HOME

風の便り

フォーラム論文

編集長略歴

問い合わせ


生涯学習通信

「風の便り」(第89号)

発行日:平成19年5月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 社会教育の視点で読む「改正教育基本法」 −新しい思想は何を、どう変え得るのか?−

2. 社会教育の視点で読む「改正教育基本法」 −新しい思想は何を、どう変え得るのか?−(続き)

3. 第26回生涯学習実践研究交流会総括 I  「現実」が先、「現場」が先、「問題」が先

4. 第26回生涯学習実践研究交流会総括 U 「選択」と「集中」と「複合化」

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

社会教育の視点で読む「改正教育基本法」 −新しい思想は何を、どう変え得るのか?−

  本論は第26回中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会の「特別報告」に提出した研究小論を加筆修正したものです。「視点」を限定しましたので、たとえば「教育の国家統制」に関する危惧など、各読者からのご注文の問題点に分析が及んでいないところがありますがご理解ください。

I 教育目標は分かりやすく分類され、「愛国心」問題もバランスが取れています

1  第1条の「目的」は第2条の目標で箇条書きに分類され、達成すべき教育成果の中身を5点に分類しています。中身がより具体的に記述されたので、各項目についての賛否はともかく、とても分かりやすくなりました。
2  新設された「教育の目標」は以下の5点であり、改正前の文言を噛み砕いて新しく加えられた「キーワード」は「アンダーライン」の部分です。
 

(第2条の2項−5項)
 一 幅広い教養と知識を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
 二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
 三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んじるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
 四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
 五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。


3  筆者の独断による荒っぽいまとめですが、5項目の文言を総括的に「翻訳」すれば、教育の目標は次の5つに分類できます

*教育を通して実現すべき5つの目標

第1は「自己研鑽」:自分の潜在能力を最大限に伸ばせ!
第2は「自己責任」:人生は自分の責任で生きることを学べ!
第3は「社会参画」:社会の理念を学び、社会を支える一員になれ!
第4は「生命尊重・自然保護」:自分を含めて自然を守ることを学べ!
第5は「日本第一主義と国際協調」:一番大事なのは日本、しかし、世界ともそつなく付き合うことも学べ!

4  イデオロギー論争の元になる「愛国心」教育は第5項に関係しています。強調されたことは、明らかに「日本第一主義」ですが、「他国尊重」と「国際平和の発展に寄与」という文言を並列することによって、日本主義が過剰な強調にならぬようバランスを取り、日本が他国の文化・文物に優越するという「国粋主義」に傾くことへの抑制は表現上きちんと配慮されています。
  
5  第3項に「男女の平等」を改めて特筆・挿入したのは、農耕社会としての歴史が長い日本が、筋肉の優位を誇る男が主導権を握る「筋肉文化」に如何に拘束されて来たかを物語っているのでしょう。特に、農村に代表される筋肉文化を今日まで修正することができなかった日本は、今や、女性に拒否された農業後継者の結婚難によって日本の農業そのものが廃絶の瀬戸際に追い込まれています。また、家庭に代表される私的領域における男女共同参画は、法の建前からほど遠く、遅々として進まず、非婚化も、晩婚化も、熟年離婚も、少子化も、周知の通りです。男女平等の理念が「改正基本法」に入ったということは、上記諸問題の解決のカギは女性が握っているということにようやく気づいたということです。教育は、学校における「家庭科」や「技術化」の男女共習のように、子ども達が大人になるのを待つような効き目しかありません。「筋肉文化」で生まれ育った大人世代が死に絶える頃には女性の対等の出番が実現することでしょう。

II 「生涯学習」を教育分野だけで論じていいのでしょうか!? 

