京都府八幡市の中学校の英語の授業でニンテンドーDSソフト「中学英単語ターゲット1800DS」を使った実証研究の結果について各紙で報道されている。
携帯型ゲーム機使い英語学習 八幡市内4中学校で始まる(京都新聞)
英単語学習:ゲーム機で語彙力4割アップ 京都・八幡(毎日新聞)
子供の脳も鍛えます…ニンテンドーDS、中学教材に活用(産経新聞)
京都は任天堂のお膝元だけあって、このような取組みをやりやすい面があるのか、以前からも病院の待合室にDS設置とか、立命館大学でDSゲーム開発の共同研究といった活動が行われている。この八幡市での取り組みは、実際の授業の場での実証研究として行われていて、結果も「語彙力4割増」という具体的な数字で成果が示されているので、一般からも注目されやすいのだろうし、教育行政でも話がしやすそうだ。
ここでは、ニンテンドーDSというゲーム端末を使用しているから「テレビゲームで英語学習」と見る人には映りそうだが、やっていることは従来からある「電子メディアを使ったドリル学習」だと思う。使っているソフトウェアは、ゲームの要素は加味されても基本的には従来のドリル学習教材の延長線上にあって、単語帳を電子メディア化して使いやすくしたものだ。DSというメディアの新奇性や、単語暗記という学習内容、それにモジュール学習というカリキュラム上のニーズにこの教材が適していたことなどの要素も気にとめておいた方がよいだろう。
このような報道が出ると「教師がいらなくなってしまうのではないか」とか「こんなやり方で楽しい勉強に慣れてしまったら苦しい勉強ができなくなるのではないか」といった否定的な意見が出る。だが、この程度のことで成果が出るというのは、これまでの教育の効率が低すぎたのであって、ドリル学習のような単純作業がうまく指導できていなかったことや、教師というリソースの使い方に問題があったのではないか、と考えるべきだろう。ゲーム機でも何でも、このような形で学習の効率化が進めていけば、教師はさらに重要なことに注力できるのだから、そのような利点に着目した方がよい。それに学習すべてが苦しい必要はなくて、単純なドリルは楽しく効率よくやれた方がよい。それで基礎的で面倒なところはマスターしてしまって、さらに高度で面白いところ、しかもこのようなドリル教材ではカバーできないことに生徒たちが取り組めるようになれば、学習の質そのものが変わってくる。そこでは教師の役割はさらに重要になるはずだ。
逆に「英語学習は全部ゲームでやってしまえばいい」「他の科目もどんどんやれ」といった肯定的な意見を促すことにもつながるだろう。それ自体は悪いことではないが、この研究では単語の暗記という単純な学習の成果をあげるというところしかカバーしていないことに留意する必要がある。おそらく、ある程度高度なものでも成果の出せるものは作れると思うが、より高度で複雑な学習内容に対応しようとすると、教材の質が左右する面が大きくなるし、授業への導入も難しくなる。そのような難しさを理解せずに安易にやろうとすると失敗するだろう。
いずれにしても、ゲーム機だからといって特別視したり、頭から拒否してしまうのではなく、よりよい学習の場を提供するためには使えるものはなんでも使う姿勢で臨み、よし悪しを冷静に見ながら判断していくことが大切だと思う。
「Games for Learning」カテゴリーアーカイブ
ゲームと非ゲームとシリアスゲーム(3)
シリーズ3回目、これでいちおう完結です。前回の「ゲームと非ゲームとシリアスゲーム(1)」と「ゲームと非ゲームとシリアスゲーム(2)」も合わせてご覧ください。
★シリアスゲームと非ゲームの違い
シリアスゲームと非ゲームの違いは、「それがゲームであるかどうか」にある。ゲームかどうかを分ける基準については、前回まとめたのでそちらを参照してほしいが、基本的にはそのコンテンツのゲーム性の度合いの問題で、ゲーム要素がそのコンテンツを代表するものかどうかで区別するのがよい。「ゲーム以外の要素も入ったゲーム」なのか、「ゲームの要素も入ったマルチメディアコンテンツ」なのか、どちらに区別できるかでだいたいのタイトルは整理が可能だろう。
