批判のレトリック

 DIS 2006の3日目の、デザインメソッド教授法のセッションで、「問題提起の仕方」について、いろいろと考えさせられたので、あらためてもう少し考察しておこうと思う。
 この発表の最後に示された「サイエンス」VS「デザイン」のコンセプトの違いを対比した表において、「サイエンス」の定義は、ポパーやクーンの示す科学観の影響を受けたサイエンスのことではなく、デカルトやニュートンなどの流れにある合理主義的、実証主義的なモダンサイエンスの考え方を示していた。一方のデザインの方は、モダンサイエンスに対応したモダンなデザインアプローチではなく、むしろその後にくるポストモダンなデザインアプローチを示していた。サイエンスとデザインの発想の一番違うところをわかりやすく対比させ、サイエンス的な発想に縛らないデザインのマインドセットを教育していく必要がある、という問題提起を発表者は意図していたようである。
 だが、オーディエンスの反応は、サイエンスの定義の仕方に問題がある、という反論が中心で、発表者の意図には沿わない議論の流れになった。サイエンスの側のスタンスに立つ人たちにすれば、批判されたと感じたのかもしれないし、サイエンスの進化の部分を認識している人たちは、過去のサイエンス観についてとやかく言っても仕方がないと感じたのかもしれない。そのような反論が出ていた。
 こうした主義主張や、支持するパラダイムの異なる立場同士の議論は、今まで学んできたことの中で何度も目にしてきた。「行動主義」と「構成主義」、「ハードシステム」と「ソフトシステム」、「インストラクショナルシステムデザイン」と「ラーニングサイエンス」など(おそらく「エデュテインメント」と「シリアスゲーム」も)、新旧のパラダイムやアプローチに関する論争の構造は共通している。自らの優位性や存在意義を示すために、双方の一番違いの大きい部分を対比させた形で、相手側のあり方を批判する。双方の境界線に近い部分は重なっており、共通点も多いにも関わらず、論争の中ではその共通部分にはあまり触れられない。批判の形を取った方が、論点を明確化でき、自分側のよさを示しやすいからである。
 しかし、批判の形を取ると、意図していない部分まで批判として受け取られることもあるし、果ては個人攻撃されたと受け取られる事態も生じる。共通点が多いと考えられる人たちにも批判と取られ、「あちら側」と「こちら側」に分かれた論争は、果てしなく続く。そうなると、同じ方向に向かってお互いがよいところを認め合う、という流れにはなりにくい。これはディベートというスタイルの大きな問題点である。
 このブログでも、これまでにインストラクショナルデザインや、eラーニング、学校システム、などに対し、さまざまな批判的意見を書いてきた。つい一昨日にも、「教育工学研究のデザインへの意識の低さ」という点を批判した。これらの多くは、批判という形をとった「問題提起」である。時に意図的に批判することもあるが、それでも批判のための批判や、特定の学校や個人への批判をしているわけではない。
 しかし、その批判がいかに愛情に基づいていようと、熱意に基づいていようと、その批判の対象になっていると感じる人からは、単に攻撃されたと受け取られる可能性は高い。また、批判の周辺にいる人たちの中にも、面白くない思いをする人が出ることにつながりかねない。
 逆に、その対象に対して日頃から不満を感じている人たちにすれば、「いいぞー、もっとやれー」と溜飲を下げるかもしれない。だが、こちらはそういうことも意図していない。直接コメントを寄せてくださる人たちは、多分に肯定的、あるいは中立的に問題提起として捉えてくださっているようだが、その一方で、こちらのうかがい知れないところで、ムカムカしている人の輪ができていることは十分に有り得る。
 つまり、批判の形を取った時点で、問題提起という意図は伝わらない上に、意図せぬ論争を巻き起こしてしまう可能性が高くなる。今回の「サイエンス」と「デザイン」の話や、多くの新旧のパラダイム論争はそうしたところが共通している。お互いに自分の属する分野のためにやっている場合もあれば、意図的に嫌いな人が提唱するものを攻撃している場合もあるだろう。いずれにしても、論争という形になってしまうと、共通点や調和を見出すよりは、自らの主張を際立たせるための「批判のレトリック」に磨きをかける方向でエネルギーが使われるようになる。
 たとえば、自分の書いた文章を例にすると、前のエントリーで、「デザインの質への関心も高まっているとはいえ、いまだに悪しき科学信仰が根強く、デザインへの意識は低い。」と書いた。この「いまだに悪しき科学信仰が根強く」という表現は、本来の問題提起の趣旨とは関係ない、単なる批判のレトリックである。関係ないのに、なぜそういうものが入ってくるかというと、これを書いている瞬間は、この部分に込められた批判を際立たせて、この文章のキレを増すことに集中しているからである。そうして生み出された批判のレトリックが、建設的な議論を意図した全体の流れを壊し、単に論争の燃料を投下することになってしまう。
 ここでのもう一つの重要な問題点として、同じ言葉に対する捉え方の違いから、意図は正しく伝わらない、ということがある。たとえば、「教育工学研究のデザインへの意識の低さは問題である」という指摘をした時、「デザインか、よしわかった。じゃあ見栄えが大事ということですね。」と捉えられても、「見栄えなんか気にしてもしょうがないんだよ」と捉えられても、こちらの意図するところは伝わっていない。
 「機能性のデザイン」や「操作性のデザイン」「ユーザー経験のデザイン」という教育工学には重要なデザイン要素が考慮されていない、ということを暗黙裡に意図していたとしても、デザインという言葉にそうした意味を共有していない人には、最も一般的な「見栄えのデザイン」という点に矮小化されてしまいかねない。デザインという言葉を無造作に使えば、デザインへの意識の低い人はそうした多様なデザイン要素を想像できるはずもないので、指摘している点は肝心の人たちには伝わらず、自己満足に終わってしまう。
 批判のスタイルを取ることは、主張に力を増すが、正しく伝わらないということを今回の学会のやり取りを見て、これまでに見てきたパラダイム論争を思い起こすに至って理解できた。私は自分の存在を示すための「批判のための批判」をするつもりはないし、特定の組織や個人に向けた攻撃をするつもりもない。もしこれまでに書いたことがそういう反応を呼んでいるのであれば、それは残念なことであるし、書き手としての力不足である。
 では、どうするか。一つの方法として、批判のレトリックに陥らないようにすることは、比較的すぐに実行できる。先ほどの例を使えば、「デザインの質への関心も高まっているとはいえ、いまだに悪しき科学信仰が根強く、デザインへの意識は低い。」という文章は、「教育工学分野の研究は、以前はデザインへの意識が低かったものの、デザインベースドリサーチなどが認知されるにつれて、その意識は高まりつつある」という書き方に変えることができる。「肯定-否定」を「否定-肯定」に変えて、同じ内容を書く、というだけのことである。簡単な例にすると、「あの人はイイ人なんだけど・・・なんだよね」と言うのと「あの人は・・・なんだけど、いい人だよ」と言うのでは、印象が全く変わることがよくわかると思う。
 なので今後は、「ほんとうに批判したい時以外は、批判の形を取らない」ということを、書き手としての個人的な原則として持っておこうと思う。

