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生涯学習通信

「風の便り」(第89号)

発行日:平成19年5月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 社会教育の視点で読む「改正教育基本法」 −新しい思想は何を、どう変え得るのか?−

2. 社会教育の視点で読む「改正教育基本法」 −新しい思想は何を、どう変え得るのか?−(続き)

3. 第26回生涯学習実践研究交流会総括 I  「現実」が先、「現場」が先、「問題」が先

4. 第26回生涯学習実践研究交流会総括 U 「選択」と「集中」と「複合化」

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

IV 「家庭教育」(第10条)と「幼児期の教育」(第11条)はなぜ新設されたのか!?
 
新設(家庭教育)
第10条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
2  国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。(下線は筆者)
新設(幼児期の教育)
第11条 幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものであることにかんがみ、国及び地方公共団体は、幼児の健やかな成長に資する良好な環境の整備その他適当な方法によって、その振興に努めなければならない。(下線は筆者)

1  危機意識の表明;「幼児教育」は危機的で、「家庭の教育力」は限界なのです!

  第10条と第11条は関係者の危機意識の表明です。そして表明された危機意識は正当です。「幼児教育」は危機的で、「家庭の教育力」は限界なのです!「家庭教育」条項も、「幼児教育」条項も、現状の「家庭教育」がダメだから新設せざるを得なかったのです。その目的は、遠くは「少子化の防止」、近くは子どもの発達支援のためでしょう。しかし、過保護は3世代続いています。子どもの実態を見れば、現代の家庭の教育力が如何に頼りにならないかは明らかでしょう。多くの子どもの「体力」も、「耐性」も貧しく、幼少年教育の失敗は、社会を脅かし始めたのです。発達上の「体験の欠損」は子どもの全生活分野に亘り、社会規範が身に付いていない青少年の非行・犯罪、社会的不適応の実情を見れば、まさに「教育公害」の兆しであると言って過言ではないでしょう。
  「家庭教育」の条項の新設は、日本の家庭教育の追いつめられた状況が反映されているのです。「幼児期の教育」の特設も、現在の「家庭の教育力」に見切りをつけたということです。しかし、第10条及び第11条を新設しただけでは「家庭教育」も「幼児教育」も立ち直りません。
  「早寝、早起き、朝ご飯」がスローガンになっているということは、それができていないという現実を前提としています。同じように、第10条の条文にうたわれた「生活習慣の確立」も、「自立心の育成」も、「心身の調和のとれた発達」もできていないからこそ、「基本法」が注意を喚起しているのです。

2  「風土」と「教育論」の弁証法

  「風土」は「教育」の考え方、「子どもの見方」に影響し、逆に、一度形成された教育観や子ども観は「風土」の特性を制約します。相互に影響し合うのは「風土」と「教育論」の弁証法と呼んでいいでしょう。「子宝の風土」の「家庭教育」は基本的に世間が築いたもので、家庭が築いたものではないのです。ここでいう世間とは近代の「寺子屋」や「学校」に代表された第3者の「守役」です。かつては「ご養育係」とか「ご指南番」とかも呼ばれていました。それゆえ、「家庭教育」の立て直しは、厳しい「守役」を復活し、かつての「子ども宿」のように「一人前」の「トレーニング」のために、子どもを家庭から離すことです。「放課後子どもプラン」、「通学合宿」、長期の野外教育などを適切に組み合わせて、実行できれば、方法上のモデルになり得るでしょう。「守役」の意見と「子ども宿」の実績がやがて「教育世論」を形成し、「家庭教育」のあり方に影響を及ぼして行くのです。
  「家庭教育」が崩れたのは、「守役」が消滅したからです。仰ぐべき子育てのモデルがない以上、もはや家庭に呼びかけても、説教してもだめなのです。主役の保護者は「我が子中心主義」ですから、「守役」が形成した教育世論が消滅した後は、基本的にわがままで勝手な要求を出します。戦後教育は「教育の民主主義」によって親のわがままと勝手を「民意」として受容しました。結果的に、あらゆる教育・指導が自己中心的な保護者の要求に振り回されるようになったのです。「守役」の崩壊は、「児童中心主義」を採用した学校に最大の原因がありますが、親もまた「共犯」です。親のわがままと勝手が「守役」であるべき学校を振り回すようになり、結果的に、「守り役」自身を無力化したのです。

