたそうだ)以上に激烈なコメントを加えて、いい味を出している。
毎シーズン、挑戦者は多彩な顔ぶれである。弁護士、ネットベンチャーや不動産会社の経営者、コンサルタントなど、こんなところに出てこなくても十分成功しそうな人たちや、明らか自分のキャリアの歩を誤っていて、トランプの会社にはどう見ても合わなそうな人や、ここでみっともない負けっぷりをさらして、その後のキャリアは大丈夫なのかと心配してしまうような人たちが、毎度毎度懲りずによく出てくるものだと思う。挑戦者の素人さんたちの豊かなキャラクターも、この番組が続いている成功の要因の一つになっている。
DDRとWiiでエクサゲーミング
普段は大学のプールに通って泳ぐのを日々の運動の中心にしているが、冬休みの間は休業中なので泳げない。たまに外を歩いてくることもあるが、それほど運動量は高くないし、天気が悪いと行えない。そういう時には身体を動かす系のゲームが重宝する。
昨年の冬はEyetoy: Kineticが威力を発揮したが、最近はすっかり飽きてしまって、たまに筋トレのガイド(インストラクターが指示を出してくれるのに合わせてやると、良いペーシングになる。でもこれではフィットネスDVDとなんら変わらない)として使うだけになってしまった。
この冬は我が家にもWiiスポーツが新たに投入され、結構良い運動機会を提供してくれている。ボーリングやゴルフは大して運動にならないが、ボクシングはちゃんと振らないと勝てないので懸命に振り回しているうちに汗だくになり、結構な運動量になる。運動不足がたたり、今話題のWii痛も経験した。
ただ、これは上半身の運動にはなるものの、下半身はほとんど使わない。なので下半身の運動用にと、使わなくなっていたDDRを再登場させることにした。
部屋で一人でDDRをやっているのもやや微妙な気もするが、まあぶら下がり健康器でもゆりっこでもなんでも、家庭用フィットネス器具を一人で使っている姿はどれも微妙だし、別に人様に見せるものでもない。フィットネスクラブで他の人と一緒にエアロビをやる煩わしさと比べれば、私は個人的にこちらの方がまだましである。自分のペースでやれて、運動量という結果が伴いさえすれば、他者との交流をここには求めていない。このあたりのゲームでエクササイズすることにまつわる個人的な葛藤は、まだエクサゲームのマイナーさを物語っているところで、これもいったん普及してしまえば気にならなくなるのだろう。
さて、DDRを久々に使ってみるといろいろと良いところを再認識した。「ワークアウトモード」というのがあって、エクササイズ用に利用するために、体重や運動量の履歴が残せるようになっている。最初に使ったのは2年以上前で、当時からの体重やその後の利用動向の変遷を見ることができた。体重の増え具合に愕然とさせられた。
すでにDDRもそこそここなしていたこともあって、ハードレベルでもだいたいすべて制覇した気がして、もう飽きてきたのでそろそろ違うバージョンでも買ってこようかなと思い始めていた。ふとワークアウトモードのステップ調整をオンになっているのに気づいて、オフにしてみた。するとそれまでのハードレベルは何だったのかというくらいに難度が上がり、スタンダードレベルでもついていけなくなった。
ステップ調整とは、有酸素運動に適するように半拍以下のステップを出さないようにするオプション機能だった。そのためにハードレベルでも格段に易しくなっていた。それに気づかずにもうすっかり極めたような気分になっていたのだった。言ってみれば、補助輪をつけて自転車を乗り回して、自転車の世界を知り尽くしたような顔をしている子どもみたいなものだ。補助輪を外されて、転びまくって自転車の難しさを再認識したのと同じように、DDRの難しさを思い知らされた。
それと同時に、You Tubeとかネット上で出回っているような超絶ハイテクなDDRプレイができるプレイヤーたちは、ハードレベルでもこれくらいしか激しくないのに、どうやってあそこまでたどり着けるんだろう、とラーニングカーブのイメージが湧かずに今まで不思議に思っていた。
ところが、いったんステップ調整を外してしまえば、ものすごく難度の高いところまで細かくレベル調整ができることがわかった。これを繰り返しやっていけばスキル的にはそのレベルまでいけるというのがわかった。あと、彼らはゲーセンでプレイしているので、他のプレイヤーの動きがモデルとなって速習できるという面もある。ゲームが提供するスキル独習の支援と、社会的な学習の効果で非常に高度なレベルまで達することができるということがある程度イメージできた。ただ、自分にはそこまでの根性はないので自分ではそこまで試せない。
ぐうたらになりがちな年末年始も、WiiとDDRのおかげで毎日1時間ほど運動できた。運動すると食欲が出てつい食べてしまうせいで、体重はあまり変動がないものの、これらが無ければ増加の一途をたどっていたことだろう。
ここまで使えるのだから、EyeToy:Kineticのようなコンセプトで、もっと本格的にエクササイズを意識してきっちり作られたゲームが出てきてほしい。フィットネスビデオの市場はすぐに取り込むことが出来るし、ゲーマー層にもアピールできると思う。Wiiがかなりユーザーの行動を変化させているので、受け入れられやすさは高まっていると思う。あとは誰が本気を出して作るか、というところだろう。
Wii あれこれ
Wiiをプレイしての反応をいろんなところで目にするようになった。「Wiiスポーツのボクシングをクリスマス休暇中やっていたら2キロやせた」とか「うちの子はWiiで遊んで疲れて夜はよく寝てくれる」のような、コメントを見かける。YouTubeには、家族でWiiを楽しむ様子のビデオが山のようにアップされている。
Wiiで遊ぶ人々
お母さん編
お父さん編
Wiiを開発した人々へのインタビューが任天堂のWii公式ウェブサイトに出ていて、英語版ウェブサイトにもその英語訳が出ている。日英読み比べたりすると、英語ではこう言うのか、というのがあったりして、英語の勉強にもなるでしょう。
Iwata asks
http://wii.nintendo.com/iwataasks.jsp
社長が訊くWiiプロジェクト
http://www.nintendo.co.jp/wii/topics/interview/vol1/index.html
最後に、Appleの「マックとPC」TVコマーシャルのパロディで「PS3 vs Wii」というビデオが出ているのでおまけ。G4TVというゲーム情報ケーブル局の番組で作られたらしい。YouTubeにはコピーが大量に出回る人気コンテンツになっている。
職場や家族で見るにはやや不適切なので見る時はお気をつけください。
PS3 vs Wii
http://www.youtube.com/watch?v=ysRpcn6s4mQ