シリアスゲームはゲームにそのアイデンティティがあり、非ゲームは「ゲームに非ず」という点にアイデンティティがある。概念上はこの点が明確な違いとなる。ところが、非ゲームは「(従来の)ゲームに非ず」という意味でも使われていることは前回にも述べた。非ゲームのこのアイデンティティは、シリアスゲームと重なっていると言ってよい。さらに別の側面から見ると、シリアスゲームと非ゲームの共通点として、「教育・学習や何かの用途を意図したコンテンツ」というところが挙げられる。この点においても、シリアスゲームは非ゲームと概念的に重なっている。
つまり、シリアスゲームと非ゲームは、文字通りの非ゲームという意味で捉えれば、ゲームではないという点で別のものだが、「何かの用途のための、従来のエンターテインメントゲームとは異なるゲーム」という点では同じものだと言える。
こう考えていくと、「非ゲームはシリアスゲームか?」という質問にはイエスでもありノーでもある、その理由は上記の通りで、非ゲームという用語の持つ二つのアイデンティティのどちらを採るかで答えが変わるということになる。
「シリアスゲーム」参考文献リスト掲載
拙著「シリアスゲーム-教育・社会に役立つデジタルゲーム」の巻末の参考文献リストをシリアスゲームジャパンに掲載しましたのでご利用ください。
https://anotherway.jp/seriousgamesjapan/archives/000874.html
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追伸: 明日、シリアスゲームサミットのためにサンフランシスコへ移動です。また新しいシリアスゲーム情報を仕入れてご紹介したいと思います。GDC参加の皆さん、現地でお会いしましょう。
ゲーム脳と脳トレ
毎日インタラクティブに「脳研究:「ゲーム脳」、「脳トレ」 どっちがホント?」という記事が出ていた。
この話はすでに科学的にどちらがどうという話ではなくなっていて、森氏も川嶋氏も研究の一部を切り取られて、利用する側の都合の良いように取り上げられているところがある。森氏は先日の毎日新聞のインタビュー記事で「ゲームが良い効果を与える可能性もある」と、最近のDSブームの影響もあってか、だいぶ矛先を緩めていた。ところが、この記事では「最近になって「ゲームはいけない」との主張を「1日15分なら大丈夫。共存も考えなければ」と変えた。こうした一貫性のなさも不信を持たれる一因だ。」などと書かれている。脳トレブーム過熱を取り上げる趣旨はわかるものの、ようやく下火になってきたゲーム脳の話をまた引っ張り出してきて、こういう風に煽って森氏を追い込むのはどうかと思う。
PTAや教育委員会など、「ゲームが脳に悪いという話を聞きたがっている人々」は、ゲームに理解を示す森氏の講演など聞きたくないのであって、そんな聴衆の期待に応えようとすれば、森氏も自分の主張の一番濃いところを話さざるを得ない。ゲーム脳はもはや森氏の講演のネタでしかないのであって、科学性云々を議論するところにゲーム脳の話を持ち込むのはすでに意味がなくなっている。
「脳トレ」の方も、ビジネスの具になってしまってからは、すでに科学の話からは逸脱してきていて、科学的正しさは論点ではなくなってきている。煽っているのは科学者の方ではなく、それを利用するビジネスの側の人たちである。もし仮に脳トレの効果はないという研究結果が出てきたとしても、その結果がファイナルアンサーではないし、川嶋氏の研究結果を全て否定するものでもない。「納豆を食えばやせる」というようなレベルで盛り上げている方とそれを真に受けている方に問題がある。脳トレでできる程度の脳の活性化は、他にもやりようがあるなかで、川嶋氏は一つの方法論として学習療法を提唱しているに過ぎない。提唱している側が過熱しているのではなく、取り上げる側が過熱しているだけだ。この記事もよく読めばその辺りも踏まえて書かれているようにも読めなくはないが、記事の売りを強くするために「ゲーム脳VS脳トレ」のような本質でないところに焦点が当たってしまっているの残念。
ゲームとしての脳トレも、まだ技術としては稚拙であって、同じテーマでもデザインのやりようでもっと高度なことができる。任天堂がたったの3ヶ月で開発したものをあたかも脳トレタイプのゲームのスタンダードのようになってしまい、各社とも同じようなフォーマットのゲームをせっせと作っている。昔の学習ゲームの焼き直しのようなものを作るのでなく、より高度なものを目指さないと、せっかく形成されようとしている市場もあっという間に冷え込んでしまうだろう。
