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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第45号)

発行日:平成15年9月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「積極的傾聴」と「積極的請け負い契約」

2. 「積極的傾聴」と「積極的請け負い契約」(2)

3. 『業』と『原罪』 −人間性の未知と教育の限界−

4. 日常の感性ー日本人の「美楽」

5. 花のある風景―島根県瑞穂町県道7号線

6. お知らせ&編集後記

『業』と『原罪』 −人間性の未知と教育の限界−

   長崎の少年による「しゅんちゃん誘拐/殺害事件」の衝撃が続いている中、長崎県香焼町の武次さんからお招きがあった。みなさんが集まって侃々諤々の議論の結果のお招きとお聞きした。ご依頼は先々月号の「風の便り」(43号)に書いた「潜在光景」であった。筆者は小論に「教育と罰則への過大な期待」と副題をつけた。こうした問題は難しい。結論を明確に言おうとすれば、必ず言葉足らずになる。実は、どこまで読者に通じたであろうかと心配であった。言わんとしたことは、人間性には未知の部分があり、教育にはできることとできないことがある。この一点である。

1.       神仏の領域

   人間のことが人間自身に良く分からないところがある以上、対処できるものと、対処できないものがあるのは、当然のことである。肉体を鍛えて、体力を向上させることはできる。世の中の規範を教えることもできる。しかし、教えたことを内面化することができるかどうかは必ずしも保証できない。少年の凶悪犯罪が起るたびに、「心の教育」が必要だと行政は言う。しかし、何をどうすれば「心の教育」ができたことになるのか?方法論の根拠の説明も、実践結果の証明もできないであろう。

   もちろん、教えないよりは、教えた方がいいに決まっている。しかし、いつの時代も、教えたからといって教えたとおりに少年が生きる保証はない。道徳的行為や社会的行動は強制してでも実現することはできる。しかし、行為が行なわれたからと言って、心がその行為を支えていたかどうかは分からない。人間の欲求や性癖は簡単には制御できない。仏教はそれを人の『業』と呼んだ。大晦日に百八つの鐘を突くのは人の煩悩を払うためだと云う。百八つの煩悩があるというのである。毎年、毎年それを行なうのは、人は『業』から逃げることはできない、ということを意味している。同じようなことをキリスト教は人間の「原罪」と呼んだ。要するに、人は生まれながらに邪悪を背負った罪人なのである。「業」も、「原罪」も、心の「罪」である。心の教育は人間の手には負えないことが多い。それは原則として神仏の領域である。宗教は、人間性の中に「悪」や「堕落」の存在を前提としているのである。それは神や、仏が救済すべき事柄である。

   通常の教育にとって「業」や「原罪」に基づく「悪」や「堕落」は守備範囲の外である。「心の教育」という発想は甘いのである。「業」も「原罪」も、人間の理性や通常社会の営みでは解決できることではない。だから人は神仏に祈り、宗教にすがるのである。

2. 「正常」と「異常」

   人間には様々な性質がある。さまざまな癖がある。性質も癖も「個性」の一面である。それは個々人の一面であると同時に、個々人の中の性質の幅でもある。「個性」を伸ばせ、などと肯定的な言い方をする時が多いが、当然、「個性」の中には世の中から歓迎される個性もあれば、歓迎されない個性もある。特に、「性癖」と云うように、特定の個性が際立った場合には、世間の注目を浴びて「異常」とさえ云われる。

   一人の人間の中に、「優しい」面と「冷たい」面が同時に存在しているように、総体的に見れば、少年の中にも、「優しい」子もいれば、「冷たい」子もいる。「明るい」子もいれば、「暗い」子もいる。「積極的」な子もいれば、「消極的」な子もいる。「賢い」子もいれば、「賢くない」子もいる。その他様々である。そして、通常、「性癖」と呼ばれる個性にも同じことが言える。様々な「嘘や空想を語る」子もいれば、そうでない子もいる。「異性が好きな」子もいれば、「異性に興味のない」子もいる。「盗みが常習」となる子もいれば、そうでない子もいる。幼児に興味を持つ子もいれば、全く持たない子もいる。動物や昆虫を虐待する子もいれば、ただただ可哀想で涙を流す子もいる。実に様々である。実に様々な性癖は誰かが教えたわけではない。特別に個人が学習したというわけでもない。しかも、性癖は正常と異常に分類される。分類の基準は必ずしも明確ではない。いずれの性癖も「平均値」を離れて極端であった場合、人々は「異常」と呼ぶ。平均値のぼんやりとした周辺が「正常」であると決めているからである。このように考えれば、どの性質にも、どの性癖にも必ず、平均値から外れた場合が出現することは当然であろう。それゆえ、極端に「暗い」子がいて、極端に冷たい子もいるであろう。性癖に付いても同じである。しかも、こうした人間の性質は多かれ少なかれ誰の中にもある。それゆえ、人間の平和的共存を破壊しかねない性質は特に注目されて、『業』と呼ばれ、『原罪』と呼ばれたのである。

3. 犯罪行動と心の教育

   少年の凶悪犯罪には、大別して2種類ある。一つは耐性の欠如と規範の教育が不十分であることから生じる犯罪である。人は欲求のまま、野生のままに生まれて来る。これを社会人にして行くのが躾であり、教育である。総称して「社会化」という。耐性の向上や規範の指導は、教育の責任であり、親の責任である。

   他の一つは、「業」や「原罪」に起因するものである。これらは、原因も、対処方法も明らかにはならない。個人の性癖や性格に起因するとしか言い様がない。

   現象的には両者とも同じような犯罪行為として発生するので識別は簡単ではない。万引きから殺人まで、教育の不十分に起因して起こる場合と本人の性癖としか言い様の無い場合がある。先日、車上あらしをしていた中学生が職務質問の警官を持っていたバールで殴って逃走するという事件が起こった。少年の行為はおそらくは教育の責任であろう。特に、親の責任は大きい。窃盗は分りやすい犯罪である。楽をして他者のものを奪う。金を盗み、金に換えて、己の物欲を満たす。耐性と規範の遵守を教えていればかなりの程度は防ぐことができる。

   しかし、長崎の中学生による「幼児殺人事件」のような、幼児に対する少年の性欲と残忍さの問題は因ってきたる原因が良く分からない。少年自身が虐待や性欲の対象となった「被害者」であったのではないか、というような類推は可能だが、この世にそのような「被害者」は少なくない。彼らの全部が加害者になるということも考えられることではない。

   わずか14歳の少年が幼児の陵辱・殺人にまで至るということは当該少年特有の「性癖」としか呼びようがない。「業」の深い人間としか言いようがない。盗みの所有欲と違って、幼児に対する「性癖」の原点が分からない以上、対処の方法も分かりようがない。教育の責任を問うても、その時糾弾されるべき教育の不作為とはなにか?誰も答えることはできないであろう。その時、親の責任とはなにか。親は何をしなかったのか?あるいは親は何をしたというのか?これまた、誰も答えられまい。

   教育界は「心の教育」によって人間性を変えることができるかのような幻想をばらまいてはならない。人にやさしい行為をさせることはできる。人に配慮した行動を取らせることもできる。しかし、それは行動を教えることであって少年の心を教育したことにはならない。人に優しく、人を思いやることを教えることは困難である。人間は己の業に気づかぬときもある。気づいてもどうにもならぬ場合もある。宗教はひたすら許しを乞い、ひたすら神仏に祈れと教える。業も、原罪も人の手には負えぬことを知っているからである。

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