過去の経験との向き合い方

 先週後半から暖かくなってきたと思ったら、今日はまた雪になった。サンフランシスコ出張の後、個人的に大きな出来事に直面しているのと、かなりボリュームのある仕事の〆切が迫っているのとで、ブログ更新も久々にずいぶん滞ってしまった。今は少し何かを書いて気持ちを整理したい気分なので、この機を逃さずに少しずつ更新ペースを戻していこうと思う。


 人は経験から学ぶ。過去に経験したことにどう対処していくかで、今の自分を形成するところが大きい。経験には楽しいものだけではなく、つらいことや悲しいこともある。消化できないほどの重い経験や、痛みが大きすぎて向き合うことができない経験もある。あまりにつらい経験をした時、よく人はその経験を記憶から消そうとしたり、否定して考えないようにしたりして、そのつらさを乗り越えようとする。
 でも時に、その経験を否定してしまうと、自分に何も残らないような気がして、自分の存在そのものを否定してしまったり、現在の自分を保てないほどに大きな痛みとなって襲ってくることもある。それに家族のようにあまりに長く経てきた経験は、否定しようと思っても否定しきれるものではない。無理をして乗り越えようとしても、心に澱のようなものが溜まってしまい、前向きに考えられなかったり、卑屈な気持ちを抱えてしまったりして、今をよりよく生きる妨げとなってしまう。
 ぼくにとって、留学してから経験した離婚という出来事が、そんな重すぎる経験だった。そこまでの経験を否定してしまうことは、留学生活そのものを否定してしまうくらいに大きなもので、生活自体を続ける意欲を失いかねなかった。なので、自分の身に起きたことを受け入れて、肯定することで気持ちを保とうとした。そうすることで、かつて友人だった人との友情や家族となった人たちとの親愛の情は否定せずに前に進みたいと思った。
 結婚生活という一つの側面がうまくいかなかったからといって、それらすべてを否定することはなく、自分の気の持ちようを少し変えて生きていくことで、切り抜いて捨てる過去の経験も最小限にしたいと思った。余計な気持ちの乱れが生じそうな時は、目の前にある仕事や研究に集中することで乗り切ってきた。そんな日々を独りで2年あまり送ってきた。そうこうする間に、研究の方がある程度軌道に乗り、本を書いて出版するところまでたどり着けた。でもこれも、この過去の経験によるところが大きく、普通に平和な日々を送っていればまだずっと後ろの方を歩いていただろうし、離婚という節目を否定する形で乗り越えていたとしたら、早々に日本に帰ってまったく別の道に進んでいたのではないかと思う。
 出版した本は、決してスマートな留学生活の成功を示すものでもなんでもなく、著者自身にとっては痛みに満ちた過去の経験と向き合って、孤独に耐えて何とか生き抜いてきた副産物のような存在だった。内容は前向きのことが書いてあっても、個人的にはそんな気持ちを抱えていたので、この本は自分の過去に捧げて、ここから本当の意味で前向きに歩いていきたいという気持ちだった。
 過去の経験と肯定的に向き合って生きるということは、過去に戻りたいという気持ちを持っていてはできない。過去を否定するよりも強い気持ちを持って臨まなければ、そんな気持ちでは前に進めないと思う。過去に関わった人たちとは、共に過ごした時を偲ぶ気持ちで会うのであって、それは亡くなった人を偲ぶことで、生き残った人たちが今を前向きに生きようとするのに近い感覚だと思う。そうやって消化しなければ、犠牲者のような気持ちになったり、コンプレックスや心の傷に引きずられた人生を送ることになるかもしれないという不安を常に感じていた。
 そんなことを考えたのは、自分が生まれてから18年間家族として過ごしてきた父との過去を否定して生きてきて、それが全くうまくいっていないせいだと思う。父と別れて10年以上否定して生きてきて、結局は何も乗り越えられていないことを時に思い知らされるものの、今さらどうしようもない気持ちを抱えて生きていかざるを得なかった。結婚生活や留学生活までそんな形で否定しては、自分には何も残らないような気がしたから、違う形で過去と向き合おうとしていたのだと思う。いずれにしても、立ち止まっていては何も生まれないので、よりよく生きたければ前に進むしかない。
 なんでこんな非常に個人的なことを人目に触れるブログに書くのか、自分でもよく理解できていない。たぶん、知らない誰かが読んでもどうでもよい内容なのでそれはどうでもよくて、ただこれを読んで何かを感じてくれている誰かにつながっている気がするから、たまにこうして個人的なことを書いているのだと思う。