ゲームと非ゲームとシリアスゲーム(2)
前回の「ゲームと非ゲームとシリアスゲーム(1)」に続いて2回目。前回分から先にご覧ください。
★エンターテインメントゲームと非ゲームの違い
DSで注目されるようになった「非ゲーム系コンテンツ」にも幅がある。まったくゲーム性のないものも、ゲーム的な要素を多分に含むものもこの枠の中で語られている。「ゲームか非ゲームか」を分ける要素は、「ゲーム性の有無」と、「ハードとしてのゲームメディアをプラットフォームに使っていること」の2つである。
「ゲーム性の有無」については、「ゲームとは何か」というところに立ち返って考えると、ある程度境界線がはっきりしてくる。たとえば、「バランス・オブ・パワー」などの戦略シミュレーションゲームのデザイナーとして知られるクリス・クロフォードは、著書「The Art of Computer Game Design」で、コンピュータゲームは次の4つを共通要素として持つとしている。
・描写(Representation)
・インタラクション(Interaction)
・対立(Conflict)
・安全性(Safety)
これを簡潔にまとめれば、「何かの世界を描写して文脈が提示され」、「ユーザーのアクションに対してフィードバックがあり」、「一定のルールや競争やチャレンジがあり」、「アクションの結果が現実には直接影響しない」ことだとされる。クロフォードだけでなく多くの研究者やデザイナーがゲームの定義を議論している。(詳しくは拙著「シリアスゲーム」の第一章「ゲームと教育・学習」を参照)。この要素の有無で判断すると、非ゲームと呼ばれている製品も「ゲーム性あり・なし」の軸で位置付けが見えてくるだろう。
ここで「ゲーム性あり」に分類できるのに、非ゲームとして語られているタイトルはなぜそうなのか?それらは「従来のエンターテインメントゲームとは異なるタイプのゲーム」という意味での非ゲームなのであって、「非(エンターテインメント)ゲーム」である。「ゲーム性なし」のタイトルは、文字通りの意味での「非・ゲーム」なのであって、それらは「ゲームメディアで提供されるゲームでないコンテンツ」、または「ゲーム会社がゲームのノウハウを使って開発したゲーム以外のコンテンツ」という意味でわざわざ非ゲームと呼ばれているのだと言える。つまり、非ゲームには「非エンターテインメントゲーム」と「ゲームメディアで提供される(ゲームのノウハウを利用した)ゲーム以外のコンテンツ」の2種類あると考えるべきだろう。
具体的なタイトルを例にして考えてみる。「脳トレ」や「常識力トレーニングDS」をはじめとする同種のタイトルは、教育分野から見れば「学習履歴管理機能付のドリル学習教材」であり、それがゲームをプレイしているような快適な操作感で気軽に利用できるという点に付加価値がある。だがそれと同時に、これらはゲームのジャンルで言えば、「クイズゲーム」や「パズルゲーム」と呼ばれるものであり、プレイ過程の全体を通して、上記のゲームの要素がすべて当てはまる。学習要素が強い「英語漬け」も、ゲーム性の観点から見れば、ここに区分されると言ってよいだろう。
「ニンテンドッグス」も、「バーチャルペットソフトウェア」と捉えればゲーム以外に括ることもできるが、プレイ内容自体はゲームそのものだ。芸を仕込んで大会に出て賞金を得るところや、貯めたお金でアイテムを買い、部屋をアップグレードするなどの活動は、エンターテインメントゲームで普通に出てくるゲーム要素である。また、「タッチで楽しむ百人一首 DS時雨殿」は、そもそも百人一首がカードゲームであって、麻雀やポーカーがゲームなのと同じくゲームである。これらはいずれも、従来のゲームの枠組では出てきてなかったタイプのゲーム、という意味で非ゲームとされていると捉えるのが適切だ。
一方で、辞書ソフトやレシピソフトなど、ルールに沿った競争やチャレンジを含まないタイトルは、文字通りの「非ゲーム」である。DSというプラットフォームを使っていて、ゲーム会社が作っているので、「ゲームでないコンテンツ」という整理の仕方が意味を持つと言える。ただし、非ゲームコンテンツがメインであっても、「弾いて歌えるDSギター”M-06″」の「耳トレ(コードの音を聞き当てるゲーム)」ように、クイズゲーム的な要素が含まれるものもある。その意味で、この手の非ゲームにも多少のゲーム要素を含むものはあるので、前述のゲーム性の有無によって分類を細分化できる。
