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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第93号)

発行日:平成19年9月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 試論 人間とは何か?-教育論の背景

2. 試論 人間とは何か?-教育論の背景 (続き)

3. 小学校教育の変革

4. 団塊の世代よ、あつまれ!!

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

4  誰も代わりには生きられない 〜「人の痛いのなら3年でも辛抱できる」〜

  教育にとって一番の困難点は人間の「個体性」です。存在の「個体性」とは誰も代わりにも生きられないということです。すなわち、痛みも、悲しみも、喜びも、満足も、誰も他者とは代われない、ということです。存在を分断された個体が喜怒哀楽を共有しあうことはまず不可能です。他者の身になって初めて想像することが可能ですが、問題は「他者の身になる」ことが極端に難しいということです。生来優しい人は稀にいます。そういう人々の「感情移入」の能力は特別の能力です。世界中至る所で人が弾圧されていても、飢え死にしていても私たちは平気で生きているではないですか?人間の個体性を人権学習とか平和学習とか机上の空論で乗り越えることは到底出来ないのです。日本人の知恵はこのことを一言で言い表しました。「人の痛いのなら3年でも辛抱できる」という言−がそれです。悪くいえば、他者の不幸に対する我々の無関心の原点がここにあります。人権学習や平和学習の流行のまっただ中で子どものいじめもまた大流行しているではないですか!良くいえば、時代や世の中がどんなに不幸に満ちていても人間は無関心でいられるのです。自分が中心で、自分を律することさえ出来れば生きて行けるということです。頭でっかちの教室の学習でいじめられる相手の身になって考えることなどできっこないのです。学校の人間観、戦後教師の人間観が誠に曖昧で、甘いのです。
  言語や知識はある程度まで共有が可能ですが、喜怒哀楽の情や人間の意志を他者と共有することは大変困難です。人生経験の薄い子どもではまず無理と言って過言ではないでしょう。他者の身になって、それぞれの認識や心理的な距離を小さくするためには少なくとも似たような体験を経る以外に方法がないのです。教育における体験が重要なのはそのためです。また、言語や知識はある程度まで共通化し、客観化することが可能ですが、当人の技能や行動や納得は特定の個体が会得することになります。特定の個体が会得したものを、言語だけで別の個体に説明することは極めて困難です。技能につきものの「コツ」一つをとっても、言語による共通化や客観化は困難です。「やってみなければわからない」のはそのためです。ここに「体得」の重要性があります。「身にしみた」という後悔も、「腑に落ちた」と納得することも、「身に付いた」という自信も、脳を通した言語上の理解を超えています。上記の理解は体験を通して心身の機能の全体が理解したということです。「理解」すると言うよりは「体得」すると言った方が正確でしょう。「身体に教える」という言い方や「身をもって知る」という言い方は「体験体得」した、と言い換えていいでしょう。
家庭教育も学校教育も、現状はあまりにも言語に依存した指導に傾いています。特に、幼少年期の教育は実際にやってみて全身全霊で理解させ、しかも分かったことを反復して「体得」にまで高めることが肝心です。教育界が道徳教育から社会科の授業まで、「体験」を重視するようになったのは、ようやく「体得」しない子どもはなにごとも出来ないことを自覚したからです。「命の大切さ」でも、「いじめられる側の身になる」ということも、基本的に言語で教えることは難しいのです。実習を伴わない教育は、教える側も教えられる側も、多大の時間とエネルギーを浪費します。学校が言語に過剰に依存して、「頭でっかち」になったのは「誰も代わりにはいきられない」という人間の個体性を忘れているからです。指導主事の任命条件に病院や消防学校の体験実習を義務づけてはどうでしょうか?少しは「介護」や「汗」の意味を理解し、「発問」や「板書」や教材研究など机上の「指導案」にこだわった小手先の指導が減少するのではないでしょうか?その時初めて、情緒的で、抽象的な美辞麗句に満ちた空疎な学校の研究発表会が修正されるでしょう。

