今シーズンのお気に入りTV番組

 今週は少しスローダウンして、休み休み過ごした。先週まで気合でカバーしていて気づかなかった精神的な消耗がどっと出た感じで、頭はずっと曇っていた。週の後半には疲れが抜けて、また復活した。
 今一番大事なのは、重要な仕事に集中して、コンスタントに続けることだ。無理してその後続かないとか、何となくはかどらない時間を費やさずに、生産性の高い時間を確保して、仕事を着実に前に進めること。それを続けるためには、きちんと休んで、気分転換となることを日々入れていく必要がある。
 日常の中での気分転換の手段は、週2回程度ジムのプールに水泳に行くことと、テレビを見ること。あまり前後にロスの時間が少ない活動ほど望ましくて、そういう意味では、テレビというのは案外有効だったりする。ただそれもいい番組をやっていることが条件なので、これも日本ではそれほどうまく行かなくて、この部分はマンガが取って変わるのだろうと思う。
 今シーズンは、リアリティショー系の番組はあまり気に入ったのをやってなくて、レギュラーで観ているものは、ドラマが中心。毎週、次のようなものを観ている。
Prison Break (FOX)
 副大統領の罠にはまって死刑囚にされた兄を救うために、銀行強盗未遂で同じ刑務所に入った弟が、仲間と脱獄するという話。日本でもDVDが出ているそうだが、これはお勧め。今やっているシーズン3は、みんなで脱獄しての逃亡中のところ。毎週目が離せない。24がシーズンを重ねるごとにストーリーよりもスピード感と刺激の強度に依存する展開となる中、こちらはまだストーリー展開がゆっくりめで、安心してみていられる。
Heroes (NBC)
 今シーズンのNBCの一番の主力ドラマ。普通の人が特殊能力に目覚めて、予知能力や飛行や瞬間移動や不死身の身体をもった人々が、数週間後にニューヨークに核爆弾が落とされるのを未然に防ごうとするというSFもの。テーマはB級SF風だが、優れたライターの手にかかると、こんなに面白くなるんだなという感じで、これも毎週目が離せない。日本人のヒロとその同僚の日本語の掛け合いがかなり笑える。ヒロ役の方は日本生まれの日系人みたいで、ちゃんとした日本語なのだが、同僚の方はあきらかに日系ではなく、微妙な日本語を話している。主役の配役は、エスニシティのバランスが考えられているところはアメリカのドラマらしいところ。インド人と日本人がフィーチャーされているところは、アメリカのマイノリティの中でも、特に何かヘンな能力が使えそうというイメージなんだろうか。
Studio 60 on the Sunset Strip (NBC)
 「ウェストウィング(ザ・ホワイトハウス)」の後発的なドラマで、舞台をホワイトハウスからテレビ局に移して、サタデーナイトライブをモデルとした人気コメディ番組の制作舞台裏の話。ウェストウィングの作家Aaron Sorkinが書いていて、話の展開や演出のテイスト的に、ウェストウィングと共通するところが多い。フレンズのチャンドラー役で有名なMatthew Perryと、ウェストウィングでJosh役だったBradley Whitfordの二人が放送作家とプロデューサーのコンビで、その二人を中心に展開。テレビ局の社長役のAmanda Peet がとてもよい感じ。英語はウェストウィングと同様、早くて難しい。英語リスニング上級編という感じ。観ていて疲れるし、一回では十分楽しめないので、ビデオに録って翌週の放送までにもう一回観ている。
 最近ネットでかなり長めなダイジェスト映像を流している番組が増えたが、この番組は、ネットで前の週のエピソードを全部観れるようにしてある。ネットで見られるようにすることで生じるロスよりも、見逃した人がドロップしてしまうロスを大きいと判断してのことなのか、いずれにしても視聴者にはありがたい。ある意味、ネットとテレビの融合によるサービスの変化の過程とも言えそうだ。
Friday Night Lights (NBC)
 テキサスの田舎にある、高校のアメフトチームの話。必勝のプレッシャーの中で闘うコーチと選手達、それにケガで選手生命を絶たれたスター選手の日々の葛藤や人間模様を中心に展開する。テーマ的には、青春スポーツもので、あまり興味を惹かれなかったものの、これもNBCの今シーズンの主力ドラマで、さすが力が入っているだけに面白い。
Boston Legal (ABC)
 3シーズン目に入り、今期も快調な弁護士ドラマ。前にも書いたけど、このドラマは私のAll-time favorite。
 いずれも、英語の難易度が少しずつ違っていて、英語力の維持のための程よい教材になっている。最近日本語での仕事が増えたので、テレビから得る英語の重要度がちょっと上がっているが、面白い番組が豊富にあるのがありがたい。