こうして考えていくと、重要な視点が二つ浮かび上がってくる。一つは、「学校や資格取得のテストは、実はゲームとやっていることは変わらない」ということだ。英検もセンター試験も、世の多くの筆記テストの類は、運営の簡略化のために多肢選択式質問になっていて、これは要は2択や4択のクイズのことである。学校で嫌々学んでいたことを、マーケティング的にキャッチーなテーマで区切って、DSというプラットフォームにのせただけで、老いも若きも喜々としてやっている。
ここに一つ教育方法論として掘り下げるべきテーマがある。学校や塾が行っている教育の多くは「クイズ回答者養成」に過ぎない。出題形式や内容が少し面倒くさいだけで、やっていることは単なる「クイズ研究会」と同じだと言っても別に言い過ぎではない。DSのヒットが、そもそも教育機関がやっていることが「クイズ対策」でよいのか、多くのところはゲームメディアで肩代わりできてしまうのではないか、という問題提起となっている。従来は見過ごされてきた知識教育偏重の学校教育の根本的な問題が、DSのヒットによって明らかにされているという点にもっと着目すべきだろう。
もう一つの視点は、DSがエンタテインメントメディアからより一般的な家庭用インタラクティブメディアとなった時に、この「非ゲーム」という区切りがどう変化していくのかという点だ。今はまだ珍しいのでわざわざ「非ゲーム」として整理しているが、ゲームでないコンテンツが当たり前になった時点で、このジャンルは意味を失う。その時に非ゲームはどんな付加価値を持つのかが非常に問題になる。
「脳トレ」のヒットで出てきたフォロワータイトルの多くは、これまでにパソコン用ソフトウェアで出ていたタイトルの焼き直しで、いわば「エデュテインメントの逆襲」といったところだ。そこにはゲーム会社の持つノウハウもなにもなく、単にラベルを張り替えて、DSというプラットフォームの売れ行きに便乗しているだけのようなタイトルもある。そのようなタイトルばかりが続いていくと、おそらくは脳トレブームも消費されて市場も冷え込んで消えていくことになる。
だがそんななかでも、たとえばレベルファイブの「レイトン教授と不思議な町」のように、ゲーム会社が作るからにはこうだ、という気概をみせているタイトルも出ている。ゲーム会社がこれまでに培ったノウハウを持ってしっかり作りこんだ作品が出てくれば、「脳トレ」が切り開いた市場を一つのジャンルとして定着していく可能性はある。学習や癒しや技能の習得など、従来のゲーマー層以外の人々がゲームを手にする「言い訳」を持ちながら、さらに高度なゲーム性や従来にない操作感の良さを持ったタイトルを開発していくことが、今後のDSの非ゲーム系コンテンツの発展の鍵になるだろう。
ゲームと非ゲームとシリアスゲーム(1)
先日受けた「まんたんブロード」の取材の時に、ニンテンドーDSの成功とともに「非ゲーム系コンテンツ」が注目されており、それらとエンターテインメントゲームやシリアスゲームをどう区別して捉えればよいか、という話になった。記事ではその話はうまく伝わる形では触れられていなかったので、簡単に考え方を示しておこうと思う。
エンターテインメントゲーム、シリアスゲーム、非ゲームとも、その境目のあたりはそれぞれに重なっており、区切りははっきりしない。「エンターテインメントとして遊べて、シリアスゲームとして機能して、コンテンツのコアの部分は従来のゲームではない」コンテンツというのは存在し得る。エンターテインメントゲーム、シリアスゲーム、非ゲームの3つの輪が重なったベン図をイメージしてもらえばよいと思う。既存のタイトルの例では、「脳トレ」、「常識力トレーニング」、「ニンテンドッグス」などはここに含まれるだろう。それ以外の「これってシリアスゲームでは?」「非ゲームでは?」と思いつくタイトルも、いずれも何らかの形でその境界線のあたりにいると考えてよいだろう。
3つのタイプのコンテンツが重なる部分を無理やり切り分けて考えようとしても、厳密に切り分けることは不可能だし、そんなことをしてもあまり意味はない。むしろそれらが重ならない要素を整理した方が得るところが大きいので、少しその辺りを整理してみようと思う。
★エンターテインメントゲームとシリアスゲームの違い