1  「生涯学習」の登場は技術革新の結果の「必然」であって、個人に対する「勉学のすすめ」や学びの「心構え」ではありません
 

(新設)(生涯学習の理念)
第3条  国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。

  改正基本法の3条に「生涯学習」の理念がうたわれたことは、「格段の進歩」である、とある社会教育大会の講演でお聞きしました。「概念」が認知されたことは確かに進歩ではあるでしょうが、条文を読めば明らかに概念整理が不十分であると思います。「生涯学習」理念の登場の背景は、個人の必要より社会の必要が先でした。その主要目的は今回の改正法が強調しているような個人の人生の「心構え」でも、個人の一生を通した「学習のススメ」でもありません。「人は生涯にわたって学び続けるべきである」という「学習のススメ」は、今に始ったことではありません。人が学び続けることが望ましいのは、生涯学習に関係なく、いつの時代も同じでした。"人間一生勉強じゃ!"というのがそれでした。「人格を磨く」ための「心構え」でいいのであれば、「生涯学習」でなく、「一生勉強・一生修行」で十分であった筈です。
  「生涯学習」も、「生涯教育」も絶えざる技術革新によって「変化の連鎖」が続く時代が生み出した必然の概念だった筈です。その目的は、社会の発展を促し、絶えざる社会システムの変革・革新だった筈です。個人がその生涯に亘って己の人格を磨くために導入された概念では断じてありません。生涯学習も、生涯教育も、知識の陳腐化を防ぎ、変化への適応が不可欠になった時代の社会的要因であり、経済的条件です。それゆえ、"生涯にわたった"「学習」も「教育」も、ともに教育概念であると同時に社会・経済的概念でもあります。
  「継続教育」や「リカレント(回帰)学習」の「呼び方」はその象徴です。教育の「継続」や学習者の絶えざる学習への「回帰」が強調されたのは、経済システムや産業構造の変化が加速し、人々がかつて受けた「教育」や「トレーニング」が次々に「有効性」を失ったからです。再教育や再トレーニングを導入しなければ、社会も、経済も絶対に「廻らなくなった」からです。当然、個人も、組織も加速する変化に「適応」するためには、特別のシステムやプログラムなしには間に合わないのです。その仕組みを支える理念こそが生涯教育であり、生涯学習です。用語はアメリカの議論の行方に倣って、日本も、国民の「選択の自由」を重視した「生涯学習」に統一したことは周知のところです。かくして、生涯学習も、生涯教育も一方では確かに教育概念ですが、他方では、既存の教育の枠を越えた概念なのです。
  条文の言う通り、己の選択によって、生涯学習に勤しむものは、その成果として、「自己の人格」を磨き、「豊かな人生」を送ることができるようになるかもしれません。しかし、それは結果論であって、今回の改正案に「生涯学習」概念を導入した目的ではない筈です。生涯学習・生涯教育の概念の登場は、国家・社会の技術の革新を止めることなく、国際社会における競争力を維持し、社会・経済システムの発展を持続することを最大の目的としているのです。 生涯学習も、生涯教育も教育概念であると同時に、「技術革新」や「社会システム改善」を持続させる不可欠な社会・経済的概念になるというのはそういう意味です。
  それゆえ、当然のことですが、人々の生活における生涯学習「機能」も、生涯学習「実践」も、現行行政の「分業」の枠を超え、文部科学省の行政責任の範囲を超えています。だからこそ、「あらゆる機会に、あらゆる場所において」学習を保障しなければならないとうたわれているのです。


2  生涯学習施策は「首長部局」に移さなくていいのでしょうか?