ブログを書く私

 最近、ブログを書くノリが非常に悪い。思い当たる理由としては二つある。一つ目は、思考の流れがブログを書く流れにチューニングできない感じが続いていること。少し前までは、その日のネタを決めて思うに任せて書いているうちに、思考の流れができていって、ある種の自分の型に沿った形でアウトプットができるようなイメージで書いていた。最近それが、アイデアのチャンクの断片を書いた時点で、その質の低さというか、キレの悪さが気に入らなくてボツにしてしまう。原稿用紙であれば、クシャクシャの紙くずがゴミ箱に渦溜まっている状態だ。
 もう一つの理由としては、おそらくこれが一つ目の理由を生み出しているのだが、自分のブログを書く時のスタイルを変えようとしていて、それがうまくいっていないことだ。自分で書いたものにはある種の型があって、思うに任せて書いていると大体そのパターンに収束する。書いているうちにあれこれ調べ、思考を掘り下げて、その時点での自分の思考の一番先まで持っていって、まとめることができた分だけアウトプットになる。そのため、ブログを書く作業が能力開発の一環になっていて、自分のためにはなっているのだけど、その分時間をとられる。型ができてきたおかげで作業は楽になったのだけど、しばらく続けているうちに、費やす時間に対して、実になっている分が逓減してきた感がある。
 そんな事情から、ブログに対する自分の最近のテーマが変わりつつあって、その移行期の試行錯誤をしているという感じだ。以前にも似たようなことはあった。その時は、日常の出来事を書いてとりあえず何となく更新するパターンに飽きが来たので、日記的な要素を減らして、より自分の思考に根ざしたものを書こうとしていた。そのコツを掴むまで、しばらく書けなくなった。
 今回は、書き方よりもむしろ、自分の思考のキレの部分に関係している。まだ自分で何が目標なのかはっきりしていないが、できるだけ説明的な部分を減らしつつ、端的にコンセプトを伝える文章を書きたいと思っている。だとすると、今までの書き方を踏襲したのでは、おそらく破綻する。今まで身につけてきた技術は活かしつつも、型自体は壊して一から作り直すべき性質のものだと思う。ここしばらくは、今までのスタイルで書いたり、他のやり方をためしたりしながら試行錯誤が続きそうである。
 以前から一つだけ変わらないのは、ブログを書くという行為が、自分の癒しになっているということだ。書く作業自体が、貴重な振り返りの時間となっていること。そして、一つのアウトプットを完成させることで、ささやかな達成感が得られること。これらが癒しをもたらしている。たぶん私がこうして書き続けている理由の一つは、それが自分の精神的な調子を整える時間として機能している面があるからだと思う。ただ、ブログを書くことの意味が変われば、書き方も内容も変わる。もしかしたら、その癒しを自分が以前ほど必要としなくなっているか、以前ほど効かなくなっているのかもしれない。今はそうした状況で、自分の中でのブログの位置づけに変化が起きるかどうかのところにいるようである。