もうすぐ発売の拙著に考え方を整理しているが、基本的には「作り手の意図」と「使い手の意図」の要素がその違いとなる。まず、そのゲームがシリアスゲームかどうかを判断するポイントは、作り手が「純粋な娯楽以外に何かのタメになる」ことを意図しているかどうか。次に、使い手が「娯楽以外の目的で」そのゲームを利用しているかどうか。この2点が判断軸となる。「遊んでいるうちに脳が鍛えられる」、「癒される」、「何かができるようになる」、という要素を考慮してゲームがデザインされているか、販売されているのであれば、そのゲームはシリアスゲームだと言ってよい。
また、作り手にそのつもりがなくても、使い手側がそうした意図を持ってゲームを利用することもある。エンターテインメントゲームとして作られていたとしても、学校の授業で利用されたり、運動不足解消のために利用されたりすれば、そのゲームはシリアスゲームとして利用されていることになる。
シリアスゲームとは、「エンターテインメント性のないゲーム」ではない。ゲームの持つ人を夢中にさせる力や学習を活動のなかに埋め込む技術を教育課題や社会問題に利用する、ということが基本にあるので、エンターテインメント性、あるいはゲーム性は、そのコンテンツの重要な要素として扱う必要がある。その意味で、エンターテインメントゲームとシリアスゲームの重なる部分は大きい。
ポイントは「エンターテインメントの要素をどれだけ前面に出すか」ということにあり、そのゲームの想定される利用シーンによって、扱い方が変わってくる。ユーザーの自由時間の利用をメインにするのと、学校の授業での利用をメインにするのとでは、楽しさの要素の力点の置き方は変わってくる。
いかに何かのタメになることをうたっていたとしても、つまらないゲームはユーザーの生活に浸透しないし、逆に学校での利用がメインであれば、(ゲームに対する期待水準が下がるので)楽しさの部分はある程度妥協できても、学習効果や授業での使いやすさの点で強みを出す必要がある。
このように考えると、エンターテインメントゲームとシリアスゲームの切り分けは、機能面の捉え方の問題であるとともに、多分にゲーム開発のマーケティング問題に絡むところが大きい。そう考えると、エンターテインメントゲームの開発においても、ゲーム業界が社会に働きかけるための補助線的なコンセプトとしてシリアスゲームを捉えていくと、まだ未開拓分野は広大で、アイデアしだいで新たなヒット作を生み出す可能性は大きいことが見えてくるだろう。
今日のところはここまでにして、不定期連載で次のトピックで話を続けようと思う。
★エンターテインメントゲームと非ゲームの違い
★シリアスゲームと非ゲームの違い
バーチャル講演会初体験
先日シリアスゲームジャパンでも紹介した、AOGCプレイベントのセカンドライフ内でのバーチャル講演会の件について、こちらでは個人的な所感を。
日本時間の2月2日金曜午後1時から開始されて、東部時間のこちらは2月1日の午後11時、深夜の参加となった。講演会とはいえ、アバターだけで本人の顔出しはないので、本人はだらしない家着姿。アバターはこの講演のためにセカンドライフ内のメンズウェア店で買ってきた青シャツにネクタイ姿に着替えて参加。スーツを買おうと思って、カジノでお金を増やそうとがんばったがだめだった。
会場は、リアル、バーチャルともデジタルハリウッドさんにご提供いただいての開催となった。バーチャル会場は多目的広場のようになっているところに結構立派なものが特設ステージが設営されていた。
会では、駒澤大学の山口先生の講演の合間にゲストとして10分くらいでシリアスゲームとシリアスゲームの観点から見たオンラインゲームの話をした。聴衆はリアル会場の方にプレス関係者が10数人にいて、バーチャル会場の方も10人くらい。こちらはアメリカからの完全バーチャル参加なので、リアル会場の様子はさっぱりわからない。バーチャル会場もアバターなので聞いているのかどうなのか反応はわからない。話している感じとしては、ラジオ講座や電話会議をしているのと似た感覚だと思う。自分のペースで話せるようになるには少し慣れが必要になる。今回は慣れてないので話しづらさの方が上回った。
せっかくバーチャルな世界でプレゼンをするのだから、なにかセカンドライフだからできることをやれないかと思って、とりあえず宙に浮いて高い位置にあるスクリーンの横で話をしてみた。そうしてみたのはよかったが、スライドを見える視点にしながらアバターに前を向かせる方法がわからず、聴衆にはずっとオシリを向けたまま話すことになってしまった。リアルでもバーチャルでも、慣れない環境ではいちいち勝手のわからないことが起きるのは変わらない。
