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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第78号)

発行日:平成18年6月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 教育行政の刷新

2. 敵は「伝統」と「しきたり」と「おのれ自身」

3. "おれたちは1円ももらってない"−二本足の「ボランティアただ」論−

4. A小学校への提案ーその4 「食育」の死角

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

◆◆◆ 第68回生涯学習フォーラム(お知らせ) ◆◆◆
 7月の定例フォーラムは第25回中・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会で鳥取県大山町の山田 晋教育長から提起された、「小1プロブレン」の実態を学びます。まず第1回は、現在、福岡県で「1年生」を担任している先生方の報告をお聞きします。フォーラムの展開は簡単な「インタビュー」の形式を取り、教育現場がどのような状況にあり、どう対処しようとしているのかを明らかにしたいと考えております。現場報告をお聞きした後の後半は、参加者によるブレイン・ストーミングを実施し、
問題の背景、対処の方法などを協議したいと思います。
日時: 平成18年7月15日(土)15時〜17時
    研究会終了後、センターレストラン「そよかぜ」にて夕食会を予定しています。
どうぞご参加ください。
場所: 福岡県立社会教育総合センター      
会場その他準備の関係上、事前参加申込みをお願い致します。
(担当:朝比奈)092-947-3511まで。


●●●●● 編集後記:「論理の赴くところ」 ●●●●●

  77号まで書いてみると、ささやかな執筆活動でも時にWriter's Block(書くことの壁)に襲われる。自分に経験はないがスポーツ選手のスランプのようなものか?突然行き詰まって、訳もなく書けなくなるのである。フォーラム論文も、「風の便り」も何度も論理が空回りをして、文章が行き詰まるのである。
  参考書に戻っても、資料を勉強してもダメな時はダメなのである。そういう時の締切りはありがたい。「締切り」の意味は「あとがない」ということである。どんなに不満でも、どんなに未完成でも、締切りまでに到達した論理で筆を置くしかない。執筆において締切りこそは「火事場力」のもとである。
  他律は自律よりも圧倒的に強い。義務感は自由な裁量よりは圧倒的に強い。締切りは社会が個人に課す強制力のある他律である。約束を守ることのしつけは締切りの他律に従うしつけである。
  人生における「締切り」の意味も何度か思い知った。この世は「締切り」がなかったら成就できないものはさぞ多いことであろう。「締切り」がなければ、書けるものも書けないからである。それでもどうにもならないことは何回も起る。最近、そのような時に、戻って行く書物がある。それが古田武彦氏の古代史に関わる著作である。
  今の年齢に至るまで、恐らくは他の方々と同じように、尊敬する作家や研究者に巡り会った。その代表は政治学者の丸山真男さんや批評家の小林秀雄さんであった。彼らは世間の評価も十分に得て、小林に至っては文化勲章も受賞している。これに反して古田氏は無冠の研究者である。ここ十数年の読書によって古田氏の著作への筆者の評価は丸山、小林の両氏を越えた。それは古田氏の研究の「論理」の正確さ、「論理」への忠実さ、論理的でないことは言わないという律儀さによる。古田さんの本は論理は正確、方法は明解この上ないが、論証に至る古文書の資料を読み解く経緯は広く内外の史書・文献に亘り極めて難しい。それゆえ筆者の学力では歯がたたないことが多く、何回も読みかえす。論証に使用された個別資料を覚えられないので前に読んだところに戻ってくり返して読む。頭の中で古田氏が論証に使った必要な資料を積み上げて行く。古田氏の記憶力と論理の構成力に驚かされる時である。古田さんが最後に結論を下される時、"論理の赴くところ"かくかくとなる、とおっしゃる。
  長年連れ添った妻は、古田氏の著作を読んだ後の私の精神の高揚を察知している。この頃では私が頭を掻きむしって、書けなくなると"古田さんを読んだら"、と言うようになった。連続2冊の出版を果すまでのここ数カ月は合間、合間に古田さんを読んでエネルギーと使命感をいただいた。
  魏志倭人伝に表された古代の日本は『邪馬台国』ではない。『邪馬壱国』である。倭人伝文中「台」の字は1回たりとも出て来ない。すべて「壱」の字である。また、古田氏は、三国志全体を検証し、「壹(いち)」の字を「臺(たい、だい)」の字に書き間違ったところが一つもないことを証明した。歴代の研究者が「ヤマト」に比定して、「壹」を「臺」と書き間違えたに違いないと恣意的に解釈してきたところを一字一句克明に反証したのである(*)。論理の赴くところ卑弥呼の国は『邪馬壱国』なのである。古田氏は論理の一貫性をあらゆる権威や定説の前に置く。それゆえ、史学会の黙殺にも耐える。われわれが習ってきた歴史が如何にいい加減であったか!既存の学会は若い研究者までを含めてなぜ彼の疑問に正面から応えようとしないのか?古田古代史を読むと学閥の弊害や外部批判を受け付けない日本の研究「体質」を垣間見ざるを得ない。学会が無視しても論理の正しさは消えはしない。論理を尊重する読者のいることを信じて書き続けた古田史学のエネルギーと寡黙な情熱が筆者を奮い立たせるのであろう。

(*)古田武彦、「邪馬台国」はなかった、角川文庫、昭和52年


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