3  "親がなければ子は育つ"

  極論のそしりは甘受しますが、学校を無力化したのは、学校自身が信奉した「児童中心主義」と「教育の民主主義」です。学校は、見ての通り、児童中心主義に振り回され、保護者に振り回されています。「子宝の風土」では親があるから子どもに甘くなり、「一人前」のトレーニングがおろそかになり、子どもが真っ当に育たないのです。「子宝の風土」の親は「過保護」で、「過干渉」で、子どものなすがままの「放任」であることも多いのです。家庭教育が間違っているから「養育」の努力が「教育力」にならないのです。間違っている「家庭教育」を修正しないで、「家庭教育」の振興だけを唱えれば、ますます「過保護」と「放任」が同時進行し、悪循環の結果、家庭は自らの子どもに泣かされることになるのです。過保護が3代続いて、今や、ほとんどの親が「かわいい子には旅」も「辛さに耐えて丈夫にそだてよ」も「他人の飯」も信じてはいません。まして実行はできません。それゆえ、今の日本の多くの家庭では、"親がなければ子は育つ"のです。
  かつて、多くの人々がその日の暮らしに追われ、人生が50年であった時代は、「人の情け」と「貧乏という先生」によって、「親はなくとも子は育った」のですが、今は、逆になりました。個人の価値を過剰に尊重することによって家庭教育は極端な「我が子主義」に傾き、「貧乏という先生」が時代の舞台を退場して、子宝の風土は過保護に対する社会条件上のブレーキを失ったのです。しかも、教育界が信奉する欧米型の「児童中心主義」は、「子」は「宝」であるという風土の発想に屋上屋を重ねる形で、「子どもが中心で良いのだ」という感情と論理を煽ったので、歯止めのない家庭の過保護を助長する「アクセル」の機能を果たしたのです。それゆえ、法律が、いくら家庭に呼びかけたところでもはや過保護は止められず、家庭は「一人前」を育成する教育力は持ち得ないのです。「教育力」とは、「可愛い子には旅」を始めとする上記の子育ての各種格言を実行する「プログラム」を意味するものだからです。
  この論理が分からない限り、いくら「基本法」に盛り込んだところで家庭の「教育力」は復活せず、幼児教育の方向転換も起こり得ないのです。緊急の処方は学校や社会教育における「守役」機能の復活と「養育の社会化」です。子どもを家庭から離して「一人前」のトレーニングを社会に託することです。親が子育てを抱え込んでいる限り、「宝」を守ることにのみこだわる「子宝の風土」は「一人前」を育てきれないのです。そのためにも、男女共同参画を念頭に置いた「養育の社会化」が必要なのです。学校や保育所や社会教育プログラムや総合的な『放課後子どもプラン』の中身と方法が問われる所以です。

