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風の便り

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(第41回生涯学習フォーラム参加論文)

人生の演出 −表現とコミュニケーションの構成原理−

平成15年12月20日(土)

福岡県立社会教育総合センター

三浦清一郎

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1   「表現」と「表現力」

   表現とは何か、表現力とは何か?この両者を明らかにすることは人間生活の原点を問うことに等しい。結果的に、教育成果の原点を問うことになる。何故なら、人間は社会生活を営み、社会生活は人間相互のコミュニケーションによって成り立っているからである。教育の原点は「社会化」であり、「社会化」の原点は共同生活のコミュニケーションを教えることだからである。

   この時、コミュニケーションとは表現の交換であり、意志の交流であり、感情のキャッチボールである。自然の風物は巧まずして美しいが、その多くは表現ではない。風物の多くは、現象ではあっても、表現にはならない。風物は表現意志を持っていないからである。

   一方、人間は自然の一部でありながら、自然から独立した意志を有する。花を植えるにも、家をたてるにも、町を作るにも意志を伴う。人間の表現には表したいという意志や欲求が伴う。一軒の家が自然の中に配置された時、風景は表現になる。人が自然と家を素材に風景を演出したからである。それゆえ、表現欲求、表現意思のないところに表現はない。意志を持つという意味で表現は極めて高度な動物的、人間的能力だと言わなければならない。獣はいざ知らず、人間にとって表現は人生の演出である。仕事も生活も表現抜きに日々は終わらない。できればよりよき表現で人生を生きたいと願うのもまた、人間的欲求であろう。人が「表現力」を模索するのはそのためである。

   もちろん、表現の意志だけでは、表現の豊かさは保証されない。したがって、表現と表現力は当然別のものである。表現力は相手に届いて初めて「力」になる。対象に届かない表現は「力」がないのである。表現力の貧困とは表現されたものが「相手に届かない」という意味である。当然、表現力が貧しければ、コミュニケーションも貧しい。人間生活の原点が貧しくなる。学芸会も、発表会も、豊かなコミュニケーションの力を目指している。学芸会も発表会も子どもの表現の質と量の点検が目的である。

   翻って、おのれが職業としている「講演」や「司会」は、他の「芸人」と同じく「表現」によって日々の糧を稼ぐ。筆者のように肩書きを捨てた人間は、まさに「表現の内容」と「表現力」だけが勝負である。原理的には、「中身」あっての「表現力」であるが、実際に講演者として自立するためには両者がほぼ均等に必要である。人は必ずしも「中身」だけを聞くわけではない。多くの講演で、人は世間的信用を聞くのであり、人は「肩書き」を聞くのである。「それらしい人」が語らない限り、人は聞く耳を持たない。それゆえ、信用も肩書きもまた表現力を構成する要素である。話し手の「肩書き」は、商品に例えていえば、「商品価値」に付加される「ブランド価値」という要素であろう。「大学教授」や「有名人」が相対的に楽な講演ができるのはそのためである。

 

2   研究者と講演者と表現者

   筆者は、最近の自分の職業を「研究者」と名乗っている。しかし、研究だけしているわけではない。研究結果は発表し、表現しなければ世の中に届かない。世間に届かなくて良いというのなら、発表も、表現も必要無い。しかし、社会的に研究者を名乗るということは、聞いて欲しい人々に聞いて貰いたいという表現欲求があるからである。そこで研究者は講演者になる。もちろん、講演活動の第一義は生活の資を稼ぐ事である。しかし、熟年の歳になると、晩年の贅沢が始まる。どうでもいい奴に聞いてもらう必要はない。「聞いてもらいたい人」に聞いてもらいたいのである。できるだけ、「聞いてもらいたい人」に届けたいのである。ところが「聞いてもらいたい人々」に「巡り会うこと」も、相手にきちんと「聞いてもらうこと」も決して簡単ではない。そこで、講演者はより多くの相手に届くように、より良い表現者になろうとする。

   「より良い講演ができるようになること」も、「聞いてもらいたい人が識別できるようになること」も、沢山の試行錯誤を繰り返さなければならない。

   そこで、講演を繰り返し、「生涯学習通信:風の便り」を発刊することになる。かくして、各地の講演は「波長の合う」人々との出会いを探す旅でもある。見切りをつけて縁を切る相手も出て来るが、張り切って研究上の質問に答えようとする意欲も出て来る。こうしてだんだん「志縁」の人間関係が増えて行く。毎年の「風の便り」の発行部数の増減もほぼ同じ理由であろう。「風の便り」の場合は、「波長や主張」が合わないとして、読者の側から見切りを付けられるのである。要は、人間に相性があるように、表現にも「相性」があるのである。表現を届けたいと願っても、人生の志や波長が合わなければ、頑張ってもメッセージは届かない。それゆえ、表現には、「送り手」の表現力はもとより、「受け手」の動機や資質が関係する事は明らかであろう。

