中・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会− 26回大会ご案内 −
新緑のささぐり;風薫る県立社会教育総合センターでお会いしましょう!!
5/18(金)夜7:00〜前夜祭
5/19(土)午前・午後:事例発表/「特別報告」、夜「懇親会」
5/20(日)午前:インタビュー・ダイアローグ2テーマ
第26回大会の準備が整いました。各県の実行委員のみなさんから実践発表・28事例のご推薦をいただきました。司会者のみなさんに付きましても実行委員のお力添えで男女半々:男女共同参画の理念に則って選出して頂きました。
今年はNPOや学校が注目を集め、子育て支援の実践発表が多く集まりました。日曜日の「特別企画」は2本だてのインタビュー・ダイアローグです。一つはいじめの隠蔽や学力の低下、教師の挫折や学校運営の閉鎖性で教育再生会議の"まな板"に乗っている現代の学校を取り上げます。もう一つはNPOの仕事を検証し、あらゆる分野に進出し始めたNPO関係の皆様のチャレンジ・スピリットとその具体的な創意工夫の成果を伺います。筆者が担当する土曜日の「特別報告」は「少子高齢化対策」と「教育公害」に注目しました。筆者の分析が「間違っている」ことが一番いいのですが、残念ながら少なくとも、予想の半分は現実のものとなるでしょう。
* 当日、会場では「イベント情報」、「まちづくりの企画」、「ふるさと自慢」などのポスター、チラシ等出品できます。受付にお申し出ください。ただし、展示品は返却できませんので予めご了承ください。
* 問い合わせ・申し込みは出来るだけお早めに!!!大会前に参加者名簿を作成できるよう事務局ががんばっております。
* 申込先は福岡県立社会教育総合センター(研修・情報室ー第26回大会事務局)です。
TEL:092-947-3511 E-mail:mail @ fsg.pref.fukuoka.jp
* ふくおか生涯学習ネットワーク(http://www.fsg.pref.fukuoka.jp)からも申し込み様式をダウンロードできます。
■■■■■ 編集後記: 過去を生きる−人生の不思議 ■■■■■
アメリカに住んでいる娘が復活祭の休みに帰国して思わぬ一週間が過ぎた。就職もし、結婚もし、一人前になった娘と過ごす時間には、現在と過去が交錯する。食卓の会話も、お茶の会話もそうなる。
これまではひたすら前を向いて走り続けて来たので、思い出や過去の記憶に生きた時間はほとんど全く経験したことはなかったが、遠くに住んでいる子どもの登場で、過去のアルバムをめくるような思わぬ回顧録体験をすることになった。
「過去にこだわるな!」というのが高齢者の日常に対する専門家の助言であるが、成長した子どもが目の前に立つと、なかなかそうも行かないことを実感している。筆者に「現在」が存在しない訳ではないが、若い頃のように日々時間に追われて、何事かに向かって挑戦し、己の「現在」に不満で、「不断の戦い」の中にいるわけではない。
むしろ、これまた、参考書の言うように、「多くを望まず」、「足るを知る」を目標として生きようとしている。若い者と対峙した時、そうした姿勢は我ながらどうしても消極的だな、と思わざるを得ない。職業的な向上心や子育てに懸命であった頃の緊張と充実にはほど遠い。「現在」の重要性が相対的に減少すれば、結果的に、年寄りは過去の記憶の中に生きるようになるのではないか!?なかんずく現役世代が多忙な年度末はやりきれない。(キリスト教国の復活祭の休暇は日本の年度末と重なる。)年度替わりの春休みは筆者のような「自由業」に出番はない。卒業式も入学式も、送別会も歓迎会もない。英語ボランティアのクラスも受講生の大部分が「連続」しているので、年度が替わってもほぼ同じメンバーが出席する。どこかで「卒業」のような人為的切断をしない限り、別れの辛さも出会いの新鮮さもない。日常の変化の刺激こそが人間を緊張させるのであろう。娘はふたたび遠いアメリカへ旅立って行った。今生の別れになるかもしれないが、「現在」を取り戻すためにはそれでいいのであろう。
筆者にとってもようやく明日から新年度初めての講演が始まる。初めての人々に出会う。肩書きがない以上、しくじれば2度と「出番」はない。背広のちりを払い、レジュメを見直し、発声の練習を始める。夜半に目覚めてこの文章も書いた。ようやく己の「戦場」に戻って来たのである。自分の「戦場」を大事にしなければ、あっという間に「過去に生きる人」になってしまうだろう。医療費の高騰も、介護費の大赤字も老人の肉体の老衰にだけ原因があるのではない。「世の無用人」となって、「過去に生きるしかすべがなくなる」ことに原因があるのではないか?過去に生きるようになれば気力も活力もチャレンジ・スピリットも必要ではなくなる。世の中に具体的に還元・貢献することのない「生涯学習」や「生涯スポーツ」で老後の生き甲斐や活力が支えられるとはどうしても思えない。そこには自分が試される「戦場」がない。現行の公的な「社会教育」行政の財源と人員を減らし続けている政治家の「直感」は決して間違ってはいない。少子高齢化にとって現行の公的「社会教育」はほとんどあるいは全く役に立っていないのである。
仕組みとしての「定年」はやむを得ないが、定年後のアフターケアを掲げた高齢者福祉も生涯学習施策も大いに間違っていたのではないか!?定年後5年程度は賃金と労働時間を工夫した週2〜3日労働、6〜10年後は週3回程度の費用弁償を伴う社会貢献活動、その後は肉体の健康次第だが、可能な限り年寄りも社会を支え続けるという具合に、定年者と社会との関係を漸減させてゆく工夫を施さなければ、熟年は一気に老け込み、社会保障の負担は一気に増大するのである。職業の「労苦」の果てに「安楽」を欲することは分からぬでもないが、「安楽な余生」は決して「安楽」だけをもたらすものではない。身近に見るごとく「安」は「安穏」・「安逸」に通じて多くの小人は不善を為し、「楽」は「堕落」に通じてパンとサーカスだけを追い求める。老いた「居候」と「厄介者」の増加は、「安楽」が総じて高齢者の心身の活力の「墜落」に通じていることを象徴していないか!?「ニート」は職業や学業を通して社会への参画を目指さない人々を意味し、通常は若者のことだと思い込んでいるが、老いた「ニート」もまた家族や社会の負担は大きいのである。己の「現在」を失えば、現世の存在資格が軽くなり、人生の白秋や玄冬の季節に安楽を追い求める老いたキリギリスはこの世のアリ達から疎まれる。高齢社会が来て、年寄りを尊敬する文化は死滅する。若者の高負担が続き、高齢者が過去の人となり、安楽の余生に甘んじて、現世への具体的貢献を忘れされば、若者が年寄りを憎み始める日が来るであろうことを恐れる。若者に限らず、人は他者のための一方的な負担には耐えられない。これもまた人生の不思議である。
『編集事務局連絡先』
(代表) 三浦清一郎 E-mail:
kazenotayori (@) anotherway.jp *尚、誠に恐縮ですが、インターネット上にお寄せいただいたご感想、ご意見にはご返事を差し上げませんので御寛容にお許し下さい。
|