4  「家庭教育の自主性を尊重」すれば、「家庭教育」も学校も崩壊に近づくでしょう

  「幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものである」という第11条の指摘はまさにその通りです。しかし、幼児教育は危機的状況にあるのです。保育所も学校も「児童中心主義」を「指導者中心主義」に転換し、「一人前」を育てるトレーナーとして断固保護者と向き合うべきなのです。幼児教育関係者も、学校教育関係者も、幼少年教育に関わる社会教育の関係者も、保護者の意見を聞くことをやめなければなりません。「子宝の風土」の「教育民主主義」は親のわがままや勝手に振り回されるだけです。にもかかわらず、今回、「基本法」にまで「家庭教育の自主性を尊重する」という文言が入りました。教育の民主主義やプライバシー尊重の建前は「つらい」ことです。今や、家庭という私的領域には、男女共同参画も、教育も、児童虐待の監督者ですらも、滅多なことではさわれなくなりました。
  敗戦を契機に過去に蓄積して来た子育てや教育の知恵を投げ捨てて以来、過保護が3代、教育における民主主義が3代続いて、子どもに朝ご飯を食べさせなくても、給食費を払わなくても、時に虐待が疑われた場合でも、もはや家庭には誰もさわれなくなりました。結果的に、今や、誰も家庭教育を否定することはできず、家庭は外の意見を聞く耳を持ちません。にもかかわらず教育行政では、保護者の意見を入れて学校を運営しようという時代錯誤がまかり通っています。
  子どもは「社会の視点」を忘れたに留まらず、親への尊敬も、教師への尊敬も教わっていず、親を助けることも、教師に従うことも学んでいません。結果的に、子どもの多くは、自己中心的で、独り立ちができず、「一人前」にならず、親の苦労は延々と続きます。子どもが自分の支えにならず、育てた甲斐がないと感じ始めた瞬間から、親の中で「心理的少子化」が始まるのです。子どものことで苦労ばかりが続けば、多くの親が次の子どもを育てたいとは思わないでしょう。法律の上にだけ、出来もしない「家庭教育」の重要性をうたったところで、少子化の防止になることなど夢のまた夢です。
  大事なのは第11条第2項の「下線部:その他適切な方法によって」です。改正法には、第17条に国は『教育振興基本計画』を作ることがうたわれましたが、その中身こそが『勝負』の分かれ目でしょう。「幼児期の教育」に「子どもの視点」より「社会の視点」を導入し、保育所も、幼稚園も、学校も「守役」の任務を自覚し、「生活習慣の確立」も、「自立心の育成」も「半強制的」に生活の「型」として叩き込み、「家庭教育の自主性を尊重しないこと」こそが「幼児教育」復活のカギなのです。もちろん、子どもが「一人前」にならなかったときの責任は「守役」にあります。保育所も学校も、戦後教育が意識的に、あるいは無意識的に継承して来た欧米型の教育論を再点検しなければならないのです。幼少年教育の再生は幼少年教育論の解体から始めなければならないのです。果たして筆者の論理は文科省や「教育再生会議」に通じるでしょうか!!!???通じなければ日本の「教育公害」は不可避です。

V 「連携」と「協力」を拒否したのは学校です
 
(学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力)
第13条  学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割における役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする。

1  学校の無関心−教育行政の不作為

  意外なことでしたが、改正教育基本法は、第13条に学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力をうたいました。遅きに失したと言いたいところですが、コミュニティ・スクールの推進や少子化防止の「放課後子どもプラン」などが念頭にあるのであれば、天晴れ、上々のことです。しかし、単なる理念上の一般論であれば、これまで通り、ほとんど何の意味も持たないことは戦後の教育行政史が証明したところでしょう。
  「連携と協力」の理念は様々な教育事業の冒頭の主催者あいさつで紋切り型の「空念仏」のように繰り返され、ほとんど全く実現しなかったスローガンです。これまでの社会教育の歴史から明らかなように、「連携」にも、「協力」にも無関心で、社会教育からのラブコールを一切無視して、「学社」の連携を拒否し続けて来たのは常に「学校」でした。そうした学校に対して、国、地方を問わず、教育行政は全く有効な指導ができず、また指導の意欲も感じられませんでした。「学校教育と社会教育は車の両輪」という歌い文句もまた空念仏以外の何ものでもありませんでした。学校はいまだに放課後や休暇中の「子育て支援プログラム」に施設を開放することすら稀なのです。

2  「コーディネート機能」の不在−連携を進めるべき責任者の不在

  「連携」の必要性は、誰一人反対しない理念であっても、周知の通りスローガンだけが踊って法律にうたわれた3者の「連携」も「協力」も進みませんでした。学校の地域社会に対する無関心と学校教育以外の分野での家庭とのつながりはゼロに近く、そうした姿勢を放置し、学校の不作為を黙認して来た文部行政と地方教育委員会の責任は大きいのです。条文は「努めるものとする」の主語が「学校と家庭と地域住民その他の関係者」となっていますが、最大の責任者は行政でしょう。行政がその必要を認知しないものは、学校教育も社会教育も、もちろん家庭(PTA)も本気ではやらないのです。この条文には責任者が明記されていないのです。条文は一番「かなめ」になる主語を落としているのです。あるいは「コーディネート」機能の重要性の指摘が落ちている、と言ってもいいでしょう。従って、条文の冒頭は「教育行政」を加えて、「教育行政」は「学校、家庭および地域の連携と協力を支援・推進する………」という意味に変更するか、あるいは、第2項を新設して「連携・協力」が必要な関係者に対する「教育行政の適正な支援」の必要性をうたうべきだったと思います。