33歳になりました

 新年や誕生日というのは、自分のことを振り返り、将来を考えるよい節目になる。私の誕生日はちょうど一年の半ばあたりにあるので、その一年の中間点として自分の状況を見るのにちょうどよかったりする。
 今年の新年に考えた、一年の目標は次の3つだった。
・博士課程の修了試験をパスする
・シリアスゲーム本出版
・博士論文研究を仕上げて、来年早々にディフェンスできるようにする
 一つ目は無事にクリア。二つ目と三つ目は地道に進行中で、ひたすら前に進むだけの状態なので、だまってやるだけである。ありがたいことに、これらの自主プロジェクト以外に、あれこれ仕事の依頼をいただいており、それらを一つ一つ成果につなげていくうちに、今年も終わってしまいそうな勢いになっている。
 一年前と比べて、何か心境の変化があったかといえば、今感じている、開き直りのような妙な覚悟のような気分は、一年前にはなかった気がする。微妙な心理的差異なのだけど、何かを考える時に、それによって以前にはない、幅の広さや奥行きを感じている。そう感じるようになった理由の一つには、今まで学んできたことが、自分の中でいろいろとつながってきて、血となり肉となって役立ち始めたことがあるし、もう一つには、来年前半をメドに次の一歩を踏み出そうとしていることがあると思う。
 インプットしたものは、ある程度の蓄積ができてはじめて、ひとかたまりの知として機能するし、アウトプットするあてがあることで、より意味のある形で構成される。渡米して4年経って、ようやくその状態になってきたんじゃないかと思う。
 自分がこうありたいと思うイメージがより明確になってきて、それに沿った現時点でのキャリアプランやライフスタイルのイメージもだいぶはっきりしてきたので、あとはその実現可能性が高まるように、目の前にあることをきちんとやりきることかなと思う。また進んでいけばわからなくなったり迷ったりすると思うので、それはそれで、その時また立ち止まって考えればよいことだろうと思う。
 メッセージなど送ってくださった皆さん、どうもありがとうございます。何もなく平凡な一日として過ぎていくところだったのが、おかげで何となく特別な日のような気になりました。Thanks a lot!!

