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生涯学習通信

「風の便り」(第88号)

発行日:平成19年4月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「教育公害」の発生を助長する教育論の特性(2) 「単眼」の教育論−「Single Issue主義」

2. 「教育公害」の発生を助長する教育論の特性 (2) (続き)

3. "年寄りは死んでください国のため"

4. 出口のない癒し−「子育てサロン」の行方−

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

「教育公害」の発生を助長する教育論の特性(2)「単眼」の教育論−「Single Issue主義」

  前回、「教育公害」の発生を助長する教育論に「単一分野教育論」とでも呼ぶべきものがあることを指摘した。教育や発達の一分野だけを取り上げてその分野の問題を解決できればあたかも教育のすべての問題に対処できるかのような幻想を振りまく教育論である。「食」や「気」の問題だけを取り上げてあたかもそれですべての健康問題が解決できるかのような幻想を振りまく健康論に似ている。両者に共通しているのは教育も健康も心・身・気に亘る複合問題であることを忘れているところである。例えば、「読み聞かせは子どもを救う」等というのはタイトルからして「読み聞かせ」という部分が子どもという教育の全体を救えるかのように錯覚させる。「読み聞かせ」が「救える」のは子どものほんの一部の問題にすぎない。
  その後、既存の参考書を読み進むに連れて「単一分野教育論」は物事を総合的・多面的に見ることの出来ない「単眼」の思想あるいは一事が万事を決するかのように論じる「Single Issue主義:単一事項主義」とでも呼ぶべきものである。それは「画一性」の解釈において然り、「負荷」の理解において然り、子どもの「主体性」や「気づき」の解釈において然りである。学校がカリキュラムを分けたように教育における分業は当然必要であるが、分業の前提には「全体」があり、「総合」があることもまた必然である。一面的、単眼的に教育を論じることの危険性がここにある。

● 1 ●  「画一的」は悪か!?−その意味と解釈

  桐野夏生氏は著名な直木賞作家である。彼女は文芸春秋編「教育の論点」の中で学校の画一性について論じている。小学校の絵の展覧会に行ったら張り出されていた絵の構図も、色もすべて同じようなものであったという。先生が「人物を描きましょう」というと、必ず質問する子どもがいるのだそうだ。「先生、輪郭は黒で描くんですか、肌色ですか」と。先生が「肌色で」と答えると、皆一斉に肌色で描くのだと言う。また、体育でも「『出来ないのはお宅だけです』と教師に言われるのを恐れて、母親達は夕暮れ時の公園で子どもに鉄棒の逆上がりを特訓する」。・・・「学校教育の『画一』は母親に補助を要求するのである」。・・・「子どもが『画一』を強要されるならば、母親もまた「画一的な母親」になることを強要される。親の養育態度に個々人の差があるのは当たり前なのに、気がつくと大きな流れの中にいて絶対に逃げられないような仕組みになっていることが恐ろしい」。もちろん、桐野氏が挙げた事例は事実であろうし、指摘の意味するところはなるほど恐ろしい。筆者もその通りだと思う。しかし、「画一性」の問題は人物画の輪郭をすべて「肌色」で描かせるという教師の指導だけに代表されるものではない。「画一性」の問題をある特定の教員や特定の学校の指導上の「馬鹿の一つ覚え」の事例だけで学校教育の全体ましてや教育全体を論じることは同じように危険である。
  たとえば、筆者が関わっている「豊津寺子屋」が重視する「型」の教育は、「画一」指導の別名でもある。整列する時はこのように整列し、指導者にあいさつする時は最小限このようにあいさつしなさい、と教えている。掃除は手抜きをしないでみんなで最後までちゃんとやれ、と指導し、数少ない基本ルールには必ず従え、と教えている。例外は原則として認めない。これらは子どもが学ぶべき最小限の集団生活技術であり、社会性だからである。「型」の指導は「型」にはめるわけだから、「画一的」だと言われればまさしく「画一的」である。桐野氏が指摘する「体力」や「耐性」についても、長崎県壱岐市の霞翠小学校が実践した「10分間マラソン」は、「(速く走らなくてもいいから)、『10分間』は止まらずに例外なく走り続けなさい」と指導してきた。最低限ここまではがんばって耐えよ、という指導原則を課さない限り子どもの実力は向上しない。このような指導法も「画一的」と言われればその通り、と答えざるを得ない。
  しかし、画一的指導から始めても、子どもの個性や創造性に着目すれば、最後まで「画一的」に指導を続ける訳ではない。世阿弥の指摘の通り、「型より入りて、型よりいでよ」である。基礎基本の「型」を踏んだ後は、本人の創意工夫で自在に「型」から踏み出す努力を促さねばならない。「型にはめる」だけに留まれば危険だが、何の予備トレーニングもなしに自由にやってみなさいというのはもっと危険である。教育の自殺と言ってもいい。

● 2 ●  「画一指導」のTPO

  「画一性」を言い換えれば「型通り」とか「みんな同じように」という意味であろう。また、「均等」、「均質」、「一斉」、「統一」、「横並び」などにも近い。子どもの発達支援には、当然、彼等の興味・関心にしたがって、自由にさせなければならない場面と、子どもの欲求の如何に関わらず自由にさせてはならない場面とがある。上記の絵の指導にしても、デッサンの原則とか、色調の原理とか誰もが知って、誰もが守るべき基礎基本はあるであろう。絵画でも、スポーツでも、集団生活でも、ものごとの「基礎・基本」は全員に一斉に、例外なく教えるのは当然である。それを画一的と非難するとすれば、その思考法こそが画一的であると言わねばならない。個性や創造性をものごとの基礎・基本の上に置いてはならない。したがって、教育の目標や発達の領域によって「画一的指導」が極めて有害になる場合と有益になる場合があるのだと考えざるを得ない。言うまでもないが、交通ルールや子どもの犯罪防止のルール等は「画一的」・「例外なし」に守らせなければならない。桐野氏の指摘のように、分析に使われた特定の事例に当てはまって、正しくてもその事例だけをもって教育の全容を論じようとする単眼の指摘は危険である。政治でも、教育でも、健康問題でも同じであるが、「Single Issue(単一事項)」を「単眼」によって解釈した「部分分析」で子どもの発達の全体は見えないのである。
  教育のような総合的営みが教育分業の袋小路に迷い込んで専門・特定分野の視点からのみ論じられることも教育公害を助長している。少年スポーツにしても、その他の習い事にしても熱狂して見境なくのめり込んで行けば必ずどこかで発達のバランスを損なう。「一道に通ずるものは二道、三道に通ず」は応用力の真実ではあるが、極端に走ればどの道も見えなくなる。発達は総合的、従って教育は複合的で、子育てには「さじかげん」が不可欠である。
 

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