  教育基本法が論じる「あらゆる機会」、「あらゆる場所」における「教育」は、現行の教育システムの枠を超えて「生涯学習」を規定しなければならないことを意味しています。「再教育」や「継続教育」や「リカレント教育」の用語に代表される「生涯学習」は、『連続』を意味し、社会のあらゆる分野を貫徹しているのです。それゆえ、現行の教育行政の枠内で生涯学習を論じている限り、国民の生活全分野にまたがる生涯学習支援の保障は出来ないのです。生涯学習の必要性は、厚生労働行政にも、農林水産行政にも、環境行政にも、企業にも、貫徹しています。通常の教育システムの外でも、生涯学習は、当然、存在し、当然、機能すべきなのです。「生涯学習」の言う「学習」概念は、現行行政が発想する通常の教育概念の枠を超えてしまったのです。「生涯学習」が教育概念であって、しかも教育概念を越えているというのはそういう意味です。教育基本法だけで生涯学習や生涯教育を規定した時の論理上の矛盾がここに生じるのです。
  「あらゆる機会」、「あらゆる場所」での生涯学習という表現が、『連続』をカギとしながら、社会のあらゆる分野を貫徹した概念であることを前提とすれば、「教育基本法」の枠の中に「生涯学習」を閉じ込めることはできないのです。第三条の条文からは現行の「教育」の外にも「生涯学習」の「機能」や「実践」はあるのだ、ということを伺い知ることはできないでしょう。生涯学習「機能」の多面性、その「実践」の全分野性を考えれば、生涯学習施策を統合する役割と責任は「首長部局」に移さなくていいのか、という疑問も生じざるを得ないのです。
  日本社会の生涯学習のあり方を論じるためには、かつて、中曽根総理大臣の下で臨時教育審議会が招集され、生涯学習の振興が論議された視点に戻らなければなりません。総理大臣の下でなければ、国民生活の全分野、したがって、各種行政分野にまたがる生涯学習の振興は論じられないからです。生涯学習は社会全体、生活の全分野にまたがる課題です。教育分野だけの課題に留まる筈はないのです。
  現行のいわゆる「生涯学習振興法」を廃止して、教育基本法とは別個に全省庁が加わった全く新しい「生涯学習振興法」を制定する必要は今も残っているのです。個人の学習や福祉のためだけであれば、自己責任が強調される時代に、国家が人生のあらゆる機会に個人の学習を保障する必然性も、義務もない筈です。「生涯学習」は教育の枠を越えて、「社会」の全分野を網羅し、その維持・発展のために不可欠な「再学習・再教育」・「継続学習・継続教育」の概念なのです。誠に皮肉なことですが、「生涯学習」を「教育法」や「教育行政」の枠の中で論じている限り、教育の生涯学習化はできますが、教育以外の分野を包摂した生涯学習社会は実現しないのです。

3  どうしても教育基本法に残すというのであれば……

  技術革新を中心とした時代の絶えざる変化が「生涯学習」登場の必然をもたらしたという理解に間違いがなければ、「生涯学習」は「集団」と「個」;「社会」と「個人」の双方に貢献しなければなりません。決して個人の「人格を磨いたり」、「豊かな人生を送る」ためだけが目的ではありません。生涯学習の振興は教育基本法とは別個に、生涯学習振興法でうたうべきだと思いますが、どうしても「生涯学習」概念を教育基本法に残すのであれば、その挿入に際して、国民一人一人の「個」に着目した表現に止めず、「社会の視点」を追加すべきだったと思います。
  法律の文言として適切であるか、否かは専門家の判断を仰ぐとしても、例えば、現行の個人の学習・教育だけに注目した「人格を磨き」の文言は省略し、その代わりに「技術革新に伴う」とか、あるいは「地球時代の」「絶えざる変化のなかで」という「変化の視点」を加え、生涯学習を通して「社会の発展に寄与する」という「社会の視点」を目的に追加すべきでしょう。仮に、筆者の提案を文章化すれば、第二条は次のようになるべきであったと思います。
 
(試案)(生涯学習の理念)
第2条  技術革新に伴う絶えざる変化のなかで、国民一人一人が、社会の発展に寄与し、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。


III 第12条:「社会教育」の概念は整理不十分
 「社会において行なわれる教育」と「社会教育」は異なっています−
 
(社会教育)
第12条 個人の要望や社会の要請にこたえ「社会において行われる教育」は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。
2  国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館その他の社会教育施設の設置、学校の施設の利用、学習の機会及び情報の提供その他の適当な方法によって「社会教育」の振興に努めなければならない。

(改正前)
第7条(社会教育)家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。
2  (改正後と同じ)      (カギかっこ、太字、下線は筆者)

1  「社会において行われる教育」は「広く」、文科省が所管する「社会教育」は「せまい」。第12条の表題となった「社会教育」はどっちにするのでしょうか!!??

