学習メディアとしてのアメリカンアイドル

 全米ナンバーワン視聴率の歌手オーディション番組「アメリカンアイドル」も、いよいよ上位3人まで絞られて、今シーズンもあと少しで終わる。毎シーズン、レベルがあがっていて、今シーズンはさらにハイレベルになった。シーズン1で優勝したケリー・クラークソンはセカンドアルバムが大ヒットして、ほんもののアメリカンアイドルに成長したが、今シーズンの挑戦者たちも、それに続く素質を持っていると思う。何といっても歌がうまい。これだけ何度もやれば、そろそろ歌のうまい人も尽きてきて頭打ちになるだろうと思えば、そこはさすが市場のでかいアメリカ、次々とアイドルの素質を持った若者が現れてきて、競争のレベルアップによって、番組のマンネリ化を防いでいる。
 レベルアップしている理由として、この番組自体が挑戦しようとする人々の学習メディアとして機能していることが大きいと思う。番組は地方予選から最終選考までオーディションの模様をドキュメントして、トップ12に絞ったところでライブショーとして、視聴者投票で毎週一人ずつ落としていく形で展開する。サイモン・コーウェル、ポーラ・アブドゥル、ランディ・ジャクソンの3人のジャッジが、それぞれの持ち味を出しながら挑戦者にコメントする。オーディションでは、上手い人、下手な人、それぞれクローズアップされて、勝ち残る人や残れない人の歌い方、立ち振る舞い、ジャッジの目のつけどころなどが描写される。予選を通過した挑戦者たちの人となりや、勝ち残ることでその人に起こる生活の変化の様子など、この番組を通して起こっている人間ドラマがお茶の間(とはアメリカでは言わないのでリビングルーム)に届けられる。地方予選には10万人以上参加するので、やたらにぎやかだが、下手な人も多い。視聴者はその様子を見て、これなら自分の方がましだと思うかどうかは知らないが、番組の盛り上がりにやる気づけられ、応募する。参加したら、その先何が起こるか、勝ち残る準備をするためにどんな準備をすればよいか、といった情報は番組の中で豊富に出てくる。誰もが、シャワーを浴びながら毎日歌ったり、ボイストレーニングを受けたり、教会で歌ったりという形で、歌が生活の中で占める割合が大きくなり、結果、才能のある人は才能を開花させ、オーディションのレベルが上がる、という好循環がおそらく生まれている。似た例を出すとしたら、「アメリカ横断ウルトラクイズ」が感覚的には近い(リンクはWikipedia)。若い人にはこの例が機能しないのだが、このクイズ番組は当時は超人気クイズ番組で、多くの視聴者はこの番組に憧れ、クイズ王になることがステータスとなるなど、日本のクイズ熱を高めるのに大きく貢献した。題材を歌に代えて、それと同じような盛り上がりが全米のあちこちに広がっているとイメージすれば、だいたい近いと思う。
 このアメリカンアイドルも、ウルトラクイズも、大衆向けの娯楽番組である。しかし、非常に多くの人々の心に届き、その中のかなりの人々に学習の動機と目標を与え、行動に変容を起こしている。強いられて行動を変えるのではなく、自発的にトレーニングしたり、実践の機会を持ったりしている。すべては学校や公的教育の外の世界、教育関係の人々が嫌いだったり無関心だったりする、大衆向けの娯楽の世界で起こっている。しかも、教室の中での「生徒のやる気の起こし方、注意のひき方」なんていう小ネタレベルの話とは比較にならないダイナミックな話である。人々がよりよく生きるためのきっかけや経験を提供する手段は、教育的である必要はなく、結果的に意図したものが人々のもとに届けば、表向きは娯楽であれお笑いであれ構わないはずである。教育という表面的な体面にこだわっている場合ではなく、もっとよい意味でずるくなって、いろんな手段を使うことを考えていく必要があると思う。