You know who you are

 先日も少し書いた、歌手オーディション番組「アメリカンアイドル」は、とても29歳には見えないテイラー・ヒックスが優勝して、シーズン5が終了。テイラーは歌唱力では他の挑戦者よりもやや見劣りする感があったが、キャラクターのよさに加えて、ショッピングモールで被り物をしたりしながら、バーで歌っていたというところで、他の挑戦者よりも「アメリカンドリーム」度がやや高く見られていたことも人気の一つだったかなという印象だった。
 テイラーだけでなく、このアメリカンアイドルの挑戦者たちは、ウォルマートやファーストフードの店員とか、郵便配達員とか、地方の営業マンとかいったそこらにいる普通の若者たちで、彼らがこの番組で勝ち残ることで生じる人生の変化も、番組の素材の一つとなっている。今も基本的にアメリカ人は、「アメリカンドリーム」が好きで、普通の人が一夜にしてスターになる、といったストーリーは常に歓迎される。日本ではともすると「成り上がり」として捉えられて嫌がられたり、成功した本人も遠慮して隠したりするが、アメリカ人は概ねサクセスストーリーは大好きで、成り上がりも歓迎される。なので、何か夢が叶うことをテーマにした番組も多い。このアメリカンアイドルも、優勝して人生が変わった人たちに自分の成功を投影できる、あるいは自分に身近だから応援できる、ということも人気の要素の一つになっているようである。
 番組の素材の一つとして、ジャッジの3人も重要な位置を占めている。3人そろって、地方予選から一人一人にコメントしていくところは、番組の主な特色となっている。その彼らがよく使うコメントとして、「You know who you are」というのがある。直訳すれば「あなたは自分を知っている」ということだが、「自分の持ち味や長所短所をよく理解している」ということを意味していて、個性的パフォーマンスをした時の褒め言葉である。
 ジャッジたちは、いかにその挑戦者の歌そのものが上手くても、個性が出てなければ「退屈だ」「カラオケパフォーマンスだ」と酷評する。歌そのものは同じようなクオリティだったとしても、本人の個性が出ていれば、「You know who you are」という言葉と共に絶賛される。だが逆に、その持ち味に頼りすぎると「安全策すぎてつまらない」、「オマエはずっと同じことばかりやってる」とこれまた批判の対象となる。
 歌のパフォーマンスに限った話ではなく、なにごとにおいても、自分の強みと弱みを知って、強みをうまく活かしたやり方をすることで、その人の持ち味やパフォーマンスは向上する。逆に弱いところで勝負を余儀なくされれば、その人の持ち味は出ずに、期待通りの成果は出しにくい。その意味で、自分のどこが強みで弱みで、どこが他の人と違うユニークなところなのかを自身で理解することは、それ自体がその人の強みとなる。この「You know who you are」が褒め言葉なのには、そういう背景がある。
 当然ながら、自分を知っただけでは十分ではなく、「自分を知った上でどう動くか」が重要な点になってくる。競争の厳しい環境では、自分の強みに頼りすぎ、その枠の中にこもっていると、周囲はすぐにそれに気づいて、前ほどよさを感じてもらえなくなったり、対策を打たれて強みを無力化されたりする。自分の弱みだからといって迂回するようなことばかりしていると、後でどうしてもそこを避けられないような事態に直面して、抜き差しならない状況に陥ったりする。
 かたや自分のことにだけ目を向けていれば良いわけでもなく、大局的には、時流や運のような要素も絡むので、一概にどう対処すれば成功につながるとかベストであるとかいう性質の問題ではない。みんな一生かけて自分に合ったやり方を編み出そうとしているのであって、教訓的なものは学べても、この手順に沿ってやればOKなどという方法はない。いろいろ考えすぎても、場当たり的な行動だけでも、うまくいかない。多面的な見方が必要だからと言って、闇雲に多面的に見ようとしてもかえって物事が見えなくなるのと同じく、バランスが大事だと言って、バランスをとろうとし過ぎると、硬直的になってかえってバランスは悪くなる。口の小さなヒョウタンにどうやってナマズを入れるか、というような問題に近く、理詰めでは到達できないどこかに、一つの境地がありそうなのだが、それがどこかは全く見当がつかない。
 そんなことを考えながら、明日で33歳になる。年齢なりに成長していることを願いたい。

仕事の生産性をあげる要素

 仕事のはかどらない状態についてもう少し考えてみた。
 どんなにがんばってもはかどらない状態は、たいてい自分にとって未知の領域にチャレンジしている時か、やったことがあっても自分の力量を超えたことをやろうとしている時に起こる。自分のコンディションのよしあしと、タスク遂行に必要なスキルに対して自分のスキルレベルがどこまで対応しているか、それとその仕事の緊急度と、好きな仕事かどうか、といった変数のコンビネーションによって、その仕事のはかどり具合が定まってくる。
 タイムマネジメントの定番的な知識では、優先順位の決め方は「緊急度」と「重要度」の軸で考えて、緊急で重要なものから順に片付けなさい、といったことがよくあげられる。この軸はざっくりと仕事の優先順位を決めるのには役に立つが、この軸はタスク中心の考え方のため、仕事をする本人の状態や、計画的な能力開発を考慮する場合には余り適さない。緊急で重要な仕事であっても、それを高い質でやるには、知識・スキルのレベル、心身のコンディション、仕事へのモチベーションといった要素がかみ合っている必要がある。緊急で重要だからといってすぐ着手しても、調子がでなければ時間が浪費されがちで、50%の出来でとりあえずやっつけた、という結果に終わることもある。ちょっと遠回りになっても、不足している知識を補うために時間をとるとか、頭をリセットするために遊びに行くとか、長期戦になっても体力が持つようにエクササイズを継続的に行なうとか、そういったことを組み合わせていく方が結果的には正解だったりする。つまりは「急がば回れ」である。緊急度と重要度の軸にこういう要素まで含めて考えれば、機能しなくもないけど、それでも本人のコンディションは見落とされがちになる。
 いつも高モチベーションで、どんな性質の仕事もムラなくこなせるスーパービジネスマンみたいな人は、意識しなくてもそういう要素のバランスを取る時間の使い方をしていたりして、重要度と緊急度だけで仕事の進め方を決められるかもしれないが、私のようなモチベーションも能力も平凡な人間が生産性を維持しながら仕事を続けていくには、意識して自分が仕事がはかどる状態をもう少し細かくモニターしながら、いい状態に持っていくための工夫をしていく必要がある。

