「英語ができる」感覚と素人の専門家観

 引き続き、不用品処分セールの話に関連して、今回は英語力の話。
 ここ数日、中国人学生たちから毎日数本電話を受け、そのうち何人かは引渡しのために直接会った。まだ来て1年とかそれくらいの若い大学院生が中心。英語でのコミュニケーションがまだ小慣れてなくて、意思疎通がスムーズに行かない。一生懸命話すのだが、伝わったのか伝わってないのかわからないような微妙な感じで会話が進む。その人の知性の高さと語学のスキルとのギャップが大きい分、なおさら文脈がつかみにくくなってしまい会話が弾まない。話そうとする内容のレベルに語学のスキルが追いついていないのだ。本人も相手をしている側ももどかしい。でもそんな彼らも、何年もしないうちに自然に話せて会話が弾むようになる。


 僕も来てすぐの頃はこんな感じだったのを思い出す。多少でも英語がよく話せる方の立場になってみて、当時いかに通じてなかったかを痛感させられる。今でもネイティブからすれば英語のできない外国人扱いなのは変わらないが、来てすぐの頃は、知的に遅れた人か子ども扱いをされているような気にさせられるさえない日々だったので、その頃に比べればずいぶんましになった。
 ただ、前よりましになったという程度で、今でも英語ができるようになったという実感がない。それにコツコツ語学の学習をするのが苦手なので、真面目に学習できる人が6年間この環境にいるよりもはるかに英語力はついてないと思う。英語に対するコンプレックスは今も消えておらず、積極的に自分の英語力を頼みにした仕事をしたいとは思わない。それでも、留学前は街で外国人に声を掛けられたら、わかりませんごめんなさいと言ってすぐに逃げ出すような状態だったわけで、そんな状態よりははるかにましにはなった。
 人はどんな世界でも、自分の知らない専門領域については、「万能な専門家」が存在して、その分野のことなら何でも知っているというイメージを抱く傾向がある。弁護士ならみんな何でも法律のことを知っているだろうとか、医者は何でも治せるとか、通訳者は何でも訳せるとか、専門家の肩書きを持つ人に頼めば、何か魔法のようなものを駆使してなんでも解決してくれるようなイメージ。そういう専門家観は、素人の幻想(と専門家側の意図的な誇張)でしかない。
 僕の留学する前の英語のできる人のイメージはそんな感じで、英語ができる感覚というのは、ペラペーラと英語が話せてコミュニケーションに何も困らない万能感あふれる状態を漠然とイメージしていた。しかし今は、自分の前に果てしなく英語ができる人が連なっていて、自分の後ろにも果てしなく自分より英語のできない人が連なっているようなイメージで、ここまで行けば万能という状態は想像できない。自分よりも英語ができない人の力量をだいたい測れるようになって、手持ちのスキルでどうにか問題を回避する知恵がついて、自分のできることとできないことが多少わかるようになった程度のことでしかない。これももっと上級者になれば、また違ったイメージになるのかもしれない。
 よく考えれば、どの分野でもどんな習い事でも、ここまでで終わりというのはなくて、よりよい状態を目指して精進しないといけないのがごく当たり前のことだったりする。もう学ぶことはない、というのは単に本人が満足したか飽きたか、慢心しているかのいずれかで、何か一つのことをある程度掘り下げれば、自分のテーマや取り組むべき課題が次々と見えてくる。
 英語も同じことで、英語の語学知識だけでなくて、話す内容の知識やコミュニケーションスキル全般がかかわってくるので、単に英語の勉強だけすればよいわけでもない。なので、いつも何か一つできるようになるたびに、その次のできないことがいくつかでてきて、本人が満足するまで常に課題だらけの日々なのではないかと思う。
 素人や初心者というのは、何がわからないかがわからなくて、自分で前に進めない状態で、専門性を高めるということは、その分野で何がわからないのかをわかり、どうすればもっとわかるようになるかを自分で考えられるようになることだ、と誰かが書いていた。この辺の話は熟達化の研究とかを引けば学術的に説明されている話だと思うが、すぐ出てこないので今回はパスしてこの辺で。
英語の話は以前にも何度か書いているので、あわせてこちらもどうぞ。
日本の英語教育の呪い
英語教育の足を引っ張るマスメディア
小学校の英語教育導入について