先週末、Dr. Peckと奥さんのCatherineから、日本の大学から客が来るので顔を出さないかと連絡があったので、ミーティングに顔を出してきた。行ってみると、日本の大学で教えるアメリカ人教授の女性と、その教え子の若者2名、それと教授の友だちのミュージシャンあがりの学校教師の気さくなおじさんが訪ねてきていた。特にアジェンダはなかったらしいが、始まってみればDr. Peckのいつものファシリテーション芸が光り、単なる放談に終わらずに、それぞれが次の一歩に進む力を得たようなよい議論の場となっていた。
Dr. Peck夫妻とその教授とおじさんたちはヒッピー世代で、若い頃に共有した文化をベースに話が盛り上がる。若い頃に世代で共有していた理想の世界のようなものをまだ今も胸に持っていて、それがこのような場で蘇ってくるかのようである。スピリチュアルなものへもオープンであり、科学的世界とは異なる力の存在を否定せずに、いろんな可能性をオープンに考える。よりよい教育の実現のためには、どんな突飛なアイデアも考慮の範囲内であるし、全ての子どもたちの幸せのための教育、ということを本気で実現したいと考えている。かといって、悲壮感を持って臨むのでも、無茶をするわけでもなく、現実に絶望することなく、日々をまったりと楽しみながら、静かに理想を抱えて前向きに生きている。ジョンレノンやウッドストックのような世界観が、マンガの頭の上のふきだしの中に描かれているのが見えてくるようである。
おそらくそういう生き方は、彼らの世代が生きにくい成熟社会を生き抜くために編み出した一つの生き方なのだろうと感じた。いろいろ問題がある中でも絶望せず、理想に縛られて現在を犠牲にすることもせず、目の前の毎日を楽しく過ごすことを忘れず、楽しむ時間を適度に持ちながら、リラックスしてマイペースで日々を生きる。宮台真司が世紀末の生き方として「まったり生きる」ことを提示していたが、彼らの生き方は、日本よりも一足先に70年代に世紀末的社会を迎えていたアメリカ人たちが編み出したまったりとした生き方なのだろうと理解した。宮台が日本の若者から見出したまったりとした生き方には未来が感じられなくて共感しにくい面があったが、アメリカ人たちのまったりとした生き方の中心には、楽観的な理想が共有されており、その点において希望を見出しやすく、生き方のモデルとして採用しやすいと思う。
日米とも閉塞感のある社会に生きている中で、日本の団塊の世代が、時代に翻弄されて生き難い社会を耐えながら生きている雰囲気を世代として醸し出しているのに対して、アメリカのベビーブーマー世代は生活の質を享受し、日々を楽しむ術や助け合う術を持ちながら生きているように見える。一つの大きな違いは、物質的な差ではなく、世代で共有された理想のようなものがあるかどうかの違いではないかと思う。つまり、一人一人が答えを持ってなくても、何となくこんな感じだよね?と共感しあえるものというのがあるかないか。文化的な歴史を世代で共有していることはあったとしても、それだけではその場を楽しむネタにはなっても、前向きさを共有するほどには強くない。若い頃に何かを目指して共に励んだことや夢見た世界があり、それが実現しなくても挫折したとしても、毎日の生活と関係なくなったとしてもそれはそれとして、心のどこかにあたためておいて適度に日々を楽しむことも忘れずにマイペースで生きていく。そういう生き方はアメリカ人には普通の人の生き方になっているが、日本の団塊の世代やその次に続く世代の人々でそういう生き方ができる人は、普通にはあまり目にしない気がする。マスメディアでキャッチーな名称をつけられて雑誌で取り上げられたりするくらい、当たり前ではなくて普通の人の生き方として定着していない。私自身、世代で何かを共有しているかといったら、心当たりがない。夢や理想などという言葉は、政治家や経営者くらいしか使わないようなうさんくさい言葉になってしまっている。
おそらく、ただまったり生きようとすると、小人閑居して不全を為すということになってしまって、逆に不幸になってしまう人が多いはずであり、なんと呼ぶに関わらず、何かお互いが認め合えるものを共有して、世代として前向きに生きる何かが必要なのは間違いない。それが次の世代が価値を見出すモデルとなり、生き方や人との関わり方のお手本となるのであって、団塊の世代にもその後の世代にもそれがなかったことが今の日本社会の生き難さを生み出しているのではないかと思う。それはどの世代のせいというわけでもなく、敗戦という断絶が日本人に与えた試練を乗り越えたようで乗り越え切れなかった面だったのだろうと思う。共有できてないことを嘆いてみても仕方がないことであって、ないのであれば今から作るしかなくて、それは引退してゆく上の世代に頼る仕事ではなくて、人口層の厚い我々世代の仕事なのだろうなと思う。そして上の世代の人々には、寿命が延びて否応にも余生を長く生かされることになってしまい、体力が衰えつつある中でどんな充実した生き方ができるのかを、前向きに考えながらさまざまな可能性を模索しつつ、うらやましくて手本としたくなるようないろんなタイプの生き方を見出してくれることを期待したい。
思い出したのは、随分昔に読んだ新聞記事か何かの一節。
「米国社会と日本社会の違いの一つに、『負け方』を
知っているか否か、というのがある。何かを目指して
がんばるのはどちらも同じだが、それが挫折した後、
意外に元気で、その経験から学びよりよく生きる
能力が一般的に高いのは、米国社会のような気がする。
日本は負けたことを恥じ、悲壮感を持ってそれを認知
してしまい、結果としてトラウマのような
コンプレックスになってしまう人が(比べると)多い
のではないか」というような内容だったかと思います。
世代の話とずれているかもしれませんが、今回の
エントリから、しつけや教育方針の核になっているマインドの
違いというか、文化の違いを感じるのは安直でしょうか。
いい意味でいい加減というか。
日本社会もそうなりつつある部分が一部あるように
思うので、希望はあるとは思いますが。
日本サッカーの決定力不足を「失敗を恐れて緊張して
しまう文化」のせいとしたジーコの考えは。。。関係ないかな。
現象をどういう切り口で見ていくかということなので、負け方の文化という切り方でも失敗を恐れる文化でも一つの見方として成り立つんじゃないでしょうか。
その切り方をベースに、次の展開を考えていくことが、その人の生み出すコンセプトになっていくのだと思います。私が今回たまたま経験したことから見えてきたのは、世代で共有している何かがありそうだ、ということだったので、またいつか違った経験から同じ問題について別のことが見えてくるかもしれません。