勉強嫌いの教育工学者

 「イノベーション普及と導入」の期末試験がやっと片付いた。朝8時から12時まで4時間、システム思考や変革理論などに関して、よくある「~についてあなたの考えを述べよ」系の出題に答える小論をひたすら書いた。チェックランドは多少知識がついたので、それに引き寄せる形で書ける出題なら何とかなるだろうと思っていたら、幸いそれができる問題だったので、Carrのユーザーデザインと組み合わせれば最強だ、というような流れで4ページ書いた。一緒に受けたクラスメートたちに聞いてみると、みんな6ページとか8ページとか書いてて、私のが一番分量的には少なかった。熟考して、魂を込めて書いたらそんなたくさん書けないだろうと思うのだが、みんなたくさん書いてえらいものだ、とこういう場面ではいつも思わされる。


 それにしても、この筆記試験という形式に対しては、もう私の身体が嫌がっていて、準備の勉強をするのも一苦労である。学校教育の文脈では、学習させるにも評価するにも効率のよい方法なのだとは思うが、筆記試験のスタイルでアウトプットを出すことが社会に出てから求められることってそんなに無いわけだし、ほんとにこの「テストのために学習する」というのが望ましいスタイルなのかははなはだ疑問だ。研究者は読んでアウトプットを出すのは仕事の一つなので、将来につながる面はあるのだが、残念ながら私は、もう大学受験のときにやりすぎて、身体が拒絶反応を起こしている。
 世の多くの人は心当たりがあると思うが、みんな大学受験を終えると「学習」そのものに対して拒否感を持ってしまうところが、大学での学び、社会人になってからの学びが阻害されている現状につながっているように思う。しかし一方で、一番難しい大学受験をパスして、大学に入った後も公務員試験や司法試験など引き続き難しい試験のためにいそいそと勉強して、それをパスできる学力の高い、お勉強好きな人々が社会のシステムを作っているのだから、状況はなかなかあらたまらない。生涯学習と言っても、資格試験のように、試験を学習のドライブとなるようなやり方か、純粋に勉強を楽しめる人向けの教養講座のようなものが中心であって、深みも広がりもない。提供者側に学習のあり方に対する理解が浅いので、学習者のマジョリティのニーズに合致するような学習機会を提供できない。
 私が教育工学者という進路に行き着いたのは、私にそんなどうでもいい勉強をさせないでくれ、そんな社会はもうたくさんだー、という個人的な思いがあって、そんな社会から自らを遠ざけるのでなく、逆に向かっていって、自分の好きなもので満たしていけば、余計な勉強を押し付けられることもないだろう、という考えがベースになっている。なので今の悪しき学校教育的文化が社会を支配し続けるための片棒を担ぐような研究をやる気は一切なくて、むしろそれを変えていくための研究をやろうとしている。カッコつけて言えばイリイチやシャンクの思想を支持する立場である。