   つたない表現は当然相手に届かない。反面、「波長や主張」があわない人々には、気合いを入れて訴えても届かない。研究者・講演者として生活を始めて以来、まさにその両方を経験している。時々、「風の便り」の文体や表現を易しくしろとか、抽象的な概念を使い過ぎるとかいう注文が来るが、筆者本人は「そちらの頭を鍛えろ」と思っている。表現は双方向である。生涯学習通信:「風の便り」は基礎学力を鍛えていない子どもには読めない。表現のあり方は訴える対象によって変わって当然なのである。大宅壮一が指摘したとおり、国民全員の関心を得ようとするテレビメディアの内容が「白痴化」するのも当然なのである。

 

3   講演者の表現力

    「表現力」もまた「教育力」とか、「老人力」とか、「市民力」等という抽象的な概念の一つである。したがって、「表現力」を構成する具体的中身を論じなければならない。先日、たまたま小学校の発表会を見せて頂いた。その限りにおいて言えば、子どもの表現力を構成したものは「声量」であり、「発音」の明確さであり、「セリフの意味と格調」であり、演技の「動き」であり、「表情」であり、個々の子どもの舞台上での「相互関係」であり、伝えるべきメッセージの「構成」などであった。

   講演者の表現力も大体似たような視点で分析が可能であろう。

研究結果の発表である以上、結論と結論に至る論理的明快さが命である。できれば、研究結果の提案は人々の日常に役立つものでありたい。また、講演である以上、聞きにきてくれた人の共感を呼ばなければならない。話言葉もまた、文章と同じく「美しい」ことが必要である。加えて、「簡潔」や「適切」や「的確」も要求される。講演の表現力は、特に、言語に依存している。表現が相手に届くためには「物語上手」、「言葉上手」でなければならない。司馬遼太郎の描写、形容を表して向井敬は「司馬遼太郎は時代の風を通す言葉だけを慎重に選んできた作家である。侍が背広を着、町人が車を運転しているかのようなチグハグな表現を、この人はかつて自分に許したことがなかった。」(*1)と指摘している。司馬氏の「言葉上手」の事例を挙げて分析するだけでも一つの論文を構成するのである。それゆえ、ここでは言語の表現論、文章論を論じる事はしない。事は余りにも大きく、筆者の手に負える筈はない。

   言語表現を別にすれば、そこから先は、子どもの発表会と共通する。講演の表現力を構成するものは、「声量」であり、発音の「明瞭さ」であり、「抑揚」であり、「間」である。講演者の姿勢や態度も関係するであろう。多くの書物が指摘するように、コミュニケーションは最終的に話し手の「人」に帰結する。コミュニケーションの適否は要するにその人の全存在が問われるのである。「プレゼンテーション」の指南書は、プレゼンテーションは「人間関係」であり、「ヒューマン・コミュニケーション」であり、相手に好かれなければ説得はもとより、話もろくに聞いてもらえない、と指摘している。「内容」よりは「話し手」なのである(*2)。「肩書き」や「経歴」が聴き手の姿勢を決めてしまう、というのも聴き手が話し手の資格」に注目している証拠であろう。「うさん臭い」と思われたらすでに講演の出発点で躓いたことになるのである。

   自己表現を論じた書物が、表現が相手に届く条件に注目して、「型の効果」、「間の効果」のような古典的なものから、「フィーリング・グッド効果」とか、贈り物による「リシプロシティ効果」とか、一度あえば友だちに慣れるという「ミア・エクスポ−ジャ−効果」(*3)とか新説の概念を並べて論じている。しかし。これらの効果もこちらの人間次第、相手の人間次第である。自身のことを考えても、贈り物をすれば、友だちになれるとか一度あえば友だちであるとか、簡単な話ではない。たとえ、そうした効果があるにしても、それはそれだけのことである。万一、それが自己表現を高めるとしても大したことになるはずはない。要は、いろいろな工夫ができるということを訴えているに過ぎない。表現も、表現力も、子どもの表現教育も、それほど生易しいものではない。研究者が何を論じようと大学の講義の大半は一向に面白くなっていないであろう。授業の説得力も向上してはいないであろう。表現法やコミュニケーションの指南書が必要条件を羅列しているほど表現実践は簡単ではないのである。

