日常の感性ー日本人の「美楽」
前号小論「子どもの日常」を点検する論文の執筆に際して参照した書物の中で、一つの小論に出会った。「非日常の音楽」というエッセイである。日本には、「普段」を楽しむ音楽が希薄で、反面、世界有数の音楽家を招いた非日常の豪華音楽会ばかりがある。普段の音楽、日常の音楽を楽しんでいないのに「非日常の音楽」を楽しめる筈はないでないか、と論者は結んでいた。結果的に日本の音楽も発展しないのだという。なるほどな、と思った。自分はもちろん廻りの友人達を見渡してもピアノ一つさわったことがない人が多い。身の回りに気軽なコンサートもない。日々楽器を嗜むという知人も少ない。豪華なコンサート切符を時に頂いたりするが、気障に満ちた音楽会だけはごめん被りたい。なるほど言われてみると自分の廻りにはCDやテープ以外、「日常の音楽」は存在しないのである。
この話を彫刻、版画、環境造型など幅広く活躍している友人の雨宮教授に話したら美術の分野でも似たようなものではないでしょうか、という意見であった。彼は従来「音楽」をもじって美術は「美楽」と呼ぶべきであるという主張の持ち主である。音を楽しむのが音楽なら、美しいものを楽しむのは「美楽」である。しかし、学校で教える美術も、図画工作も、日常の美しいものを楽しむことを意味しない。日本の『美楽』は小学校の「図画工作」に矮小化されて出発している。図画工作だけが子どもに教えるべき「美しいもの」ではなかろう、と雨宮さんは言うのである。筆者も同感である。「図画工作」は中学校へ行くと「美術」に昇格(?)するが、ここでいう「術」は主としてテクニックを意味する。図画工作と美術によって、美しく楽しい「美楽」を殺したのは学校教育ではなかったか、という感想になる。こちらもなるほどな、と思う。美しいものを「楽しむ」ことがなぜ「図画工作」に限定され、「美術」のように技術に特定されなければならないのか。ちなみに英語圏の学校のカリキュラムは「ART」の筈である。ARTの訳もまた「芸」と「術」である。このような学校教育を続けて行けば、日本の『美楽』の実現は難しい、と雨宮さんは考えるのである。
しかし、別の友人と話をする中で、雨宮さんが指摘する「美楽」が存在しないのは学校教育という特定領域だけではなかったかと思い直す事例をいくつも思い出した。音楽と違って、日本社会には日常の「美しさ」を楽しむ精神と感性はふんだんにあると気づかされたのである。
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