試論 人間とは何か?-教育論の背景
1 「人間観」は「教育観」を決定する
第79回大山移動フォーラムの幼児教育論を執筆する中で何度か参考書の論理の曖昧さにぶつかりました。曖昧さとは、証拠がないのにそうなる筈であると助言しているような場合です。このような教育論の曖昧さの裏側を突き詰めて行くと、教育論の前提となっている人間観が曖昧だということに気づかされます。「人間観」は「教育観」を決定しているのです。
例えば、『子どもと対話し、子どもの見る目を繊細に詳細に誘導する』とか、『なぜと考えてわかることを大事にする保育者の姿勢が探究心を支える』とか、『子どもへの共感に包まれた厳しさ』が大切である(*1)というような情緒的にして曖昧、抽象的にして多様な解釈が可能な助言がどのような役に立つと言うのでしょうか?幼稚園や保育所の子どもに理解できる筈のないことを理解できるかのように想定して指導法を助言するのはただ混乱を招くだけです。子どもの現実は矛盾にも、運の悪さにも、不公平にも満ちているのに、言葉による教師の誘導が、あたかも子どもの生き方を変えることができるかのような錯覚に立って教育を論じている参考書もあります。
指導の原理は簡単明瞭かつ具体的でなければ人々の役には立たないのです。「子どもとの対話」も、「子どもへの共感」も大事であることは否定できませんが、なにが"適切な"対話で、どうしたら"正しい"共感をもつことが出来るかすら、人それぞれの解釈でバラバラに分かれてしまうではないですか!?言葉による説明で子どもの態度変容が運良く出来る場合もあれば、出来ない場合もあるでしょう。態度変容がいつまで続くか、続かないかも千差万別でしょう。その時の子どもの態度は様々な要因に規定されている筈です。
例えば、その時の子どもはどの程度習慣付けられているのか?意味と説明を理解する言語能力は習得できているのか?過去の体験を通して自身の知識や行為をどの程度確認しているか?変動要因となり得る条件を挙げれば切りがありません。
しつけがなっていない多くの現代っ子を見れば、保護者や教師による言語を用いた行動指導を子どもが理解し得るという前提はほとんど間違っているとしか考えられません。どのような理屈をこねようと、しつけが身に付いていず、規範が内面化されていない子どもこそが現代の最大の問題ではないのでしょうか!?
2 限りなくゼロに近い乳児
子どもは自分のことが自分で出来ないところから出発します。自分のことも自分で決められないところから出発します。教え込んで、やらせてみなければ出来るようにはならないことは自明でしょう。しつけも教育も、限りなくゼロに近い乳児から出発せざるを得ないのです。だからこそ親は「保護者」と呼ばれるのです。子どもの人生は、何も出来ない、何も分からないところから出発するのです。このような人間観に立てば、教育は基本的に「教え」・「育てる」という「他動詞」になります。子どもには、「為すべきこと」をあるいは教え、あるいは励まし、あるいは強制し、あるいは評価して「体得」させて行くのです。しつけは、生き方を枠にはめ、型にはめ、習慣化するところから始まります。人間はヒト科の動物として出発しているからです。ヒトは最初から人間として登場するのではない、と理解すれば、自ずと指導法が変わります。教育を論じることは畢竟人間を論じることになることに気付かざるを得ないのです。
子どもの主体性や子どもの理解力を指導の前提にすることは、いかにも判断が「甘く」、時には間違っているのです。『何度言ったら分かるの!?-何度言ってもわからないのが子ども』です(*2)、という観察が筆者の見解に近いのです。「半人前」の立ち居振る舞いは、子どもが行為の意味を理解しようとしまいと指導者が反復練習を通して教え込み、植え付けてこそ根付いて行くのです。幼児の言語理解力を前提に指導することなどほとんど不可能なのです。この時、『子どもへの共感に包まれた厳しさ』が大切である、などという表現を見るとその情緒性と曖昧さに呆れます。
教育論の背景には論者の人間観が反映せざるを得ないということです。それゆえ、筆者も人間の特性をどう捉え、その性情をどう理解しているかを整理する必要があると考えました。特に、幼少年教育や高齢者教育には人間の動物的要素と社会的要素が大きく関係せざるを得ないからです。以下はフォーラム論文の前提となる試論です。
*1 本吉圓子(事例)、武藤 隆(解説)、生きる力の基礎を育む保育の実践、萌文書林、2004
*2 汐見稔幸、子育てにとても大切な27のヒント、双葉社、2006、p.27
3 人間は霊長類ヒト科の動物として出発する 〜『クスリやめますか、それとも人間やめますか!?』〜
人間は霊長類ヒト科の動物として社会に登場し、時に不幸にして、霊長類ヒト科の動物として生を終ります。それゆえ、教育の最大の任務は「ヒト科の動物」を人間にし、ひとたび人間になった人々を「ヒト科の動物」に退行させないことです。高齢者について、『時に不幸にして』というのは、極度の認知症や「植物人間」の患者として生きなければならない場合を想定しています。
かつて麻薬防止のキャンペーンポスターに『クスリやめますか、それとも人間やめますか!?』と書いてあったことを思い出します。麻薬による中毒症状が極限に至れば、「廃人」となり、しつけや教育によって身に付けた「判断力」も、「選択能力」も、「自己制御力」も失うことになります。ポスターはその状況を『人間やめますか!?』と表現したのです。このメッセージを裏返せば、人間の証明は精神の働きだということになります。「判断力」と「選択能力」と「自己制御力」を失えば人間の基幹部分を失うということです。「廃人」とは「人間を廃する」と言う意味ですから、廃人になればすでに「ヒト」であっても、「人間」でないということを意味します。
こうした考え方を人間の発達過程に置き換えれば、乳幼児にも、極度の認知症患者にも、植物人間と化した患者にも当然人間としての証明力は希薄だということです。それゆえ、乳幼児には全力を上げて、言葉や社会の規範を教えます。しつけや教育による「社会化」の過程がそれです。翻って、高齢者に対してはこれまた、全力をあげて人間の条件を失わないよう、言葉や社会生活のトレーニングを導入して「認知症予防」に取り組みます。かくして、乳幼児は教育によって、ヒト科の動物から人間に成長して行きます。また、高齢者に対しては教育的補強によって、獲得した社会的能力を失って、ヒト科の動物に退行することのないよう教育的予防措置を講じるのです。現象的には、教育に失敗すれば、両者とも社会的な「ききわけ」がなくなります。そこからヒトであっても「いまだ人間になっていない」という思いや、人間でありながら、「人間をやめてしまった」という感覚が産まれるのです。
乳幼児には近い将来確実に人間として成長する希望があります。しかし、極度の認知症患者には今のところ成長の希望がありません。乳幼児に対する虐待もありますが、相対的に認知症患者に対する虐待が多くなる根源的理由は、ここに存していると考えます。植物人間患者を巡って安楽死の議論が起こるのも同様の理由ではないでしょうか?
要するに、教育の背景には「ヒト科の動物」を「人間」にする任務と、「人間」を「ヒト科の動物」に退行させないという任務があるのです。人間になるためにも、人間を続けるためにも教育は不可欠の要素です。人間の社会化、人間の発達は自然発生的には起こらないということです。人間は「なる」のではなく、人間に「する」のであるという根拠は、「ヒト科の動物」から出発するという人間観にあるのです。
|