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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第87号)

発行日:平成19年3月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「教育公害」の発生を助長する教育論の特性

2. 「教育公害」の発生を助長する教育論の特性 (続き)

3. 学校の挑戦ー「サバニ」で宍道湖を横断

4. 研修効果を問わなくていいか−『公金投資のアカウンタビリティ』

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

4  子どもの興味関心、子どもの欲求を説くが、子どもが社会に対して負うべき責任・役割・義務については問わない。従って、子どもの要求に対する受容が常に過剰になる。

  4−1  興味・関心がなかったら教えなくていいか!?

  社会の規範は単純であるべきである。やりたくてもやってはならないことはやってはならない。やりたくなくてもやるべきことは我慢してやる。原則はこの2つである。従って,子どもの興味関心が指導の際に重要であっても,それを優先させてはならない。また、子どもの興味・関心をかき立てるように教えることが指導者の「腕」であろう。
子どもが達成すべき「社会的課題」より「子どもの欲求や快適性」を上位においてはならない。特に、幼少年期は子どもの願いを社会の期待の上においてはならない。そのためにこそ「ほめて」,「認めて」、「君ならできる」と励まし続けるのである。子どもの「やりたいこと」をやらしておくことを指導とは呼ばない。子どもが「やりたくないこと」でも、その子にとっても、社会にとっても不可欠であることの意味を分からせ、その気にさせ、指導者に「認めてもらいたい」と思わせることが指導である。指導者に憧れ、指導者のようになりたいと子どもの尊敬を勝ち取ることこそ指導である。その時、子どもと指導者が同列・対等の関係でいいはずはないであろう。子宝の風土は教師中心、指導者中心の指導体制が重要なのはそのためである。学校も、青少年団体もいったい何をやっているのか!?

  4−2  子どもの欲求と「わがまま・勝手」を線引きする基準がない。

  子育てや教育において、子どもを中心に発想すれば,子どもの欲求を優先せざるを得ない。その時、「正当な欲求」と「正当でない欲求」を誰がどのような基準で分類するのか?子ども中心の発想では「わがまま」と「勝手」の線引きが恣意的にならざるを得ない。教育が社会の「一人前」を育てることを使命とするのならば,基準は「一人前」におき,指導は「子どもの視点」ではなく、「社会の視点」で行なうべきである。規範やルールの点検は不可欠であるが,「規範を守れ」ということも,「他人に迷惑をかけるな」という指導も社会の視点に立っているからこそできるのである。子どもの問題は「子どもに聞け」等という論は「害」があるばかりではない。「罪」が深い。
「子どもの目線」でということを強調する理論,「子どもの思いを聞きなさい」ということを重視する理論を「子宝の風土」に導入すれば,保護者は必ず「受容」が過剰になる。それくらいのことが研究を職業としているものが分からないということが情けない。保護者が,子どもの言いなりになれば、辛さや困難を克服する体力の錬成も,耐性の育成も,規範の体得もできない。これらの発達要因はあらゆるトレーニング・学習の基礎を形成しているからである。岸本裕史は「見えない学力」という概念を提出して教育界の理解を深めたが、体力と耐性と規範への服従は「隠れた『生きる力』の土台」である。これらの3条件を欠けば、「一人前」の育成は極めて困難になることは目に見えている。欲求の過剰な受容や興味関心への過剰な奉仕を子どもに対する愛情と勘違いしてはならない。