Last Comic Standing

 アメリカのテレビは、夏がクールの谷間で、短めのシリーズや春や秋よりはやや低予算めの企画ショーなどが目立つ。NBCのLast Comic Standingもその一つで、毎年夏のこの時期にやっている。この番組はスタンドアップコメディアンのオーディションショー。スタンドアップコメディは、日本で言えばピン芸人の漫談みたいなものかな。細かい定義は違うのかもしれないけど、要は一人で舞台のマイクの前に立ってお笑いネタをしゃべり倒す芸能のこと。
 このオーディションでは、地方予選で選ばれたコメディアン達が毎週何人かずつ落とされながら、最後に残った人が「ラスト・コミック・スタンディング」に選ばれる、という内容。フォーマットはアメリカンアイドルや他のオーディション系のリアリティショーとほぼ同じ。
 今年がシーズン4だが、ちゃんと観るのは今シーズンが初めてだ。というのも、スタンドアップコメディの英語は基本的にみんな早口で、かなり文化的な理解をしていないと文脈がつかめないネタが多いので、非常に難しい。今までは観てもちっとも楽しめなかったのでスルーしていた。
 今の時期、見たい番組がいくつもないこともあり、試しにこの番組を観てみた。すると字幕なしで観て笑えるところが増えて、字幕があればだいたい理解できるようになっていた。いろんな英語に耳が慣れてきたのと同時に、文化的な知識も増えたおかげだと思う。少し前まで全く歯が立たなかったものを観て楽しめるようになっていたので、ちょっと嬉しくなった。
 テレビの英語では、スタンドアップコメディショー、スポーツの試合、ローカルニュースあたりが一番難しいと感じる。スタンドアップコメディは早い上にスラングが多くて、文脈が掴みにくい。スポーツの試合も早くて専門用語が多いのと、話がぽんぽん飛ぶので文脈が掴みにくい。選手へのインタビューも早口だったり省略が多かったりして難しい。ニュースはフォーマットに慣れれば楽になるが、やはり文脈を掴みにくい。一方、シチュエーションコメディやドラマは、視覚的な文脈情報が多く、ストーリーの流れがあるものは慣れることが比較的容易だと思う。
 この番組についてもう少し書こうと思ったけど、どうも今日は思考が冴えないので、なんだか英語の話に逸れたまま帰ってこなくなってしまった。今日はここまででまた今度。

Windfall – Everything Bad Is Good for You

 NBCがこの夏一番力を入れているっぽいドラマシリーズ「Windfall」の初回が放送された。このドラマは、グループで買った宝くじが大当たりして、大金を手にしてしまったがために起こるさまざまな人生の変化、特に身を持ち崩して不幸になっていく様子を描いたお話。タイトルの「Windfall」とは、風で落ちた果実、予期せぬ収穫という意味。日本語で言う「棚からぼたもち」。
 出てくる登場人物は、貧乏だったり、不倫してたり、離婚前だったり、前科があったり、親との関係が悪かったりして、それぞれの立場で微妙な不幸さを抱えながら日々を生きていて、「宝くじが当たったらなぁ」と考えて宝くじをグループ購入しているありふれた友だちやご近所さんたち。それがグループ買いした宝くじで386百万ドルも当たって、その大金が転がり込んできて夢が叶うのだけど、そこから先に待ち受けているいろんな不幸を予感させつつ、続きをお楽しみに、という一回目の内容だった。
 大金を手にすると、それまでは謙虚に抑えていたタガが外れたり、浮き足立った人や分け前に預かろうという人が集まってきたり、さまざまな欲望が渦巻く様子がリアルに描かれていて、嫌な気分にさせられるけど、続きを見ずにはいられないという感じにさせられ、この辺はアメリカの主力TVドラマのストーリーテリングの上手さを本領発揮している。
 メインの登場人物がたくさんいて、速い展開で複数のストーリーが同時進行で進むところは、「ER」とか「ザ・ホワイトハウス」、「24」、「デスパレートな妻たち」などの他の人気TVドラマシリーズと共通している。このストーリーの展開の速さと複雑さは、刺激の要素の一つにもなっていて、単線的で丁寧にストーリーを追う昔のドラマのストーリーテリングの手法から進化した形となって定着している。ストーリーライティングの技術としては、かなり高度なのだろうと想像するが、それが毎シーズン複数タイトル出てくるというのだから、アメリカのTVドラマ作家の層の厚さは結構なものだと思う。
 なお、ドラマだけでなく、リアリティショー番組、アニメやゲームなど、日常の中で触れるエンターテインメントはどんどん複雑になってきており、その複雑さに触れていく中で、人々の認知的なスキルは高められている、と Steven Johnson が著書「Everything Bad Is Good for You」で指摘している。この本は、日常生活における学習、あるいはインフォーマルラーニングに関心がある人にはオススメ。
Everything Bad Is Good for You: How Today’s Popular Culture Is Actually Making Us Smarter
Steven Johnson 著
 Windfallに話を戻すと、「宝くじでも当たんねえかなぁ」と誰もが何気なく考えていることが現実に起こると、どんなことが待ち受けているか、ドラマを通して事例提供していると捉えることもできる。ドラマではあっても、お話だからとバカにはできないリアルさがあって、そのリアルさが視聴者をひきつける要素にもなっている。実際問題として、普通の庶民が大金を手にしたら、多くはこんな風に身を持ち崩していくんだろうな、自分の身に起こったらどうなんだろうか、と考えさせられる。宝くじが当たる夢をナイーブに持っていて、本当にそれが急に起こった時に、このドラマを見てわが身に寄せて考えたかどうかで、その時の幸不幸の縄目の状態が多少なりとも変わっていくんじゃないかと思う。そういう意味でも、「Everything Bad Is Good for You」というのは当を得ていて、掘り下げていけばいくほど面白いものが見えてきそうな奥深さがある。