バーチャル会場では机と椅子が並んでいたが、座るとスクリーンが見やすいわけではないので、もっとみやすい位置を求めて宙に浮いて話を聞いている人が多かった。講演会場は、リアル世界をモデルに作られていたが、必ずしもそうする必要はないのかもしれない。空を飛べることを活かした講演会場やイベント会場の座席配置をデザインするのは面白そうだ。その意味では、セカンドライフ内の施設の多くは、リアル世界の模倣でしかないので、セカンドライフの特性を活かしたリアルのモデルにとらわれない施設デザインと言うのが今後重要なテーマになってくるだろう。
講演中のやり取りにしても、まだ実施する側も話す側も不慣れで未開拓な要素は多い。講演者としては、質疑応答の時に音声とテキストチャットと二つのチャネルがあるため、リアルの質疑応答とはやり取りの仕方が変わってくる。不慣れなために、チャットの方に気をとられて音声での質問をうまく聞き取れず、ずれた回答をしてしまうことも生じた。この辺りはこのようなイベントを何度かこなす中で型が見えてくると思う。
現時点では、セカンドライフならではの使い方はまだ出てきていない。だからといって、一度や二度試しただけで、あまりよさが見えてこないと考えるのは早計だろう。いかなるツールも少し使い込んでみないと判断できない。セカンドライフは使い込んでみるに値する多様な機能とポテンシャルを持っていると思う。今回のようなリアルとバーチャルの連動イベントのような試みを重ねて行けば、また面白い用途も思いつくだろうし、そこからあらたなデザインのアイデアも浮かんでくるだろう。
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★補足:なお、先日毎日新聞のフリーペーパー「まんたんブロード」に掲載された記事が「まんたんウェブ」に掲載されたのでご覧ください。
特集:脳トレ・DSビッグバン 「DSの成功は世界に驚き」シリアスゲーム研究者に聞く(毎日新聞まんたんウェブ)
http://mantanweb.mainichi.co.jp/web/2007/02/dsds.html
ゲームで身につく知識・スキル(1) プロービングとテレスコーピング
ゲームをプレイすると、さまざまな知識やスキルが身につく。これまでは、「何となく身についている気がする」感覚でしかなかったものが、ゲーム研究者によって徐々に概念的に整理されて、学術的な言葉で説明されるようになってきた。
最近、翻訳書が出たおかげで広まったのは、スティーブン・ジョンソンの「ダメなものは、タメになる テレビやゲームは頭を良くしている」のなかで触れられている、「プロービング(probing、調査)」と「テレスコーピング」という認知的スキルだ。「プロービング」とは、ゲームを始めて、そのルールや目的、コツを理解するための調査行動、「テレスコーピング」とは、目的達成のための行動を構造化して順序だてる知的作業のことを意味する。
インベーダーやパックマンのような昔のアーケードゲームやテトリスのような単純なパズルゲームであれば、ルールも目的もすぐに理解できるため、プロービングもテレスコーピングも不要だ。ところが最近の大作ロールプレイングゲームやリアルタイムストラテジーゲームのような複雑なゲームになってくると、ゲーム世界は広大で、与えられる情報も膨大、複数の目的やタスクが同時に進行するものが多い。そうなってくると、上手くゲームをプレイするためには、インベーダーをやるような感覚とは全く違った高度な情報処理が必要になってくる。
プレイヤーは、そのような複雑なゲームの世界で、自分のおかれている状況や次に何をすればよいかを把握するための調査行動を取って、その世界のルールや自分が取れる行動の範囲、次に行うべきことを見出す。その次に、取れる行動の中で、目的に合わせて最適な行動を取るためにはどの順番で行なえばよいかを大目的、中目的、小目的と構造化して、制約条件を勘案しながら順序立てる。地点Aに行くのがゴールとして、そこに行くためには地点Bに行って地図を手に入れ、途中の地点Cに出てくる敵を倒すために必要なアイテムを地点Dで手に入れ、そのアイテムを手に入れるための条件を地点Eで満たし・・・といった具合に、作業工程がガントチャートのような形で頭の中にマッピングされる。