記憶の引き出し

 最近、ふと何でこんなことを思い出すんだろうというようなことを、変なタイミングで思い出すことが結構ある。あまり生産的でない時間が増えただけなのかもしれないが、歳を重ねれば、それだけ記憶の引き出しに入っているものも蓄積されていて、何かのきっかけでその引き出しを開けているのだろう。楽しいことを思い出す分には楽しくていいのだが、どうでもいいことだったり、あまり楽しくないことだったりすることもある。家の押入れのように、たまに大掃除して物を捨ててしまえるのであればいいのだが、頭の中というのはなかなかそうもいかない。思い出そうとしている時には思い出せず、どうでもいいタイミングでどうでもいいことが記憶の引き出しから飛び出してくる。
 昼飯のラーメンをゆでている時、何の弾みでスイッチが入ったのか、ふと高校の頃バンド絡みで知り合った人のことを思い出した。その人の名は、ここでは斉藤さんとしておこう。高校2年の時に知り合って、彼は二十歳くらいの色白の小柄な男で、地元の高校を卒業して、近くの工場で働いていた。何のきっかけだったかは忘れたが、どこかで知り合って、いつの間にか高校の同級生で組んでいたバンドの練習に顔を出してくるようになっていた。

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強みの落とし穴

 何においても自分の得意なことや強みを持つことは基本的にはよいことだ。それは特定分野の知識や技術、芸、身体的能力などの形式で示され、いざという時に頼りになる武器になったり、勝ちパターンとなる自分の型を形成したり、心理的な安定をもたらしたりと、いろいろな効用がある。
 しかし強みというのは、時に自分の弱みや問題から目をそらす誘因となってしまって、自分の状態を正しく認識する目を曇らせ、その強みのせいで足をすくわれることにもつながる。圧倒的なトークの才能を持った人は、そのトークを軸にした仕事の仕方をするし、ルックスや肉体が自慢であればそれを活かした形でうまくやろうとする。腕っぷしの強い人はケンカに持ち込んで勝とうとするし、細かい作業が得意な人はその細かさを売りにする。基本はそれでよい。ところが、安易にその強みに頼る姿勢が身についてしまうと、その強みが足かせになってしまい、伸び悩んだり、その人の持つ潜在能力を出し切れなかったりすることになる。トークに頼らない方がよい局面で、他の手段を準備するのを面倒くさがってトークで乗り切ろうとしたり、ケンカはまずい局面でケンカしたり、新たなネタを仕込む手間を惜しんで、安易に自分の使い古しの得意ネタでお茶をにごしたり、そういうことをやっていると、自分を伸ばせない状態から抜け出せない悪循環に陥る。自負心や、ここまでできるはず、という自分のパフォーマンスへのイメージが邪魔して、新しいものを身につけにくくなる。そうなると何も強みのない人が一から何かを身につけるよりもしんどい状態になる。
 一方で、これぞという強みのない人というのは日々なかなか浮かばれないが、逆に強みのないことが強みになることもある。強みがない中で何とかしようと工夫することで、思いもつかないようなユニークな強みを見出すことになったり、気がついたらほどほどの強みがいくつもできていたりといったことも起こる。強みのある人が負けだすと脆かったり、チヤホヤされない状態に耐えられなかったりする一方で、強みのない人は、ある意味負け慣れていて、多少の負けはまるで平気だったり、注目されなくても気にならなかったりと打たれ強いことが多いのではないかと思う。なので特に強みのないこともうまく活かせば強みにもなる。
 この強みとは、能力的なことだけでなく、「慣れ」とも言い換えられる。慣れた仕事の仕方、慣れた言語、慣れた環境、慣れた人間関係、慣れ親しんだ中で生きていく方がうまくやっていくのは容易で、成果も出し易い。しかし、その慣れの外に何か可能性を感じたとしても、その慣れを捨てて新しい状況に飛び込むのは誰にとっても不安だし、面倒である。それはその慣れに自分の強みを見出す状況であればあるほどその不安や面倒さは高まる。停滞を避けるには、ある局面でその慣れへの見切りが必要だが、その見切りのタイミングを見定めるのはとても難しい。
 なので、よって立つ強みを持っている人の方が逆に躓いた時はダメージが大きかったりするので気をつけたほうがいいということと、人に誇れるような強みを持ってない人も嘆いてないでいろいろ試行錯誤していけば、ありきたりの強みなどどうでもよくなるようなはるかにユニークで、誰も及ぶところでない強みを持つチャンスはあるよ、というところに話は落ちてくる。
 忙しい時に限ってまったく関係ないことがいろいろ頭をよぎってくる。このエントリーもその全く関係ないことの一つだったりする。書いて満足したのでもう寝る。