5  欲求の固まり

  人間は欲求の固まりです。自己抑制の教育に失敗すれば、子どもは欲求至上主義になり、共同生活の秩序は崩壊します。どのように分類しようと人間の欲求は無限であり、そのエネルギー源は欲求から発し、しかも資源は有限です。無限の欲求で有限の資源を奪い合えば秩序は直ちに崩壊するでしょう。
  マズローの幸福論は、「生理的欲求または生存の欲求」から始まって、「安全の欲求」、「愛情または帰属の欲求」、「社会的承認の欲求または尊敬の欲求」、最後は「自己実現の欲求」に満たされて行くとしています。マズローは欲求の順序性を指摘して大いに注目されましたが、ここでもまた、幸福の条件がすべて「欲求」を満たすことであることに注目すべきです。人間の幸福は欲求の充足に存するということです。しかし、マズローがどこまで自覚していたかは分かりませんが、人間の欲求の対象は有限です。社会という共同生活の中で、自分だけの欲求を追求すれば、かならずどこかで他者の欲求と衝突します。ホッブスのいわゆる「万人の万人に対する戦い」が始まらざるを得ません。ルールも契約も無秩序な欲求の衝突を避けるために生まれたということを納得せざるを得ません。教育が規範の確立を強調するのはそのためです。
  駅でも、レストランでも、公民館でも、図書館でも、公共の場で、しつけの出来ていない悪ガキの「やりたい放題」の振る舞いは、まさにしつけの出来た犬にも劣ります。「やりたい放題」は「欲求の命ずるまま」という意味です。しつけの出来た犬は己の欲求をコントロールして飼い主の意志を実行しています。悪ガキとは規範が身に付いていない子どものことです。悪ガキの定義は社会が必要とする「欲求の自己抑制」のしつけができていないということです。然るに、しつけや教育の第一任務は「欲求の自己コントロール」を教えることです。端的にいえば、教育機関から刑務所まで最終の達成目標は「ルール」の社会的強制にあります。「欲求のコントロール」こそが秩序を維持する基本だからです。裏返せば、人間は欲求の固まりだということです。
  乳幼児の段階で、言って聞かせても、人並みに欲求の自己抑制が出来ない場合には、保護者や教師のような第3者がコントロールしなければなりません。それゆえ、しつけにも教育にも、叱責、懲罰、強制によるコントロール、説得や奨励による自己抑制力の育成が不可欠なのです。しつけ糸で止めて、「型」を教える、ということは「欲求の自己抑制」力を体得させることと同じ意味なのです。

6  人間性は変わらない

  最後の人間観察の結論は、人間性は変わらない、ということです。藤沢周平の時代小説が現代の我々の生き方に重なって多くの人の感動を呼ぶということは、どの時代も人は同じような喜怒哀楽の中で生きたということを物語っているのです。
  上記の3−5の3点は筆者が想定している人間の特性です。人間性と呼んでも同じです。それらの人間性は変わらない、と言うのが第4の特性です。人間性が変わらない以上、教育の原点も変わる筈はないのです。
  昔から人間はヒト科の動物として出発し、その子に関わる多くの人々の社会化の努力がその子を人間にしてきました。昔から人間は「個体」として存在してきました。昔から他者の代わりには生きることは出来ないのです。それゆえ、昔も今も、教育における体験が大事なのは何も変わらないのです。『やったことのないことは身に付かない』ことは昔も今も同じです。それを忘れたのは教育界の油断であり、あほらしさです。
  人間が「欲求の固まり」であったこともまた同じです。したがって、共同生活における「欲求の自制」が重要であることも同じです。個性の時代だからと言って、子どもに「他者の迷惑」を教え、己の欲求を「我慢すること」をしつけない教育などは考えられないのです。「耐性」の重要性を忘れたから、「辛さに耐えて丈夫に育てる」という先人の教訓が分からないのです。半人前の時代の修養や鍛錬の大切さを忘れた現代の親も、現代の学校もなんたるアホでしょうか!!
  人間性が変わらないとすれば、戦前の教育にも、江戸時代の教育にも、さらにその前の時代の教育にも歴史がすくいあげて来た教育の知恵がたくさん残っている筈ではないですか!戦前の教育や子育てを全否定して始まった戦後教育が多くの間違いを含まざるを得なかったのは当然だったのです。戦後教育は日本の風土が培ったたくさんの知恵をぼろを捨てるかのように捨て去ったのです。捨ててはならぬものまで捨て去ったのです。これからの幼児教育論はそれらを拾い集めて、もう一度吟味し直し、子どもの発達段階に沿って、しつけの中身と指導の順序性を確かめて行かねばならないのです。


 

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