作り手のモチベーション

 テレビは各局とも先週今週がシーズンエンドで、「ウェストウィング」「ボストン・リーガル」「プリズン・ブレーク」は先週で終了で(ウェスト・ウィングは残念ながら今シーズンで打ち切りで、ボストン・リーガルは継続決定、プリズン・ブレークは、こんな変なところで区切るなよという感じ)、「24」「アメリカン・アイドル」は来週まで。「アプレンティス」(ちょっとマンネリ気味)もファイナル4まで来た。他にも見てないけど、いろいろと主だった人気番組が一区切り。
 その中で、発明家発掘リアリティショー「アメリカン・インベンター」も、大成功のうちに第1シーズンを終えた。このショーのことは前に少し触れたけど、アメリカンアイドルのフォーマットを使った発明家オーディション番組で、優勝賞金の100万ドルと、発明品の商品化と、初代アメリカン・インベンターの栄誉を目指して一般参加者が競う。一次予選を通過した発明家達の二次プレゼンで上位12人に絞られて、この12人は5万ドルを元手に、発明品をより完成品に近いプロトタイプを開発し、最終プレゼンに望み、最後の4人が選ばれる。
 ここまでは、ジャッジが選考するが、最終選考は、生放送の視聴者投票で優勝者が選ばれる。視聴者投票の結果、安全性の高い振り子式のチャイルドシートの発明家が優勝者に選ばれた。決勝で敗れた残りの3人も、それぞれ商品化を目指すチャンスを得た。前乗り式の二人乗り自転車を発明した少年は、自転車製造大手企業がインターンシップを提供した。アメフトのトレーニングツールを開発した発明家は、歴史上のNFLプレイヤー、ジェリーライスが全面的支援を申し出た。子ども向けの単語学習ゲームを開発した発明家も、ボードゲーム大手メーカーが支援を買って出た。
 この手のオーディション番組は、挑戦者の質いかんで番組の流れが良くも悪くも変わるが、今回のこの番組は、その点挑戦者の質が高く、ジャッジや作り手側も、挑戦者達の発明にかける熱意や発明品の可能性の高さに引きつけられて、回を追うにつれて盛り上がっていった様子が伺えた。ジャッジたちは本気で楽しんでいる様子で、番組の演出も、ひとりひとりの挑戦者たちの熱意あふれる様子と、その背景にあるストーリーが豊富で、良質な素材に恵まれていた。
 最終回の投票結果発表ショーは、その作り手たちが成功を確信して、その成功を楽しみながら作られた様子が伝わってきた。ジャッジたちは興奮して「アメリカは発明家スピリットを忘れていないことをこの番組が証明した!」とか、イギリス人のジャッジが「この素晴らしい発明家たちに出会えてほんとによかった。こんなこと言うとちょっと病気っぽいけど、アメリカのこういうところは大好きだ」とかちょっとクサめなコメントを連発していた。「ぼくらはほんとに楽しんだし、来年もまたこの機会を作ることにした」と早々に番組継続のアナウンスもされた。他のリアリティショーは、いかに成功裏に終わっても、次のシーズンのことは言わないで終わるのが通常なので、作り手たちがそれだけこの番組の成功を気に入ったということなのだろう。
 この様子に、「作り手のモチベーション」について考えさせられた。どんな分野においても、この「作り手のモチベーション」は、案外見落とされているけれども、実はいいモノを作る上で非常に重要な要素だと思う。顧客志向とかユーザー志向とか学習者中心とか、近年は受け手のことに気を遣う傾向が高まっているが、それはこれまであまりに作り手がユーザーを見てなかったことによる反動で、自然なことではある。しかし、「作り手のモチベーション」を大事にしないプロジェクトは、いかにユーザー志向にしてもうまくはいかない。
 エンターテインメント業界は、少数の「アーティスト」や「クリエイター」、「作家」たちの生み出すコンテンツへの依存度が高いので、この問題が見えやすい。音楽業界は、レコード会社の担当が、アーティスト達に売れ筋の曲を書かせて売り出そうとプレッシャーをかけて、それでかき乱され、迷走して短命に終わった人たちは数知れない。他の業界の作家やクリエイターと、編集者やプロデューサー側の関係も同様である。うまく行くプロジェクトというのは、それら作り手側の関係が良好で、周りにのせられて、価値がどんどん生み出される。逆にその作り手の関係が良好でなければ、いかにいいテーマを追っていても、アウトプットは人の心を動かさないものに終わる。
 
