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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第87号)

発行日:平成19年3月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「教育公害」の発生を助長する教育論の特性

2. 「教育公害」の発生を助長する教育論の特性 (続き)

3. 学校の挑戦ー「サバニ」で宍道湖を横断

4. 研修効果を問わなくていいか−『公金投資のアカウンタビリティ』

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

学校の挑戦ー「サバニ」で宍道湖を横断

 出雲市の浜田満明校長の「学校主催の通学合宿」をふたたび福岡の最終回フォーラムで聞くことが出来た。浜田校長は通学合宿を語りながら「欠損体験」を補完することの重要性を説き、実施の過程における教師集団の創意工夫と挑戦の精神の重要性を説き、子どもの変容過程の仕組みを解明して、保護者が変わって行く過程を解説した。力点は、プログラム展開の個別状況ではなく、プログラムを貫徹している理念的背景と方法上の「原理」を力説したのである。質問が殺到したことは御想像にお任せしたい。
  福岡県古賀市の青柳小学校の下関や唐津への長距離徒歩旅行も,長崎県壱岐市の霞翠小学校の「ごみを拾いながらの壱岐の島一周」の事業も、等しく汗と危険を伴う学校の挑戦である。筆者は巻頭小論のとおりこの国に「教育公害」が発生することを予感している。子どもを鍛え,社会の混乱を予防する核は「家庭教育」であるがすでに3世代に亘って過保護を続けて来た家庭に期待することはもはや不可能である。こういっては失礼ながら多くの保護者もすでに「へなへな」であり、その多くは現代教育論の児童中心主義にかぶれている。同世代の教員も同じである。しかも、子どもを守れという社会の大合唱はますますボリュームが上がって来ている。それゆえ,なおさらに学校の挑戦なのである。
  教職員が肉体労働の汗をかかなくてもいいのであれば、教科教育であろうと総合的学習のプログラムであろうと,合意が得られることもあるであろう。あるいは子どもを危険にさらさなくていいのであれば,教職員の抵抗も少なくて済むであろう。学校は教育のプロ集団で,しかもほぼ全員が国民水準から言って高い給料をもらっている。それくらいは出来て当然であろう。しかし,「汗」と「危険」が伴う場合は別の話である。 出雲東小のサバ二の航海はその別物であった。
  子どもの鍛錬は幼少年時に始めるのが基本である。しかも,ほとんどの鍛錬には指導者の「汗」も、子どもの「危険」も伴う。それ抜きに子どものエネルギーは生きる力に転化しない。挑戦こそが子どもに必要な「栄養」であり,「困難」こそが少年期に受ける人生の予防注射である。幼少年の時代子どもは自分の実力をまだ知らない。この時代子どもの可能性は極めて弾力的である。この時代子どもは信頼する人間と一緒なら大抵のことには挑戦する。この時代子どもの人生の地図はまだ真っ白である。幼少年教育が人生の核になるのはそのためである。「三つ子の魂」が百まで続くのは本当である。当然、「三つ子」の時に鍛えることが出来なくても,確かに、欠損体験の教育的補完によって一定の修正は可能であるが,幼少期の基本訓練が大事であることに変わりはない。ヒト科の動物にはすくなくとも「つ」のつく九つまでは体力、耐性,道徳性の基本を叩き込んでおかなければならない。ソニーの創業者;井深 大が、いささか急ぎ過ぎではあったが,「幼稚園では遅すぎる」を表し,世間に警告したのはそのためである。特に、子ども自身に自らを鍛える感覚を教えるには,幼保時代と小学校の義務教育が核である。当然,この時期には子どもは日々賢くなるので「手抜き」も覚える。どうすれば辛い義務から逃れることが出来るかも学ぶ。ヒトの顔色を見るようにもなる。
  それゆえ、幼稚園、保育所および小学校時代の鍛錬を逸すれば、問題は解決されないまま中学校に行く。そのときではもはや「たが」をはめるには遅いのである。厳しい鍛錬にも多くの「へなへな」の子どもの身がもたない。現代教育はやっていることが反対である。小学校の高学年から中高生の自我は締め付けずに、「解放」してやらねばならない。良くも、悪しくも、「自分」になろうとしているのである。心身の成長期でホルモンから肉体まであらゆるものが変わる。どの子にもそれなりの主体性が生まれ,自尊感情も生まれ,心身は一気に大人になろうとする。その時に,一方的に「たが」をはめようとすれば反抗するのは当然である。社会性を育てようとしても基礎ができていなければ,多くの努力は徒労に終わるのである。ルール違反が続けば,ますます無理矢理「たが」をはめようとする。彼等の反抗はますますエスカレートして教育公害を発生させるのである。問題の多くはすでに中高生犯罪の多くは教育の問題ではなく,警察の問題である。しかも、犯罪発生の責任の大部分は教育界にあることは明白である。
  小学校までに鍛えて,後は思春期の少年自身が自らを鍛えるのが理想である。それゆえ、核になるのは国民に義務として課している小学校教育であろう。どこかに教員が一丸となって筆者と一緒に将来の「公害」予防を研究する小学校はないか?浜田校長さんの発表を御聞きしながらそんなことを思っていた次第である。
*註  資料は「島根県出雲市立東小学校と通学合宿」参照。E-Mail: higasi@mx.miracle.ne.jp

 

 

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