(*1)向井 敬、表現とは何か、文芸春秋、平成5年、p.38

(*2)箱田忠昭、成功するプレゼンテーション、日本経済新聞社、1991、p.16、p.145

(*3)齋藤勇、自己表現上達法、講談社新書、1989

 

4   表現力の構成

(1)「ウチ」と「オモテ』

   岡田 陽の「表現」の説明は明快である。岡田は、表現とは「オモテにアラワス」ことである、という。したがって、「オモテ」があるからには、当然それを生み出す源となる「ウチ」があるはずである。「ウチ」とは思考や感情の蓄積である。「ウチ」を「オモテ」に表現する事が「内面」の「外化」である。「外化」のためには表現の「技術」が媒介する(*4)。それゆえ、表現の定義は単純である。内なる「イメージ」を「技術」を通して「外化」する、という事になる。しかし、このことは「外化」する中身が問われる事を前提にしている。岡田は「今までの表現活動は、おもてにあらわすための技術の部分が過大視され、その修練が表現教育の大部分を占めるというのが実情であった」(*5)と批判している。「外化」の技術より内なる「イメージ」を大事にしろということである。

   講演を生業としている筆者には分りやすいが、子どもにとっても同じであるかどうかは簡単に結論は下せない。講演の場合は基本的に内容勝負である。言うまでもなく、雄弁は中身あっての雄弁である。中身のない講演はほとんど無価値であろう。講演が問うているのは「外化」の技術ではない。「ウチ」の思考・感情である。

   しかし、子どもの場合も同じように考えてよいか?子どもにとっては、(勿論子どもに限ったことではないが)、表現技術の修業が思考や感情という中身を豊かにする場合も多い筈である。「型」を教えることが中身に繋がって行くのは伝統芸能がすでに証明しているところである。技術の習得過程そのものが体得であり、学習である。「型」の修業が子どもを成長させるのはそのためである。戦後の教育は中身を強調する余り、中身は中身だけを取出して教えられると錯覚している。中身は表現の技術や中身を入れる器の習得を通して会得されることも多い。「型通り」とか、「形式的」とか、「説明的」というマイナスイメージの言葉を多用して、行動や表現の基本型を無視するごとき発想は、特に、子どもの教育にとって危険である(*6)。問題の多くは表現の「基本の型」すらも踏んでいないところにあるのである。

(*4)岡田 陽、子どもの表現活動、玉川大学出版部、1994、p.38

(*5)同上、p.39

(*6)横須賀、梶山、松平編、心をひらく表現活動:表現の追求、教育出版、p.60

 

(2) 充電と放電

   岡田は子どもの社会化を他律と自律の両面から論じ、人生の表現を呼吸に比喩している。吸ったものは吐かなくてはならない、というのである。この比喩は研究者・講演者にはすこぶる分かりやすい。教育や学習は充電に匹敵し、遊びや表現は放電に匹敵する。「教えられることが子どもにとって必要なチャージ(充電)であるならば、思いきり自由に、自信を持って表現したりあそんだりすることも、子どもにとって同じく不可欠な生命のディスチャージ(放電)なのである(*7)

   研究者の表現が執筆であったり、講演であったり、議論であったりするように、子どもの表現もまた多様である。学校の表現が発表会の劇や音楽のような特定領域に限定できるはずはないのである。遊ばない子どもが豊かな表現活動をしていないことは明らかであろう。

(*7)岡田 陽、子どもの表現活動、玉川大学出版部、1994、p.42 

 (3) 表現者の内面の構成 −理性と感性と感情−

   自分の職業を分析してみれば、研究者・講演者の内面を構成するものは第一に論理である。理性といってもいい。研究は理性に基づく事物の探究である。講演者にとって、研究結果の中身が第一であるが、講演する以上は「訴え」と「説得」を目的としている。訴える情熱が必要である。説得の熱意も必要である。情熱も、熱意も講演者の感情を根源としている。講演者の感情とは「伝えたい」、「訴えたい」という欲求である。しかし、感情はどこから沸いて来るのか?研究の対象を理解し、感じ取る能力を前提としない限り感情は湧くまい。それゆえ、感情は理解と感じたことの結果である。理解する能力は理性であり、感じる能力は「感性」である。「感性」は人間の5感に代表される。躍動感という運動感覚や筋肉感覚を付け加える人もいる。人によっては、病気の時に内蔵を実感したりするような「臓器感覚」もあるのだと聞いたことがある。いずれの場合も、感じるのは自分である。考えるのも自分である。「理性」も「感性」も「感情」もすべて「自分」を通して実現する。その時の「自分」とは、心理学のいう「自我」であり、筆者が論じてきた「自分自身観」である。