 ユーザーを無視した「作り手中心主義」では、いかに作り手がやる気に満ちていてもその矛先は成功に向かうことはない。しかし過度なユーザー志向を作り手に押し付けることで、作り手のモチベーションを無視しても、結果はよい方へは向かわない。このバランスは量的な尺度で測れるものではなく、今何%ユーザー志向だからこれでよし、などという性質のものではない。判断基準は過去の事例や理論を引けば知識として得られるが、それ以上のことは、文脈の中で微妙な変化を読み取りながら判断するしかない。このあたりのバランス感覚のようなものは実践の中でしか磨けない。
 この点について、教育面について考えると、学校的な「うそ臭さ」が残る演習の中では、こうした感覚は磨けない。「だりぃ」とか「うぜぇ」とか言いながらやった作業は、いかに「プロジェクト型演習」や「実習」などというお題目で何かを作っても、将来いいものを作る作り手となるための土台となる経験は得られない。学校的な環境で工夫するとしたら、単に「演習っぽく」課題を与えるだけでなく、気を弛めるとケガをする環境とか、うまくいったらホントにすごい何かを勝ち取れるチャンスなど、演習の中に何らかの「リアリティ」を取り入れる必要がある。そういうリアルな文脈で、何かを作ったり実践したりする中で、湧き上がるモチベーションを感じて仕事をする経験が重要で、その経験から、その後にも継続的に学習を続けてスキルを身につけたり、何かを完成させようという態度が形成されていく。
 ではモチベーションがあればいいのかというと、そうでもなくて、知識やツールの足りない状態でのモチベーションは空回りするだけで、成果にはつながらない。やる気があるからと言って、必要な支援無しに仕事を任せてもうまく行かないのは言うまでもない。何を投入すればモチベーションがうまく回りだすかを把握するには、やはりそういう場面に直面する前につけた知識や経験がものをいってくるのであって、モチベーションだけでは乗り切れない。
 しかし、そういう知識や経験がない時に、何が切り札になるかというと、逆説的だが、実はモチベーション、あるいは「気合」だったりする。気合などを持ち出してくると、まったく科学的でも理論的でもない話になってきて、インチキくさくなってくる。しかし肝心な場面では、下手な理論よりも気合の方がよっぽど有効なのである。たたき上げの経営者が、学者の言うことを戯言扱いして耳を貸さない傾向があるのは、このことを経験則として持っているからであり、「人間力」とかうんちゃら力なんていう、尺度ともなんともつかないような言葉が流行っているのも、学校で作ったような下手な理論はいいから、この気合の部分を活かす方向でなんとかして、という社会的なニーズのようにも見える。
 気合や人間力を高めるには、受身の姿勢で寒げい古や遠足のような「生きる力」風の活動をやらせるよりは、「ホンモノの作り手」となって、本気で何かを作ったり、パフォーマンスをする経験をする機会を与える方が有効である。ただこれも、その機会の作り手の教師のモチベーションが低ければ機能しないし、受身な学校社会に馴らされて、「いかにやり過ごすか」にモチベーションが高まってしまった学習者は、スタートラインがずっと後ろにあって、素直な学習者と一緒に活動させるのは難しい。
 何から手をつけていけばよいか非常に悩ましい課題ではあるけれど、少なくとも間違いないのは、「学校」というカテゴリーでひとくくりにして、多様な変数や文脈の違いを無視して、一元的に「こうしなさい」と指導するスタイルは機能するはずがない、ということだ。すべての状況を考慮するのは不可能でも、いくつかのモデルを想定して、取れる選択肢を充実させることで、柔軟性を高めていくことは可能である。
 作り手のモチベーションを最も阻害する要因の一つは、作り手に与えられた工夫の余地のなさ、柔軟性のなさである。逆に言えば、作り手たる教師、あるいは教師から見れば学習者に、適切なサポートをしつつ、工夫の余地を与えることで、管理する側が想定しないような価値が生み出されることが期待できるのである。

