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風の便り
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生涯学習通信
「風の便り」(第88号)
発行日:平成19年4月
発行者:「風の便り」編集委員会
1. 「教育公害」の発生を助長する教育論の特性(2) 「単眼」の教育論−「Single Issue主義」
2. 「教育公害」の発生を助長する教育論の特性 (2) (続き)
3. "年寄りは死んでください国のため"
4. 出口のない癒し−「子育てサロン」の行方−
5. MESSAGE TO AND FROM
6. お知らせ&編集後記
● 3 ● 「負荷」はマイナスか!?−「負荷の教育論」 「子ども中心主義」が強調されすぎると、当面問題となっている当人にのみとらわれがちになる。「子ども中心主義」が「当人中心主義」になるのはそのためである。目の前のことに囚われれば、教育の視野狭窄が起こる。結果的に、子どもの発達や教育を考える上で他者の視点や社会の視点が欠落する。したがって、子どもの欲求と「わがまま・勝手」を線引きする基準が希薄・曖昧になる。「認めるべき欲求」と「認めてはならない欲求」の区別が曖昧になる。それゆえ、子どもの「主体性」と「欲求」との混同が起こる。子ども中心主義にとって「主体性」概念は常に曖昧であり、その条件と構成要因を説明していない。結果的に、「主体性」は、子どもの「興味・関心」や「欲求」と等値され、最終的に「抑制方法」が語られない以上、「やりたいほうだい」とどこが違うのか、不明である。 興味・関心や欲求と主体性の等値・混同が起これば、子どもの「やりたいこと」を尊重することも、「やりたくないこと」を尊重することも子ども中心主義の発想に適っている。この時、注意すべきは、子どもの「やりたいこと」に、子どもへの強制や子どもへの負荷は発生しない。反対に子どもの「やりたくないこと」を尊重すれば、ここでも子どもへの負荷は発生しない。それゆえ、子どものことは「子どもに聞け」などという教育論・指導論は、教育における「負荷」の意味が分かっていないのである。 伝統的な子育てや教育の格言を検証してみると、それらはあたかも「負荷の教育論」と呼んでいい。「かわいい子には旅」の「旅」も、「他人のメシを食わせよ」の「他人のメシ」も、「辛さに耐えて丈夫に育てよ」の「辛さ」も、「若いときの苦労は買ってでも」の「苦労」も子どもに「困難」を与えよ、と強調している。困難こそ「負荷」の別名であり、教育やトレーニングの基本条件である。特に、注意すべきは、成長期の困難は人生のワクチンであり、予防注射である。 病気予防のワクチンが実際の病原菌から培養されるように、人生の負荷も実際の困難に模して教育に応用される。負荷をかけることが本人の努力や挑戦を促し、心身の抵抗力を向上させるからである。体力も耐性も負荷をかけることなく向上はしない。それ故にワクチンの使用には「適量」の概念こそが最も重要である。予防注射のワクチンも与える量が度を越せば、ホンモノの病気を発生させてしまうように、負荷も度を越せば子どもは耐えられない。「さじかげん」や「適量」が大切なのはそのためである。負荷がすべてマイナスなのではない。負荷の与え過ぎが危険なのであり、負荷を全く与えないことも同じように危険なのである。 ワクチンが病原菌に対する抗体を形成して、免疫力の向上を意図するように、教育における人生の予防注射も困難に対する抵抗力の向上を目指している。体力の形成も、耐性の向上も「感覚体」としての人間に対する適量の負荷に対する反応の結果であり、抵抗力の向上である。それゆえ、適量のがんばりは教育の必要条件であり、適量のストレスも発達の不可欠の要因である。過保護の最大の危険は子どもが必要とする負荷を周りが先回りして取り除いてしまうことである。 我々は「無菌室」で暮らしている訳ではない。様々な病原菌やストレスの中で暮らしている。だからこそ「抵抗力」が重要なのである。人生もまた同じである。