ゲームの初心者は、このプロービングもテレスコーピングもできないままにプレイすることを余儀なくされるため、目的到達までに余計な労力と時間を要する。慣れてきて上達してくると、ゲームの勘所がわかってきて、無駄なことをせずに必要な作業に労力を集中することができるようになる。
この二つのスキルは、日常生活において未知の環境で必要な情報を見つけ出したり、複数のタスクを与えられても混乱せずに効率よく仕事を進めるために必要なスキルそのもので、斉藤孝の言うところの「段取り力」に近い概念だと言える。問題は、ゲームの中で身につけたこれらのスキルが他の環境に置かれた時に引き出してこれるような、「メタ化された知識」として定着させられるかにかかってくる。
一つのゲームに熟達することで、他の同じジャンルのゲームでも上達が早まるということが起きるのは、そのジャンルのゲームを一つの領域とした知識(ドメインナレッジ)が蓄積された状態になっている。それを異質な環境や全く異なる領域でも利用可能な知識にするには、ドメインナレッジをもう一段階押し上げて、メタ化する必要がある。部分的な知識をドメインナレッジ化して、さらにメタ化した知識にするような認知的変容を、教育学的には「学習の転移」と言い、学習の転移を起こす学習原理や教育方法の研究は、長年にわたって取り組まれてきた。
ゲームで身につく知識は、普通に一つのゲームだけ熟達しても日常生活や他の領域で使える知識にはなりにくい。知識を領域化し、メタ化を促す作業が必要となり、なかでも特に個人の学習行動の中では振り返りや省察と呼ばれる行動に支えられる要素が大きいと思われる。そうした学習行動を起こすには、ゲームの中でそのようなサポートをするゲームが出てきてもよいし、ゲームの外で行われる学習活動を支援する活動の中で消化するということも可能だ。そのために重要になってくるのは、ジョンソンが指摘しているように、昔のゲームのイメージで今のゲームを捉えないことであり、ゲームの中で起きている知的作業の意味を捉え直していくことだろう。
※プロービングとテレスコーピングの詳細は、次の文献を参照。
北米版クソゲーワースト10
雑誌「PCワールド」のカナダ版で、「The 10 worst games of all time」という記事が出ているのを見かけた。ベストゲームだったらグローバルによく知られたゲームが出てくるものだが、ワーストとなるとローカル色が豊かになって、知らないゲームばかりになる。カナダのパソコン雑誌の記事なので、これは北米版クソゲーワースト10。軽く取材して書いたような半分ジョークの雑誌ネタなので、話のネタ程度に軽く読んでください。
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1. E.T.: The Extra-Terrestrial (Atari, 1982): Atari 2600
2. Super Columbine Massacre RPG (Danny Ledonne, 2005): Windows
3. Custer’s Revenge (Mystique, 1982): Atari 2600
4. Daikatana (Eidos Interactive, 2000): Windows, Nintendo 64, GameCube
5. Pac-Man (Atari, 1981): Atari 2600
6. Smurf Rescue (Coleco, 1982): ColecoVision, Atari 2600
7. Shaq Fu (Electronic Arts, 1994): Sega Game Gear, Sega Genesis, Super Nintendo, Amiga, Game Boy
8. Make My Video (Digital Pictures, 1992): Sega CD
9. Prince of Persia: Warrior Within (Ubisoft, 2004): PlayStation 2, Xbox, GameCube, Windows, cell phone, PlayStation Portable (as Prince of Persia: Revelations).