Macの新TVコマーシャル

 最近オンエアされているMacのTVコマーシャルはかなり笑える。日本で流れているかは知らないけど、Appleのウェブサイトで公開されている。
http://www.apple.com/getamac/ads/
 WindowsとMac役の二人が「やあ、ボクはマック。」、「やあ、ボクPC。」と並んで出てきて掛け合いをしながら、Windowsの不便さをネタにして小バカにするという、MacのイメージCM。
 PC役のキャラクターが太めのさえないビルゲイツ風で、Mac役もGeek系だけどちょっとクールなMacユーザー風の若者。PCがフリーズしたり、ウィルスで風邪ひいたり、パッとしなさがどれも笑えて、特に「Network」編がいちばん可笑しい。
 二人が手をつないで「PCとMac同士のネットワークセットアップも簡単。お互いの言葉をわかるんだよ」と話していると、Macの隣に日本人の女の子がやってきて、Macと手をつなぐ。それを見てPCが「おいおい、誰よそれ?」というと、「日本のデジカメだよ」とMacが答えて、女の子と日本語で話し出して、、という流れ。
 このCMでの日本製品と日本語の使われ方は、アメリカで電器店に行くと日本製品がかなりの割合を占めているということと、最近のアメリカの日本ブームの影響があるように見える。Geekな若者の間では、日本のことを知っているのは「クール」で、日本の知識はファッションのようになっている。日本の製品と相性がよくて、日本語もかっこよくしゃべれちゃうMacはカッコいい、というイメージなのだろうか。とにかく、ここでもPC役のボケ具合がいい味を出していて、見るたびに笑える。
 Appleは昔からTVコマーシャルの使い方がうまくて、ブランド確立に貢献している。とはいえ、この部分だけ上手いというのではなくて、トータルのブランド戦略の精度が高いからこそ、その流れでTVコマーシャルも面白いものを連発できるのだと思う。