 

5   「自分自身観」

   全ての思想と感情の出発点は自分である。「自分が出発点である」ということは、正確にいえば「自己認識が出発点である」ということである。自己認識とは「自分自身について尋ねた問いに自分自身が答えた答」である。「自分とはだれか」、「自分らしさとは何か」について自分が出した答である。心理学では「アイデンティティ」といい、私は「人柄(パーソナリティ)」との区別を重視して「自分自身観」と訳している。(*8)

   「自分自身観(アイデンティティ)」と「人柄(パーソナリティ)」の違いは、「評価者」の違いである。「人柄」とは、「第三者」による個人の「個人らしさ」の評価である。「あの人の人格を疑う」という場合も、「あの方は人柄がいいから」という場合も、全て第三者の判断である。正しいか正しくないかはともかくとして、人柄の評価は他人が行なうことなのである。

   これに対して「自分自身観」は主観的な自己イメージである。これもまた、正しいか、正しくないかはともかくとして、自分についての判断は自分が下すものだからである。要するに自分とは誰か、自分はどんな人間かというみずからの問いに自分自身が認知し、自分自身が答えた答の総体である。(*9)全ての認識の主体は本人である。認識も判断も本人の主観的な解釈の結果であり、それが正しかろうと、間違っていようと自分自身観こそが解釈の「ものさし」に外ならないからである。

(*8)   「アイデンティティ」という概念は、これまでの参考書では「主体性」とか「自己同一性」とか訳されてきたが、これらの訳では「自分の問い」に「自分が答える」という最も重要な「主観性」の特徴が明確にはならない。パーソナリティとの区別もはっきりしない。

(*9)三浦清一郎、成人の発達と生涯学習、ぎょうせい、 昭和57年、P.30

 

6   人生は表現である

   要するに研究者・講演者の内面には、「自分」がいて、一定の感性で事物を感じ取り、一定の反応を形成する。反応は総合的なものである。総合的とは、「自分」の「理性」と「感情」の合成物であることを意味する。自分自身に対してであれ、他者に対してであれ、自分の反応を「外化」しようとする時、人間は表現する。研究成果を文章化する時も、講演によって他者に直接訴えようとする時は、主たる表現技術は言語である。主たるコミュニケーションの手段は言語である。人は内面の大部分を言語によって認識する。認識したものも大部分は、言語によって、論理的、かつ感情的に表現する。言語は認識も、表現も司る。言語は「外化」のための主要な表現技術であるが、同時に人間を人間たらしめている基本である。恐らくは言語なしに、感性の自覚も、感情の自覚もない。それゆえ、言語を表現の技術に限定して捉えてはなるまい。自分がいて、感性があって、感情が起って、色々考えて行動する。それは岡田の言う「放電」であろう。「放電」は言語なしにはほとんど不可能である。学びにおいては「体得」と、「学習」が併行して同時進行することが望ましいが、その場合も言語は基本である。

   しかし、岡田に限らず、子どもの表現活動の参考書は、「押し付け」や、「型にはめること」を排斥するが、言語は文型である。文型の基本を叩き込まない限り「自分」も、「感性」も、「感情」も、「理性」も、自覚することも、発現することもない。言語こそが表現の基本であると気付くべきである。それゆえ、行動は詰まるところ言葉の最も広い意味において、人間の表現活動に外ならない。

 

7   表現要素の組み合わせ実験

   講演はもとより、小学校の発表会も、男女共同参画委員会の「寸劇」も、表現力を獲得するためには、上述のような多様な表現要素の組み合わせが重要である。それが「論理構成」であり、「文章構成」であり、「空間構成」であり、「音響構成」、「資料構成」などであろう。どの表現要素がどのように組み合わされればもっとも人々に訴えることになるのか、それは常に未知である。未知であるがゆえに表現は常に表現要素の組み合わせの実験である。行動が表現であるとすれば、人生もまた多様な表現要素の組み合わせの実験となる。したがって、表現力を保証する究極の組み合わせ公式が存在する筈はない。