2006年を迎えて

 新年明けましておめでとうございます。
旧年中にお世話になった皆さまへ心より御礼を申し上げつつ、2006年が皆さまにとってよい年であることを願っております。

 このブログを書き始めて3度目の新年を迎えた。こうして書き続けていくと、自分の成長や変化がわかって面白い。記憶というのは薄れて行ってしまうが、その時々に振り返って記したことは、その時の感覚のままに残っているので、読み返すことで良くも悪くもその時に考えたことや感じたことがかなりクリアによみがえってくる。その時の勢いや集中度によって創造力も高まっているようで、素の状態の自分ではとても考え付かないことを書いていたりする。年を追うごとにその質は上がっているように思える。かたや、その時はすごく入れ込んで書いたつもりのネタだったのに、今読むとすごくしょぼく感じるものもあったりする。そういう振り返りのための素材を提供してくれるという点でブログは自分にとって有効に機能している。では、今年もまずは昨年を振り返りつつ、今年の計画や目標などを記しておきたい。

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世代で共有された生き方

 先週末、Dr. Peckと奥さんのCatherineから、日本の大学から客が来るので顔を出さないかと連絡があったので、ミーティングに顔を出してきた。行ってみると、日本の大学で教えるアメリカ人教授の女性と、その教え子の若者2名、それと教授の友だちのミュージシャンあがりの学校教師の気さくなおじさんが訪ねてきていた。特にアジェンダはなかったらしいが、始まってみればDr. Peckのいつものファシリテーション芸が光り、単なる放談に終わらずに、それぞれが次の一歩に進む力を得たようなよい議論の場となっていた。
 Dr. Peck夫妻とその教授とおじさんたちはヒッピー世代で、若い頃に共有した文化をベースに話が盛り上がる。若い頃に世代で共有していた理想の世界のようなものをまだ今も胸に持っていて、それがこのような場で蘇ってくるかのようである。スピリチュアルなものへもオープンであり、科学的世界とは異なる力の存在を否定せずに、いろんな可能性をオープンに考える。よりよい教育の実現のためには、どんな突飛なアイデアも考慮の範囲内であるし、全ての子どもたちの幸せのための教育、ということを本気で実現したいと考えている。かといって、悲壮感を持って臨むのでも、無茶をするわけでもなく、現実に絶望することなく、日々をまったりと楽しみながら、静かに理想を抱えて前向きに生きている。ジョンレノンやウッドストックのような世界観が、マンガの頭の上のふきだしの中に描かれているのが見えてくるようである。

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勉強嫌いの教育工学者

 「イノベーション普及と導入」の期末試験がやっと片付いた。朝8時から12時まで4時間、システム思考や変革理論などに関して、よくある「~についてあなたの考えを述べよ」系の出題に答える小論をひたすら書いた。チェックランドは多少知識がついたので、それに引き寄せる形で書ける出題なら何とかなるだろうと思っていたら、幸いそれができる問題だったので、Carrのユーザーデザインと組み合わせれば最強だ、というような流れで4ページ書いた。一緒に受けたクラスメートたちに聞いてみると、みんな6ページとか8ページとか書いてて、私のが一番分量的には少なかった。熟考して、魂を込めて書いたらそんなたくさん書けないだろうと思うのだが、みんなたくさん書いてえらいものだ、とこういう場面ではいつも思わされる。

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