英語教育の足を引っ張るマスメディア

 アメリカ生活ももうすぐ丸4年というところで、ようやく最近「英語で考える」とはこういうことなのかなと実感できてきた気がする。日本語から英語に変換せずに話せることが増えて、ボーっとしている状態で頭に入ってくる英語の量が増えた。英語の夢を見ることも増えた。あいかわらず、英語が上手くなったとは思えないが、英語力不足のせいで会話の流れを壊す場面はあまりなくなった。
 今の自分には、英語ができるというのは、生活上の必然であって、なんら特別なことではない。これは日本にいる時の英語に対する態度とは明らかに変わった点だ。日本にいる頃は、おそらく多くの日本人が持っているのと同じく、英語を使うということ自体に畏怖の念というか、気恥ずかしさというか、不自然な感覚を持っていた。その心理的な阻害要因を減らすリハビリ期間にずいぶん時間をとられた気がする。そのような状態から始めなければならなかったことには、日本で受けてきた英語教育の方法や技術の拙さによるところも大きいと思うのだけど、それ以上に、日本で受けてきた文化的、環境的な影響の方が問題が大きい気がしている。学校の英語教育の場もその環境を形成している要素の一つだが、マスメディア、特にテレビがもたらす悪影響が案外大きいのではないかと思うようになった。
 テレビの悪影響の性質は今思いつく限りでは二つあって、一つは「日本人の英語アレルギー的態度の拡大再増幅」と、もう一つは「英語できる=カッコいい、的な過剰演出」である。前者の代表は、ズームイン朝の「ウィッキーさんのワンポイント英会話」とさんまのからくりTVの「セインカミュのファニエストイングリッシュ」で、後者は「巨泉の使える英語」やバイリンガルタレントの番組での使い方や、英語産業の英語できる=カッコいい的な売り込み方などがある。
 おそらく私が物心ついた頃に最初に英語というものを認知したのは、ズームイン朝の「ウィッキーさんのワンポイント英会話」ではなかったかと思う。毎朝、朝ごはんを食べて身支度をして、ウィッキーさんを見て、「朝のポエム」が始まる頃に学校へ向かう毎日を送っていた。番組内で、道行く日本人がウィッキーさんに話しかけられて、ごく簡単な英語の応答もできなかったり、逃げまくったり恥ずかしがったりするのを毎朝毎朝10年くらい見ているうちに、自然と「英語を話すというのは大変なことなんだなぁ」という意識が刷り込まれ、子ども心に大人たちの英語力の標準の低さを理解させられた。一回3分程度でも、毎朝見れば蓄積も大きくて、自分もウィッキーさんに遭遇したら、テレビに出ている不運な人たちとおそらく同じような反応をしていただろう。この番組は日本人の英語への態度を正直に映し出しているだけで、ウィッキーさんには善意こそあれ悪意はなかったにしても、視聴者が多い分だけ、この番組の悪影響は相当に大きかったと思う。「ファニエストイングリッシュ」も、日本人がいかに英語ができないかをパロディ化して描くことで、多くの視聴者に同様の影響を与えている。テレビを見て笑いながら、英語できなくてもOK、どうせみんなできないし、という態度が強化される。この弊害は案外大きいのではないかと思う。
 同様に、テレビに出てくる「英語のできる人」たちにも問題がある。テレビの英語ができる人たちは、英語をファッションの一部のように扱い、やたらカッコつけていたり、あるいは番組の作り手がそういうかっこよさを過剰に演出していたりする(バイリンガルタレントが取ってつけたように英語でイントロしてみたりとか)。あるいは、大橋巨泉のように、日本の英語教育がいかになっていないかをとうとうと説経して、日本にいて知っていても余り足しにならないようなワンフレーズ英会話を「使える英語」と称して大げさに扱っていたことも、英語に対する人々の特別な態度を強めていると思う。カッコいいから英語をやろうかという人には機能したとしても、それ以外の多くの人たちには、英語を学ぶことが過剰に特別なこととして捉えられて逆影響だという面が強いだろう。実際、高校の時のクラスメートに、英語ができる子がいたのだが、冷やかされるのが嫌で、わざわざベタな日本語アクセントに直して発音していたし、英語ができる人を冷やかしたり、冷やかされるのを避けて遠慮したりというのをいろんな場面で目にしてきた。それ以外にもマイナーなところでは、松本道弘が英語学習を「英語道」のように修行のような扱い方をしていたことも、英語を学ぶことへの心理的な敷居を高めることに影響していると思う。
 日本の英語教育の改革において重要なのは、英語教育の技術的な問題ではなく、「英語ができることで特別視される文化的風土」をいかに変えていくかという点に尽きると思う。技術的な問題や英語教員の質が改善されたとしても、文化的風土の問題がそのままである限り、日本人が道で外国人に遭遇して道を聞かれて、物怖じせずに教えることができるようにはならないと思う。逆に言えば、学校の英語教育改革にコストをかけるよりも、文化的風土の改善にコストをかけた方が効果がある。
 では、文化的風土を変えるためにはどうすればよいか。学校にこだわらなければいくらでも方法はあるし、そもそもシステム的な問題の変革には、いくつもの方法を併用して行なうことが必要である。方向性としては、わざわざ英語を教えるのではなくて、英語を使う機会を増やすことであり、日常生活の中で英語を学びやすくすることである。現在の英語補助教員招聘制度と、最近高まってきている日本文化学習熱とリンクさせるとか(おそらく今はほとんどリンクしてない)、英語圏からの観光者の長期滞在しやすい優遇区域を設置する事業に補助金を出して、各自治体に英語学習特区のようなエリアをあちこち作るといったことは有効かもしれない。現在の英語補助教員制度は、聞いた限りでは無駄が多く、コストに比してリソースが有効利用できてないようなので、若者たちの英語力を学校の英語の授業だけでなく、地域でも有効に利用できる形で再構成した方がよい。
 テレビに話を戻せば、わざわざ英語を学ぶためのテレビ番組を制作するのではなく、人気の海外の映画やドラマに、吹き替えではなくて、英語字幕を標準的に利用できるようにするだけでも英語の学びやすさはずいぶん変わる。日本語字幕や二ヶ国語放送も、多少は足しにはなるが、英語字幕によって何を言っているかを目で追えることの補助効果はそれらよりも格段に高い。DVDではすでに利用できるが、日常的に視聴するテレビでも利用できるようになれば、英語を聞くことが、より身近な存在になるし、そこで得られる英語は、教室の英語ではなくて、リアルな英語である。これだけでも、これまでに変な英語学習観で作られた番組がもたらした英語アレルギーをかなり癒すことができると思う(個人的には、子どもの頃に観ていた「ナイトライダー」とか「冒険野郎マクガイバー」とか「大草原の小さな家」などを英語字幕で見れたらだいぶ違っただろうなと思う。二ヶ国語放送はあったけど、それでは難易度にギャップがありすぎて学べなかった。中学の時に「コンバット!」のサンダース軍曹がかっこよくて、英語音声でがんばって観たりしたけど(もちろん再放送ですよ)、難しくてすぐ挫折したのを思い出した)。
 英語教育は学校の英語教育カリキュラムをいじるだけで完結する仕事ではなく、学習者の環境そのものを変えていかないと有効に機能しない。マスメディアの影響は、その環境要因の中でも重要度が大きいので、メディアから摂取できる情報の質を変え、英語を特別視せず、自然に学べるように方向付けていくことが重要になってくる。これは自分の経験からくる「ワタシの英語教育改革論」でしかないのだけど、教育システム変革論や社会学習理論を学んだワタシが、学術的な知見をベースに考えているので、多少はあてにしてもらっていいと思う。