いちどに全ては得られない

 最近、知らない人から急に連絡が入って、食事に誘われたり、電話でインタビューされたりする機会が増えてきた。わざわざコンタクトしていただいているので、こちらも都合がつく限りお応えしている。頼まれたことに対しては手を抜かずに対応するのがいいと考える点については以前に書いた。これを書いた当時と状況が変わったのは、何で私にそんなことを頼んでくるかなぁ、とぼやきたくなるような、変な問い合わせが減ったことだ。以前は魚屋に野菜を買いに来るような的外れな人や、アメリカにいるという理由だけで頼んでいるだろうそれは、というような問い合わせもあったので、やや対応が面倒だったりしたのだが(とんちんかんな人ほど余計な時間を取られたりする)、そういうのが減ったのは、こちらの看板や軒先に並べてるものが明確になってきた効果かなと思う。
 食事でも電話でも、一回の懇談でせいぜい一時間程度で、その中でシリアスゲームの動向やら研究の話やらいろいろと質問される。こちらも駆け出しなので、エライ人のようにもったいぶったりせずに、知っていることはできる限り相手の腹に落ちるような形で説明するよう心がけている。質問者との相性というか、その場のケミストリーの作用で、いい形でこちらの伝えたいことが伝えられ、普段整理し切れてないことがすっと整理された形で説明できたりすることがある一方で、どうもかみ合わずに、こちらの説明したいことの半分も伝えきれないままで終わることもある。特に最近は英語での懇談の方が多くなったので、なおさらやり取りの質のばらつきは大きくなる。
 そんなにしょっちゅうこのような機会を持てるわけではないので、懇談やインタビューの相手の姿勢は、自然とこの一度の機会で、この対談相手(私のこと)の専門分野の状況をまるごと把握してしまおうという姿勢になる。それは大事なことなのだが、その目論見が必ずしもうまく行くわけではない。何かの調査の目的で話を聴きに来る人は、報告などをまとめる際には、自分の集めた情報が意味のあるものであるという前提でまとめることになるわけで、こちらの答え方がいまいちだったりしたところを、これがこの分野の現状である、みたいな捉え方をされてしまうのはあまりうれしくない。こちらの答え方に不備がある場合は仕方がないが、聞き手の方に知識が足りなくて浅い理解しかできないということも少なからずある。どんなに予習をしっかりしたとしても、その場のケミストリーで良くも悪くも結果は変わるし、聞き手のスキルで精度を高めることはできても、一度の機会で重要なことを吸収しきってしまうのは不可能だ。別の言い方をすれば、ランチ代や一時間の懇談に費やす労力で得られることは高が知れているのであって、それで全部吸収できるのであれば、たいした専門分野ではないし、取材者はみんな専門家になれる。大事なことを知りたければ、少し時間をとって継続的にその分野を追っていかないと、見えることも見えてこないものである。
 これは同時に、インタビューのような動的な状況でのデータ収集に頼る質的研究(特にインタビュー主体でやるフェノメノロジー研究)の難しさでもあるなと認識した。質的研究は、自分自身をいかにデータの中に漬け込んで自分のマインドセットをチューンしていくか、というところにかなり依存するので、訓練の足りない人や、事前データの読み込みが足りない人の集めたデータは、肝心なことを集め切れていない可能性が高くなる。この点では、質問紙に頼ったサーベイ研究や、ウェブをちょこっと検索しただけの調査研究は、さらに大きな不確実性を抱えている。ワンショットのアンケート調査だけではたいしたことはわからないし、勘所のない人が収集した情報というのは、これがネット上で集まるものを全て調査した結果です、と言われても、本当かそれは?と言いたくなるような穴がすぐに見つかるので当てにならない。よほど設計がしっかりしていて、その分野の情報にある程度勘所のある人が調べて、集めた情報をしっかり吟味した結果でなければ、説得力のある結果は得られない。
 普段は研究する側、情報を集める側の立場でものを見ているが、こうしてたまには調査される側、情報を集められる側に立ってみると、、気をつけないといけないことにも気づかされるし、違ったことが見えてきて面白い。

シリアスゲーム論文公開

 年度末に急に依頼がまわって来た論文寄稿の仕事が一区切りして、最終版が出来上がったので、報告書への掲載とは別に、シリアスゲームジャパンでも公開の運びとなった。
藤本徹(2006) 「シリアスゲームと次世代コンテンツ」、財団法人デジタルコンテンツ協会編「デジタルコンテンツの次世代基盤技術に関する調査研究」第四章(PDFファイル)
https://anotherway.jp/seriousgamesjapan/archives/Fujimoto-SeriousGames.pdf
 現時点での、シリアスゲームの概念的な整理が主な内容で、シリアスゲームっていうのを耳にしたけど、実際にはどんなものなの?という疑問にできるだけ答える形で論じてみた。
 読んでみてまだわからないところとか、ここはどうなのよ?という疑問があれば、次の機会にはフォローしますので、ぜひ感想や質問などお寄せください。