   存在しない表現の公式をあたかも存在するかのように説くと、多くの表現活動の評価が主観的になる。子どもの発表会の評価を巡って、斉藤喜博は「生きた子どもがいない」、とか逆に「命が吹き出しているようだ」とか、「生き生きした感動が現れている」とコメントしている。これを引いて表現教育の専門家は「生きた子ども」、「生き生きした」、「命が流れ(吹き)出している」などの言葉の重みを十分に考える必要があるであろう」と結んでいる(*10)。教育界は誠に「非論理的」である。斉藤が言うような「感動的な」発表会があるだろうことは想像できるが、問題は表現力評価の視点が余りにも主観的で抽象的であることである。「生きた子ども」を表現するために、具体的な指導の場面で何を、どうするのか?「命が吹き出している」指導とは子どもがどうすればいいのか?まして、「命が吹き出していない」教員にそんな芸当ができるはずはあるまい。所詮人生は「志の高くない人間」が「志の高い人間」を評価することは難しい。「覇気のない人間」が「覇気のある人間」を判断することも難しい。志は志に呼応し、覇気は覇気を感知するのである。熱意は熱意に出会い、一生懸命は一生懸命に出会う。しかし、これらの出会いは人生の謎であり、人生の未知である。感動もまた、表現の力量や見る人によって異なる。どう異なるかは通常明らかにはできない。表現がもたらす感動が未知なのはそのためである。芸術的感動が人生の未知なのもそのためである。時代によってある種の表現が受入れられないのも、芸術家が受入れられないのもそのためである。「命が吹き出しているような」演技や演奏もまた人生の未知に属する。これらの評価は、精々子どもが楽しんでやっているか、否かという程度に留めなければ、一般の指導指標にはできない。斉藤喜博氏が表現指導の達人だったとしても、表現の評価基準を特定指導者の主観的、抽象的な「名人芸」にしてしまうのは禁物である。名人の主観的評価は名人を感動させたということである。裏返せば、名人が感動しないものは評価されないということになる。具体的にして、一般化できる基準がないまま表現教育をすすめれば、学校教育を混乱させるばかりである。表現指導もまた、教育である以上、具体的指導方法を一般化しなければならないのである。沢山の児童・生徒を対象とする教育は、名人芸の最高の表現ができなくても、どの学校も合格点の発表や表現ができることの方が重要である。

   そえゆえ、多くのビジネス・プレゼンテーションの参考書は最低条件を示している。しかも、表現力向上の具体的方法を指南している。書かれていることは「最低条件」であるから、すべての条件を忠実に再現したとしても、必ずしも豊かな表現力は保証されない。プレゼンテーションの対象に感動を与えうるかどうかも保証の限りではない。それらは表現力の構成要素の説明であり、それらを活用する際の留意事項を説明したに過ぎない。それらは表現の「ミニマムスタンダード」と解すべきである。その意味で小川 明の「表現の達人、説得の達人」は誇大広告に属する。小川は、表現と説得軒本条件を、「ヒューマンファクター」、「情報の調理」、「納得させ上手」の3分野に分類し、それぞれの必要条件を解説している(*11)。しかし、その全部が分かっても「達人」になれる保証はない。一方、戸田 覚の「プレゼンの鬼」は「鉄則10カ条」を掲げている。一番具体的な技術を重視しているので引用して列挙する。もちろん、これらの助言はやらないよりはやった方がいい。しかし、表現の根本はプレゼンテーションの優れた人をモデルに反復練習して体得するしかない。いずれにせよ、これらの技術的な留意点を全部実行したとしても、最後は本人の「人」なのだという結論になるのであろう。

「プレゼンの鬼」の「鉄則10カ条」(*12)

(1) 長過ぎるプレゼンは逆効果。20分で終わらせるべし。

(2) 内容のめりはりが重要。最初と最後にインパクトをつくる。

(3) 相手によって結論を提示するタイミングが変わる。

(4) 一枚のスライドの構成要素は3つ以内を厳守せよ。

(5) 見た目はよくても使ってはいけないテンプレートを知れ。

(6) 説得力のあるグラフづくりの達人となれ。

(7) 色の持つ意味を知り、ターゲットで使い分ける。

(8) 28ポイント以下の文字は見づらいと思え。

(9) 人が読めるのは1秒に4文字、1行12〜15文字が適切だ。

(10) 声に出す練習に勝るものなし。

   当然、ビジネスマンの参考書はビジネスのプレゼンテーションを想定している。しかし、これらの諸注意が筆者のような講演者にそのまま当てはまるわけではない。落語家や、講談師が、グラフやパワーポイントを使ったら折角の「話芸」が台なしであろう。

   商品の説明やサービスの売り込みには、こういう道具立てが必要になるという点で参考にはなるが、すべては「相手によりけり」とは著者が書いているとおりである。

(*10)横須賀、梶山、松平編、心をひらく表現活動2:みんなでつくる、教育出版、p.98、斉藤喜博氏のコメントに対する所感。

(*11)小川 明、表現の達人、説得の達人、TBSブリタニカ、1991

(*12)戸田 覚、プレゼンの鬼、翔泳社、2002、中表紙

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