学習メディアとしてのアメリカンアイドル

 全米ナンバーワン視聴率の歌手オーディション番組「アメリカンアイドル」も、いよいよ上位3人まで絞られて、今シーズンもあと少しで終わる。毎シーズン、レベルがあがっていて、今シーズンはさらにハイレベルになった。シーズン1で優勝したケリー・クラークソンはセカンドアルバムが大ヒットして、ほんもののアメリカンアイドルに成長したが、今シーズンの挑戦者たちも、それに続く素質を持っていると思う。何といっても歌がうまい。これだけ何度もやれば、そろそろ歌のうまい人も尽きてきて頭打ちになるだろうと思えば、そこはさすが市場のでかいアメリカ、次々とアイドルの素質を持った若者が現れてきて、競争のレベルアップによって、番組のマンネリ化を防いでいる。
 レベルアップしている理由として、この番組自体が挑戦しようとする人々の学習メディアとして機能していることが大きいと思う。番組は地方予選から最終選考までオーディションの模様をドキュメントして、トップ12に絞ったところでライブショーとして、視聴者投票で毎週一人ずつ落としていく形で展開する。サイモン・コーウェル、ポーラ・アブドゥル、ランディ・ジャクソンの3人のジャッジが、それぞれの持ち味を出しながら挑戦者にコメントする。オーディションでは、上手い人、下手な人、それぞれクローズアップされて、勝ち残る人や残れない人の歌い方、立ち振る舞い、ジャッジの目のつけどころなどが描写される。予選を通過した挑戦者たちの人となりや、勝ち残ることでその人に起こる生活の変化の様子など、この番組を通して起こっている人間ドラマがお茶の間(とはアメリカでは言わないのでリビングルーム)に届けられる。地方予選には10万人以上参加するので、やたらにぎやかだが、下手な人も多い。視聴者はその様子を見て、これなら自分の方がましだと思うかどうかは知らないが、番組の盛り上がりにやる気づけられ、応募する。参加したら、その先何が起こるか、勝ち残る準備をするためにどんな準備をすればよいか、といった情報は番組の中で豊富に出てくる。誰もが、シャワーを浴びながら毎日歌ったり、ボイストレーニングを受けたり、教会で歌ったりという形で、歌が生活の中で占める割合が大きくなり、結果、才能のある人は才能を開花させ、オーディションのレベルが上がる、という好循環がおそらく生まれている。似た例を出すとしたら、「アメリカ横断ウルトラクイズ」が感覚的には近い(リンクはWikipedia)。若い人にはこの例が機能しないのだが、このクイズ番組は当時は超人気クイズ番組で、多くの視聴者はこの番組に憧れ、クイズ王になることがステータスとなるなど、日本のクイズ熱を高めるのに大きく貢献した。題材を歌に代えて、それと同じような盛り上がりが全米のあちこちに広がっているとイメージすれば、だいたい近いと思う。
 このアメリカンアイドルも、ウルトラクイズも、大衆向けの娯楽番組である。しかし、非常に多くの人々の心に届き、その中のかなりの人々に学習の動機と目標を与え、行動に変容を起こしている。強いられて行動を変えるのではなく、自発的にトレーニングしたり、実践の機会を持ったりしている。すべては学校や公的教育の外の世界、教育関係の人々が嫌いだったり無関心だったりする、大衆向けの娯楽の世界で起こっている。しかも、教室の中での「生徒のやる気の起こし方、注意のひき方」なんていう小ネタレベルの話とは比較にならないダイナミックな話である。人々がよりよく生きるためのきっかけや経験を提供する手段は、教育的である必要はなく、結果的に意図したものが人々のもとに届けば、表向きは娯楽であれお笑いであれ構わないはずである。教育という表面的な体面にこだわっている場合ではなく、もっとよい意味でずるくなって、いろんな手段を使うことを考えていく必要があると思う。