10. Elf Bowling (NStorm, 2005): Nintendo DS
ランク外
Death Race (1976)
Microsoft Bob GeoSafari (1995)
Postal (1997)
Deer Hunter (1997)
The Typing of the Dead (2000)
The Howard Dean for Iowa Game (2003)
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こうしてみると、「ユーザーの期待と現実のギャップの激しさ」を演出したゲームが「記憶に残るクソゲー」として思い起こされるようで、これは日米同じというところだろう。パックマンがランクインしているのは、Atariの移植版があまりにも出来が悪くてユーザーをがっかりさせたゲームだから。Daikatanaは、Doomをデザインしたことで有名なクリエイターの次回作ということで期待させながら延期でさんざんファンを待たせた挙句に失敗作が出てきたということらしい。
あとは、「作りこみの甘い安易なタイアップ、キャラクターもの」、「人気ジャンルを追従して大失敗」、「実験的な挑戦にコケた」、「どうしようもなく見るに耐えない品のなさ」という要素のいずれかがここに挙げられた理由となっているように思われる。
栄えある1位となったETはもちろんのこと(当時のテレビCMを見ると、手にした人の落胆ぶりが想像できる)、7位は人気バスケットボール選手のシャキール・オニールを使った格闘ゲー。タイトルからすでにグダグダな脱力感にあふれている。10位はクリスマスのサンタのボーリングゲームで、これも一応キャラクターもの。「人気のニンテンドーDSで、クリスマスものを出せばそこそこいけるだろう」という感じの企画の安易さがにじみ出ている。ダメなゲームというのは、どこの国で作られていてもそんな感じで、今や日本のDSマーケットにもそういうのは山ほど出ているだろう。初代ファミコンの頃はそんなのばっかりだったし。
これらのゲームは幸か不幸か、クソゲーとして人々の記憶に残っているが、人目に触れず、話題にもならずひっそりと消えていった、誰も思い出してもくれないようなクソゲーがこれらの陰にたくさん存在する。安易な企画で適当に作られた、ユーザーの時間を浪費するだけでしかないゲームはクソゲーの名に値するし、ここにランクインしているゲームは、どうもそういう臭いのするゲームばかりだ。しかしその一方で、作った人たちが夢や想いを込めて世に送り出したけれども、何かの不幸が重なってクソゲー認定を受けてしまったゲームも数あることだろう。それは作った人たちの気持ちに思いを馳せると、いろんなドラマが想像されて泣けてくる。なので、一概にどれもこれもクソゲーと言ってバカにすることもできない。食べ物にはお百姓さんや料理した人の想いがこもっているのと同じく、ゲームにも作り手の開発者たちの想いがこもっていることを忘れてはいけない。
あと一つ目を引くのは、The Howard Dean for Iowa Gameがランク外で登場していることだ。これはシリアスゲームの事例としてよく知られる、米大統領選挙キャンペーン用の広報ミニゲームである。ここにリストアップされているゲームの中で唯一のウェブゲームで、わざわざ取り上げられているところは、それだけ認知度はあったということなのだろう。一発芸的な狙いで即席で作られた低予算ゲームなので、こんなところで取り上げられるくらいにまで知られたのであれば、クソゲーと言われても作った側としては狙い通りといったところだろう。
参照記事:
http://www.pcworld.ca//news/column/e73b0b190a0104080187a604e28f6492/pg0.htm
「セカンドライフ」世界を理解するための本
最近日本でも話題になっているオンライン社会生活シミュレーションセカンドライフの公式ガイドブック「Second Life: The Official Guide」はアマゾンの洋書ランキングで36位まであがっていた。テレビでも紹介されたりし、ゲーム系以外の講演イベントで開発者が呼ばれたりして、関心が高まっているとは聞いたが、たしかにすでに人気の「洋ゲー」といったレベルを超えて、一般に普及している様子がこの辺りにも現れてきている。
このガイドブック、「地球の歩き方」のような旅行ガイド風で、セカンドライフの世界を旅してみるにはちょうどよい。英語だけど読み易いので、セカンドライフの日本語版が出る前にヘッドスタートを切りたい人や、すでに始めているけど今ひとつ入り込めないという人にはちょうどガイドになる。私もセカンドライフは土地を持たずにたまにイベントを見に行ったり、名所散策するだけの超カジュアルユーザーなので、知らない情報がたくさん載っていて重宝している。
このガイドはセカンドライフ自体を理解するのにとてもよい本だが、セカンドライフに興味のある人にはその世界の背景を知るための文献として「スノウ・クラッシュ(ニール スティーヴンスン 著、早川書房)」をおすすめしたい。バーチャル世界「メタヴァース」と現実世界を行き来しながら展開するSF小説で、1992年に出版されてベストセラーとなった。セカンドライフの開発者たちはこの小説に大いにインスパイアされて、かなりの部分をこの小説で描かれている「メタヴァース」をモデルとしているので、その意味ではセカンドライフの元になった作品とも言える。SF小説が未来世界のイメージを人々に伝えるという役割を果たしているが、この作品もそういうところを大いに兼ね備えている。
バーチャル世界のイメージを映画「マトリックス」のような感じで捉えている人には、さらに豊かなイメージを持つことができるだろう。マトリックスはかなり影響を受けていると思うし、日本刀を振り回す主人公の描き方は、タランティーノが「キルビル」でやっているところに通じる。
セカンドライフの周辺にいる人たちが「メタヴァース」と言っているのを聞いて、あぁなるほど、と反応している時は、この小説に描かれた世界を共有している。なので、少しセカンドライフにはまってみようと思っている人は、こちらも合わせて読んでみてください。