5  子どもが達成すべき「社会的課題」より「子どもの欲求や快適性」を上位におく。

  「子ども中心主義」は子どもの「快・不快」を重視し、子どもの「向上」を優先しない。
「子ども中心主義」が高じれば、義務の分担、役割の共同遂行など後の人生で役立つことであっても、子どものいやがることはさせない傾向が発生する。「子宝の風土」の保護者は子どもにとって辛いだろうことを先走って想定し,子どものいやがることはさせないように努めだす。「子どもの欲求や快適性」を上位におくということは「強制」は控えることである。「他律』や「命令」は教育的でないと思い込み,子どもの個性や創造性の発達を阻害すると多くの関係者が断定する。「児童中心主義」にとって「強制」や「命令」は「戦前教育」と同義であり、時に,「反動』と同義である。したがって、「他律」は子どもの「主体性」や「自主性」の侵害である。
  しかし,現実には、何も強制されず、何も命令されない子どもが自発的に役割や義務を果たすことは奇跡に近い。人生の規範や社会的課題が他律による指導なしに自得できるのであれば、しつけも教育も不要になる。たまたま「ほめてもらいたい」・「認めてもらいたい」がために子どもが進んで行なった事象を,彼らの「主体性」や「自主性」と置き換えて過大に評価することは極めて危険な錯覚である。「主体性」も「自主性」も,状況の理解力、なすべきことの判断力,なすべきことをなすべき時に実行する能力、なすべきことをなそうとする意志力の4つがなければ発現しない。幼少年期にそのようなものが自然発生的に形成されると仮定することがそもそも子ども観の甘さである。
  事実、判断や行動を自分の主体性にまかされた子どもは、「好きなこと」,「面白いこと」,「快適なこと」だけに走る。結果的に、親の手伝いはせず、社会の役割を学ぶ機会を逸してしまう。未熟な子どもの「主体性」や「自主性」を金科玉条にかかげれば必然的に子どもは己の欲求に従う。「主体性」も「自主性」も単なる欲求や興味関心と等値されれば、子どもの行動は「快楽原則」に従うことになるのは明白である。
子どもの未熟さに目をつぶり、子どもの欠損した体験や能力を考慮せずに、「子どものいやがることを無理にさせるな」、とか、「子どもの興味関心を重視せよ」という評論が如何に無責任であるか、少し想像力を働かせて考えれば明らかであろう。
  「子宝の風土」はただでさえ子どもの思いを優先する。それゆえ、しつけの場面、教育の場面においては、当たり前のことだが、子どものやりたいことより、子どものやるべきことを優先させ、子どもの願いより社会の期待を優先させることが幼少年教育の原点である。それが社会の視点に立つということである。その時ようやく「子宝」という文化的概念の呪縛が解け、「子どもの視点」と「社会の視点」のバランスがとれるのである。保護者ができないのであれば、第3者が代わってその任務を果たさなければならない。代々その第3者が「守役」であった。学校は現代の「守役」である。学校が社会の視点に立たなければならないのはそのためである。

6  社会に対して「子どもの果たすべき義務」より「子どもを守るべき大人の義務」を強調する。

   赤い旗を立て、ロープをつなぎ、そこから先へ行ってはならぬ、と厳しく教えるのは海水浴の原則である。しかし、そこまで口を酸っぱくして教えてもそれまでのしつけと教育が悪ければ、子どもはルールを破って突出する。万一、事故が起こった時は付き添った大人が責任を問われる。分かっていないのは教育界だけではないのである。法曹界も子どもの発達上の責任能力や役割の遂行能力を「ゼロ」とかんがえているのか!?
   子どもの起こした無法な事故で、大人の責任を問う論理は子どもにはまだ「当事者能力」がないという1点である。「当事者能力」という言葉を使えば子どもの反社会的行動はすべて子どもの責任ではなく,周りの大人の責任ということになる。子どもの事故に対する「付き添いボランティア有罪論」の論拠はそれほどに単純なものなのである。
  しかし、子どもの発達は緩やかに、しかし、連続的におこる。5歳の子どもの判断・行動能力と10歳の子どもでは大きな差がある。赤い旗も、つないだロープの説明も5歳の子どもに分からなくても、10歳の子どもには必ず分かる。その指導を無視して危険な境界線を超えて行った10歳の子どもの無謀の行為の責任は子ども自身が負うべきである。助けに行った校長先生まで溺れて亡くなったという事件が起ったが、「悪ガキ」に水の中に引きずり込まれた校長先生のご家族の無念はいかばかりであろうか!自己抑制も判断力も「半人前」にほど遠い、いまだ猿のような「ヒト科の動物」のためになぜ教師が死ななければならなないのか!?幼少年期の基本的しつけの重要性を考えれば,あきらかに「つのつく年までは叩いてでも教えよ」の教訓は決して間違ってはいない。 社会に対して「子どもの果たすべき義務」を無視して,「子どもを守るべき大人の義務」のみを強調することは、教育上の間違いであるばかりか、裁判論理上の誤りでもあるのである。

 

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