アメリカン・インベンター

 つい最近、発明家オーディション番組の「アメリカン・インベンター」(ABC)が始まった。一言で言えば、アメリカン・アイドルの発明家版といった内容。アメリカン・アイドルのジャッジの一人であるサイモン・コーウェルがエグゼクティブプロデューサーに名を連ねていて、番組フォーマットはアメリカン・アイドルとほとんど同じで、地方予選で勝ち残った発明家が自分の発明をブラッシュアップしていって、最後まで勝ち残った一人がアメリカン・インベンターに選ばれ、100万ドルの賞金と、発明品の商品化の栄誉に預かることができる。今はその地方予選をやっているところ。
 地方予選の回はアメリカン・アイドルもかなり面白いが、この番組の方が挑戦者のユニークさの幅が広いので格段に面白くなっている。いろんなレベルの街の発明家が挑戦してきて、ジャッジにけちょんけちょんにけなされたり、発明への想いを訴えて感動の場面を生んだりして、楽しさの幅が広い。こんな全国ネットのテレビで自慢の発明を公開してもいいのかなと思いつつやり取りを聞いていると、どうやら全部ではないと思うが、出てくる発明の多くは特許をすでに取っているようである。すごくくだらない発明品や、王様のアイデアに売ってそうなアイデア商品もどきのものもあれば、ホントに売れそうななかなかの発明までさまざま出てくる。全財産つぎ込んでこの番組に賭けているという挑戦者が何人かいたが、あっさり落とされた人も、次に進めた人もいた。アメリカンアイドルと同じく、挑戦者達の熱意と自信はものすごいものがあって、発明家という人々の持つある種の胡散臭さも相まって、出てくる人々の人物描写が番組の一つの売りになっている。
 まだ番組は始まったばかりなので、これから次のステージに進んで、決勝ラウンドまでどういう風に進むのか楽しみである。

ディール・オア・ノー・ディール

オリンピックが終わって、テレビも通常編成に戻ってきたが、今週はNBCではゲームショー「ディール・オア・ノーディール」を一週間連続特番でやっている。
このショーは、一般参加の挑戦者が、1セントから250万ドルまで26種類の金額が入った26個のスーツケースのうちから一つをキープしておいて、残りの25個のうちから安い金額だと思うスーツケースものから選んで外していく。途中でバンカーから金額のオファーがあり、その金額を受けるか、さらにスーツケースを選んで外していくかを選ぶ。オファーされる金額と、残された金額の価値のバランスを見ながら、どこでストップしてディールするか、というゲームである。番組ウェブサイトにこのゲームのルールそのままに作られたミニゲームがあるので、これを試してもらった方がわかりやすいだろう。
ゲームの原理はロシアンルーレットの派生形で、当たり外れの大きな賭けでの一か八かのスリルが、ゲームを盛り上げる要素になっている。ショーの演出は「ミリオネア」の延長線上にあって、番組のホストが一回一回の意思決定の過程を煽ったりもったいぶったりしながら盛り上げていく。クイズ要素をなくしたミリオネアをイメージしてもらえばだいたいそんなイメージだ。そのような構成で、一般参加の挑戦者とその応援の人たちが、大金への欲と理性のせめぎあいで盛り上がっている様を見て楽しむ番組である。この手のゲームショーのお約束で、スーツケースを開けるのはアシスタントの女性なのだが、スーツケース一個に一人ずつ派手なモデルのおねえさんたちがついてずらっと並んでいて、無駄に豪華さを演出しているのが笑える。
グーグルでこのショーのことを調べたら、ウィキペディアにやたらと詳しい解説があった。この番組はオーストラリアで最初に放送され、その後38カ国で各国のバージョンが制作されていて、ルールはそれぞれ若干違うそうだ。この番組の面白さは、意思決定のリスク変動をエンターテイメント化した点にあって、そのリスクの動きと挑戦者の行動を分析した論文まで出ている。
番組のフォーマットはいたってシンプルであり、クイズすらやらず、単純に大金をかけて箱を開けるだけである。それだけでゴールデンの時間帯で視聴者を集め、スポンサーも広告に大金を払う。いかにもテレビ的な大衆向けコンテンツなのだが、変にゴテゴテ盛り込まず、シンプルでわかりやすく、切れ味のあるフォーマットを作れるのは、テレビ業界のクリエイターのすごさだなと思う。

24 シーズン5

 24のシーズン5が始まった。2時間特番を2日連続で、4時間分が放送された。これを観てしまった人は完全に今シーズンも虜となってしまったことだろう。よくもまあこんなにテンションの高さが続きっぱなしのストーリーが書けるなと感心させられる。日本での放映はしばらく先だと思うので、内容については書かないけど、24ファンの皆さん、期待してていいよ。