3  生涯学習支援のための「教育」概念の拡大
- 教育行政以外の行政分野が関与する生涯学習支援との連携を言わなくてもいいのか?-

  第3条に生涯学習を入れた以上、改正法に使われた「教育」概念は従来の固定的教育概念の枠を拡大しなければなりません。「社会において行われる教育」と「社会教育」の概念がその範囲において全く異なっていることは先述の通りです。例えば、この条項でうたわれた「連携と協力」が行政上の教育分野に限定されて解釈されれば、今後とも『放課後児童健全育成事業』(学童保育)に対する冷たい仕打ちが続くことになるでしょう。従来の「教育」概念に則れば、それが教育機能に関係するか、否かではなく、教育行政の管轄内であるか、否かで支援の是非を決めてきました。したがって、新しく生まれた教育機能は常に教育行政から無視されたのです。また、学校は、地域や家庭に対して、当該の事象が教育機能であるか、否かではなく、学校教育に関係するか、否かで協力や連携の姿勢が決めてきました。家庭教育に密接な関係を持ちながら学童保育に対する支援を無視し続けたのはそのためです。
  学童保育が象徴する子育て支援プログラムが家庭にも地域にも教育にも関係がないとすれば、この条項でうたわれた家庭とか、地域はいったい何をさすのでしょうか?また、学童保育の法律上の根拠になっている「放課後の児童健全育成」は「教育」ではないとでも言い張るのでしょうか?13条の新設は論理的には大歓迎ですが、教育行政以外の行政分野が関与する生涯学習支援との連携を言わなくてもいいのでしょうか?筆者が「幼老共生」を掲げて、「豊津寺子屋」で実践しているように、高齢者の活力の維持や回復は福祉と連携しなくてもいいのでしょうか?アメリカのコミュニティ.・スクールが実行しているように、学校のランチルームを開けて、宅配弁当の代わりに、高齢者に温かい給食を子ども達と一緒に食べてもらうような施策は考えられないのでしょうか?学校施設を開放し、子育て支援を男女共同参画とつなげて、子どもの支援と女性の支援をドッキングすれば、国の「放課後子どもプラン」になるのではないでしょうか?学童保育に"親身になって"学校施設を開放できた時、学校は初めてコミュニティのための学校に変わるのではないでしょうか?
  以上のようなことを実現するため、教育の概念を生涯学習時代に即して拡大して解釈し、「基本計画」のどこかであきらかにするのでしょうか?また、生涯学習社会の実現をうたった以上、他行政の教育機能を敵視するかのごとき従来の教育行政の縦割りと縄張り意識は変わるのでしょうか?学校教育と社会教育を分離して来た教育行政内部の縦割りを改め、学校と社会教育は真に車の両輪になるのでしょうか?「連携」の不可欠をうたった項目は、よくぞ新設したという思いもありますが、ここでもまた真の評価は、17条に規定された「教育振興基本計画」の中身を見てからの結果になるのでしょう。

VI 第17条教育振興基本計画の「点検不可欠」事項
 
(教育振興基本計画)
第17条  政府は、教育の振興に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図るため、教育の振興に関する施策についての基本的な方針及び講ずべき施策その他必要な事項について、基本的な計画を定め、これを国会に報告するとともに、公表しなければならない。

2  (省略)

  第17条の新設は異例のことです。「改正基本法」の思想に則って「教育振興基本計画」を定めることを政府に義務づけ、国会に報告し、公表することを義務づけたのです。「基本法」の思想を実践に"翻訳"する際の中身と方法が公表されるようになったのです。法律の背景を為す思想の肉付けは計画の具体的内容と実践の方法によって再度国民の前に問おうとしているのです。歓迎すべき画期的な決断だったと思います。

1  「生涯学習」理念に則って「教育」の概念を広く提示できるでしょうか?

