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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第45号)

発行日:平成15年9月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「積極的傾聴」と「積極的請け負い契約」

2. 「積極的傾聴」と「積極的請け負い契約」(2)

3. 『業』と『原罪』 −人間性の未知と教育の限界−

4. 日常の感性ー日本人の「美楽」

5. 花のある風景―島根県瑞穂町県道7号線

6. お知らせ&編集後記

◆ 5 ◆ 「積極的請け負い契約」

   例えば、当該の町の委員会顧問の役割である。私は町のカウンセラーであるとは考えてはいない。コンサルタントであるとも考えてはいない。気持ちの上では「指揮者」であり、「大工の棟梁」に近い。私の役割は「請負」である。個人的相談の場合も同じである。

   町からの話は、男女共同参画の推進のため「委員会」に入って、相談に乗って頂きたいとのご依頼であった。担当者の熱意にほだされたが、当方の助言や企画を実行しなければさっさと辞める、ということを条件にした。今年は、ある分野の事業の立ち上げを頼まれたので、苦労して実施案を考えた。しかし、出来上った企画は職員の状況や政治的事情で実行出来そうもないと分かった時には、危うく”勝手にしたら”と投げ出しそうになった。人に頼んでおいて何とふざけた話か!家を建てないのなら人を呼ぶな、と棟梁ならいうだろう。年を取ってますます自分の意に反した人生の時間がもったいなく感じる。

   共同研究者になりつつある小学校の場合も同じである。助言は惜しまないがやらないのなら聴くな!と最初から思っている。要するに、筆者の相談引き受けは「積極的傾聴」ではない。言わば、「積極的請負契約」である。世間的には、「相談」の形を取るので契約書にサインをすることはめったにないが、精神の上ではのめり込んで、役場の「特別課長」になり、小学校の「特別校長」になっている。相談だけしに来て何もやらない奴ほど腹の立つことはないが、現実にはこの手の相談が多い。だから本気で話を聴くのは馬鹿馬鹿しい。こっちが真面目なほど相手は真面目ではない。時にはあちこちで同じ話をしている。話を聴いて自分だけ「請け負ったつもり」になっているのは「愚の骨頂」である。相手は私と心情的な「契約」などしていない。実行する気もない。したがって、堂々巡りの愚痴の相手をするぐらいアホらしいことはない。その他大勢の会議の委員になるのも同じである。自分の意見が通るはずはない。私の意見を聴きたくて呼んでいるわけではない。民主主義のアリバイに利用されているに過ぎない。意見を述べる舞台の全く無かった若い時ならともかく、もうこりごりである。会議に限らず、相手と噛み合わない時、「積極的請負」型の相談は当方の独り相撲に終わるのである。気に入らないのであれば、黙り込んで相手にしないか、委員を辞するしかない。

◆ 6 ◆   「たこ部屋」とカウンセリング

   個人の相談も、組織の相談も基本的には引き受けない。所詮、みんな思い思いに自分のやり方でやる。誰も言うことは聞かない。聞きたいことだけを聞き、やりたいことだけをやる。人間はそういうものだろうから、それはそれでいいのである。しかし、相談した上で、一緒にやろうとなった場合、筆者は心情的に「請け負う」のである。卒業論文の指導にも「読書会」に加入する厳しい条件を付ける。「請け負う」ためには一緒にやれる共通基盤が不可欠である。当方の条件に同意しない学生は絶対に引き受けない。両方が不幸になるからである。同意した学生ですら「同意」を実行することは容易ではないのである。

   そんなある時怠業が祟って退学寸前に追い込まれた学生の指導に当たることになった。これまで通り、「積極的請負契約」の観点から、「大学を全うしたいのかどうか」を聞いた。その気がないのであれば自分に相談などするな、と言った。”ぜひとも卒業に漕ぎ着けたい”と言う。それなら方法がないわけではない。「俺の言う通りにやれ!」、「日常のスケジュールをきめろ!」、「約束は守れよ!」と言い聞かせて、”たこ部屋”のような指導をした。順調に彼は日常を取り戻しつつあった。勉学も頑張った。ところが、いろいろ廻り廻って彼はカウンセリングを受けることになった。おそらくは「積極的傾聴」によって、「そうだったの」とか、「分かるわ」とか「辛かったのね」とか、聴き上手から合槌を打たれたのであろう。一ヶ月も立たぬうちにへなへなになって大学を辞めたのである。以来カウンセリングを信用したことはない。

◆ 7 ◆   「受容」の副作用

   子育ても、学生指導も、人間関係も、「受容」に限度が必要という点では同じである。「受容」は、傾聴と、理解と、支持と、同意を表す。それゆえ、「受容」が過ぎれば、「わがまま」と「勝手」を増殖する。「受容」を前提とすれば、「自分を受容しない相手」を「自分を愛していない」証拠だと受け止める。「話を聴いてくれない相手」を「冷たい」と判断せざるを得ない。筆者としては「アホ」を「アホ」だといい、「詰まらぬ愚痴」を「詰まらぬ愚痴」である、といっているに過ぎない。自分なりの「価値」や、「感想」や、考え方や、やり方を伝えようとしているだけのことである。ことさら相手を「愛している」わけではないが、かといって、「憎んでいる」わけでもない。相手の言い分に振り回されていたら、「聴きたくないこと」に耐え、「心にもない相槌をうち」、「できるもの」もできなくなる。お互い不愉快にもなる。「わがまま」や「勝手」を承知の上で「受容する」のは愛情ではない。時に、偽善、時にアンフェアー、時に放任であり、過保護であり、無分別である。この種の「受容」が続けば、「受入れないこと」は「愛していないこと」と同義になる。「聴かないこと」も「愛していないこと」になる。自分の要求が通らない時、親も先生も分かってくれないなどと「半人前」がうそぶくのは明らかに「受容」の過剰の副作用である。

   「受容」の論理が「子宝の風土」に混入した時、もう「過保護」と「過干渉」の歯止めは効かない。土居健郎さんが指摘した日本社会の「甘え」の風土は、換言すれば「受容」の風土であろう。「受容」こそが他者に対する愛情の印だと極論すれば、人間の行動は早晩価値の基準を失うことになるだろう。「価値」を守ろうとすれば、自分が納得しないものまで、全部受け入れるわけには行かない。全部聴くわけにも行かない。人生は誰でも一日24時間と決まっている。やりたいことも沢山ある。会いたい人も沢山いる。行きたいところへはまだほとんど行ったことがない。ごちゃごちゃ詰まらぬ話を繰り返して、甘ったれるな!埒もない話は聞きたくない、やりたくないのなら止めればいいだろう、と言った時、カウンセラーにはなれない。自分で「積極的傾聴」ができない以上、町の電話相談の成功はかげながら祈るしかない。

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