子どもにも、大人にもまったく困難のない「ストレス・フリー」の生活は存在しない。それゆえ、病気予防に防衛体力や免疫システムが大切であるように、子どもの人生にも困難に対する抵抗力=心身の耐性(行動耐性や欲求不満耐性)が不可欠であることは言うまでもない。 子ども中心主義は子どもの「やりたいこと」を尊重し、「やりたくないこと」もまた尊重する。子どもの欲求に囚われれば、結果的に、子どもへの「負荷」を最小限にする傾向が強い。彼らは面前の子どもの反応に目がくらんで体力や耐性等心身発達のメカニズムや精神と肉体の連続性を考慮していない。なぜ、人生にも予防注射が必要であることを理解しないのか?保護に傾く「子宝の風土」の副作用を知っていた先人の知恵は「負荷の教育論」を語っているのである。 ● 4 ● 「体験」信仰−教えることと体験することのバランスを崩すな! 人間の学習に体得にとって「体験」が重要であることは論をまたない。筆者もまた「体験論者」であることにおいて人後に落ちない。「やったことのないことは分からない」からである。しかし、である。「体験」の盲信もまた単眼の思想である。時に、体験信仰は子どもの主体性論に発する。その信仰は"子どもが自ら気づくまで待つべきである"という論に代表される。「子どもの気づき」、「子どもの発想」、「子どもの表現の豊かさ」、「子どもの自発性」等のスローガンも似たような雰囲気を有している。子ども中心主義は、時に、教育の自由主義であり、放任主義である。従って、「型」の指導とは真っ向から対立する。 確かに人間の歴史や文化や学問は延々と続いた人類の試行錯誤によって検証された知識や知恵の蓄積である。試行錯誤の鍵は「体験」である。蓄積の目的は未来に繰り返されるであろう無駄な試行錯誤や徒労の探求を回避するためである。また、体験を通した試行錯誤は人間が学ぶ重要な仕組みの一つであるが、すべてを試行錯誤によって学ぼうとすれば人生にいくら時間があっても足りはしない。無駄な試行錯誤を避けるためにこそ学問は発達し、理論が蓄積・体系化されて来たのである。教育の自由主義や放任主義は上記の「無駄」を放置することになるのである。多くの修行が「型」から入るのは、体験の蓄積や理論に裏付けられた方法から入るということである。 実践によって検証されていない理論は役に立たないばかりか、時には有害であるが、逆に理論を無視して這い回るだけの「体験主義」も同じように時間とエネルギーの浪費を伴う無駄で有害な教育実践である。体験がようやく重視される時代が来たが、座学重視の反動として教えるべきことを教えずに子どもに闇雲に体験を強いることは多くの場合、無駄と徒労を強いることになるのである。自らの体験によって「体得」することは極めて大切であるが、その無駄と限界を知ることもまた大切である。 理論の説明を受ければ瞬時に分かることも、知らなければ延々と試行錯誤が続くのである。優れた先生につくこと、優れた「型」を選ぶこと、理論をきちんと学ぶことの意味はそこにある。体験を繰り返すだけでは、想定された時間内に子どもが気づく時もあるが、気づかないことも多い。集団生活のルールを教えずに集団生活をさせても子どもが共同生活の原則を自得できるとは限らない。放任主義のキャンププログラムや根性主義の練習方法の「体験信仰」の問題点はそこにある。体験は重要であるが、決して万能ではない。体験重視の発想が体験信仰に傾けばこれもまた単眼の思想である。それゆえ、子どもの主体性、子どもの可能性に幻惑されてはならない。教育も子育ても鍵はバランスである。理論と体験のバランスもどちらかに傾けば単眼の思想であることを免れない。 「主体性」も「自主性」も、状況の理解力、なすべきことの判断力、なすべきことをなすべき時に実行する能力、なすべきことをなそうとする意志力の4つがなければ発現しない。子どもの体験だけでそのような力が向上するはずはない。幼少年期の能力が自然発生的に形成されると仮定することがそもそも「児童中心主義」の子ども観の甘さである。
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