  社会のあらゆる分野で従来の分業や役割分担が崩れ、「無境界化」現象は顕著です。「国際化」も、「学際化」も、「業際化」も留まるところを知りません。教育行政だけが「教育」機能を担当するという時代は疾うに終わりました。あらゆる分野を網羅した生涯学習理念が登場せざるを得なかったのはそのためです。それゆえ、基本計画の作成にあたっては、第一に、国民の生涯学習支援は現行の教育法の範囲にだけ収まるものではないことに留意すべきでしょう。従って、従来の社会教育行政は、生涯学習支援行政として「首長部局」へ移管すべきだという論議は今後とも繰り返し出てくるものと想定されます。せめて、教育行政以外の他部局の教育機能との「連携・協力」の推進は法の精神の中にきちんと具体化しておいてもらいたいものです。
  また、従来のように学校教育偏重の教育委員会制度が続くようであれば、10条、11条、特に13条の「連携・協力」の規定などは絵に描いた餅に終わることは明らかであり、教育委員会制度そのものを「学校教育委員会」に縮小するという視点も必要になるでしょう。

2  「教育」支援の「無境界化」

  第二に、第13条のような幅広い問題を規定する時には、そこで用いられる「教育」の概念は生涯学習を支援するシステムとして従来の考え方より「広義」に使用・解釈が行われることが重要です。例えば、保育所や学童保育は厚生行政に所属していますが、その中身は教育と基本的に変わりはありません。「保育」と「教育」の「無境界化」が起こっているのです。幼保一元化案が出てくるのは当然なのです。学童保育の法律上の目的表現も「放課後児童の健全育成」(児童福祉法第6条)であり、これもまた広義の教育機能に含まれるべきことは当然なのです。「放課後子どもプラン」はこのことにようやく気づいた施策でしたが、実施にあたって、行政の縦割りの壁がいかんともし難いことは周知の通りです。似たようなことは、環境行政が担当する環境教育にも、厚生行政が展開する健康教育にも起こりうることでしょう。
  統合時代の流れに反しますが、現在の文部科学省を「学校教育省」とその他の「生涯学習支援、文化振興、科学技術振興に関する省」に分割することも一考であるかもしれません。

3  下位法との整合性が重要になります

  教育行政の管轄範囲の外でさまざまな教育機能が実現しつつある現在、本稿で指摘した概念の違いや曖昧さは、社会教育法や図書館法など下位の個別法を修正・制定し直す際に大いに妨げになるでしょう。末端で教育実務に携わる関係者や国民・学習者の理解を制約しないためにも、生涯学習や「社会で行われる教育」が教育行政の範囲だけで行われるものでないことを、「連携の対象名」の例示や学習機会の「提供者名」の例示をするなど、文言表現の上で分かりやすく再整理することが不可欠になります。新しい状況が出現しても、新しい仕事の必要が生じても、行政関係者はかならず法治国家の原則を持ち出し、法律の「どこに書いてありますか?」といいます。法の文言で表示しない限り行政は仕事をしないということを国民は肝に銘じておくべきなのです。

4  計画の定期点検

  技術革新の高度化・複雑化に伴って、社会変化はますますその範囲と速度を増して行くことでしょう。働き方も、学び方も多様化し、複線化して行くことは間違いないでしょう。結果的に、人々の暮らし方全体が多様化し、複線化して行く筈です。定期点検の視点は盛り込まれませんでしたが、社会の変化を見越した生涯学習支援のための振興基本計画は定期的に見直すことが不可欠だと思います。当然、変化の著しい分野は事前に想定できる訳ですから、全体点検は10年に1回で良いとしても、「子育て支援」や「環境」や「IT」や「男女共同参画」など刻々と状況が変わる分野は3年に1回とか5年に1回の頻度で順繰りに見直して行くことが重要だと思います。

5  重要概念の欠落

  改正案には、人々の生き方や社会的仕組みの変化を踏まえた「ボランティア」や「NPO」や学習施設運営の「民営化(指定管理者制度)」などについての記述が全く出てきませんでした。ボランティアは高齢社会の活力を支える『核』になります。また、「NPO」活動の6〜7割は生涯学習関連の分野です。さらに、生涯学習を保障できる社会を目指しながら、少なくとも地方の現状は、「社会教育」の公的施設を次々と指定管理者制度の下に民営化しています。指定管理には賛成ですが、管理の中身と方法と質をどのように確保するのでしょうか。これからの生涯学習の活動やその支援に上記の要因や概念が不可欠であることは論をまたないでしょう。法案提出者の発想はいまだ時代の変化に十分対応していないのです。教育の振興計画では絶対に落すことのないよう配慮してほしいものです。
 

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