  改正教育基本法は、「家庭教育」概念を新たに第10条に取り出したため、旧第7条の「社会教育」の説明を簡略化しました。その結果、以前は「家庭教育」や「勤労の場所」を含んで、曖昧のままに残されて来た概念の未整理が見えて来たのです。それは第1項で使われている「社会において行なわれる教育」と第2項で使われている「社会教育」は異なる概念であるということです。前者は旧法で「勤労の場所」を含んでいたことからも分かるように、「社会全体」を覆い、後者は教育行政の及ぶ範囲に限定されます。このように違った概念が第12条の社会教育を説明しようとするのですから、矛盾が増幅されるのです。
  「生涯学習」概念は「時間」に照らして「いつでも学べること」を重視した「学習」のあり方を規定しています。これに対して第12条の第1項で用いられた「社会において行なわれる教育」は「場所」に照らして、「どこでも学べること」を重視した教育を規定しています。前者は「学習者」の主体性を重視し、後者は「社会での教育機会」の充実を重視している違いがあるので、当然、同じ概念ではありませんが、意味するところは極めて類似しているのです。生涯学習を生涯教育と言い換えてみれば、「生涯にわたって行なわれる教育」と「社会において行なわれる教育」と表現は違っても、前者は「時間」、後者は「場所」を強調しているのであって、意味はほとんど変わらないことが分かります。「生涯学習」も、「社会において行われる教育」も、12条冒頭の表現の通り、「個人の要望や社会の要望にこたえたもの」であることは言うまでもありません。(「個人と社会の要望にこたえる」ということこそが第3条「生涯学習」の項の説明であるべきだったのです。)
  しかし、12条の問題は、同じ「社会教育」を規定した条項でありながら、第12条の第1項と第2項で用いられた概念の範囲が異なっているということです。第1項で使われた「社会において行われる教育」と第2項の「社会教育」の範囲は大いに違うのです。「生涯学習」が時と所を選ばないように、「社会において行なわれる教育」も時と所を選びません。ところが、第2項で使われた「社会教育」は、図書館、博物館、公民館など説明文言に例示された社会教育施設群に制約を受けています。ここで言う「社会教育」は、社会教育施設の種類が象徴しているように、文部科学省が管轄する範囲に限定されているのです。学習機会の提供や教育という機能に着目すれば、「社会教育」には、「教育行政が管轄する」教育と「教育行政の管轄外で行われる教育」があるのです。第2項のいう「社会教育」は前者です。限定の仕方は、「社会教育」=「教育行政が管轄する社会で行なわれる教育」―「学校教育」という図式で示すことができます。

2  「社会で行われている教育」を第12条の「社会教育」と等値しようとするのであれば、社会教育行政は「首長部局」に移管すべきです

  欧米など多くの国々は対象によって定義する成人教育や青少年教育のような呼び方が一般的です。これに対して日本の社会教育は学習が行われる「場所」による規定です。それゆえ、学校と対置した「社会教育」になるのです。「社会という広い『場所』で行われる教育」から「学校教育」を引いた残りが「社会において行われる教育」なのです。それゆえ、「社会において行われる教育」は第12条第2項で用いられた文科省所管の「社会教育」より遥かに広い概念なのです。同じ文言なので混乱しますが、改正教育基本法の第12条第1項が言う社会教育は「社会で行われる教育」であり、ほとんど生涯教育に近く、文部科学省が管轄している第2項の「社会教育」は現行文部科学行政の守備範囲に限定された極めて狭い教育なのです。教育行政の中の「社会教育」が「生涯学習」を支えることができないのは当然なのです。厚生労働省が所管する「健康教育」、「職業教育」、農林水産省が行う「農業技術教育」、その他「消費者教育」、「環境教育」などは、文科省が所管する第2項の「社会教育」には含まれませんが、「社会において行われる教育」であることは言うまでもありません。
  かくして、第1項でいう「社会において行われる教育」は、学校教育以外は生涯教育と重なり、生涯学習を支える教育システムになりうるのです。それゆえ、人々の生涯学習は「生涯にわたって社会において行われる教育」によってその大半(生涯学習は当然、学校教育も含んでいます)を支えることが可能です。一方、文部科学省が所管する現行の社会教育の守備範囲だけでは、「生涯学習」も、「社会において行われる教育」も到底カバーすることはできません。それゆえ、現行の教育行政に位置づけられた「生涯学習課」や「社会教育課」をもって、国民の「生涯学習」実践を支援し、「社会において行われる教育」を振興することには大いに無理があるのです。現在の教育行政は「首長部局」にある教育機能にはほとんど全く関わることができないからです。ここにも「社会教育」機能を社会教育行政の専門家チームごと「首長部局」に移行すべきであるという論理の背景があるのです。(*註 もちろん、社会教育法以下関連の法律は改正しなければなりません。)
 

←前ページ    次ページ→

Copyright (c) 2002-, Seiichirou Miura ( kazenotayori (@) anotherway.jp )

本サイトへのリンクはご自由にどうぞ。論文の転載等についてはメールにてお問い合わせください。