A小学校への提案ーその4 「食育」の死角
1 技術論の限界
子どもの食の乱れの報道が相次いでいる。端的にいえば、子どもは栄養のバランスを失っている。時に過食であり、時に欠食である。結果的に栄養はアンバランスである。警鐘を鳴らす人によれば、子どもは食べたい時に、食べたいものしか食べず、食べるべき時に、食べるべきものを食べていない。提供された食のバランスが取れていても、子どもは気に入らなければ、決して食べようとはしない。文科省が栄養指導の専門家を各地に配置したというニュースも広がってあちこちの子育て支援会議に行くと「食育」の合唱が始まったようである。
技術論としての「食育」の論理は正しい。食育が重要であることにも異存はない。しかし、技術論で子どもの食生活を変容させる事は出来ない。食の乱調は「食育」では解決しない。栄養指導の専門家配置はふたたび税金の無駄使いに終るであろう。もったいない事であるが現代の教育行政につける薬はない。
子どもが好きなものだけ食べて、嫌いなものに見向きもしないのは、食の技術論の問題ではない。好きな事だけやって嫌いな事を拒否する傾向は子どもの日常の全域に及んでいる。教科の学習でも、体験プログラムの選択でも、日々の生活全体が「好きな事だけ、好きなようにやる」のが現代っ子の特性である。食生活のアンバランスは食育の失敗の結果ではない。食の問題を「食育」で解決できると思うのは専門家の死角である。なぜなら、好きなものしか喰わない子どもは好きな事しかさせなかった子育ての結果であり、嫌いなものは決して食べようとしない子どもは子どもの「主体性」や「興味・関心」を最も重視した教育の「成果」だからである。
2 原因の根本は子どもの「主体性」を野放しにしたことである
−教育行政も学校も声高の「主体性論」に振り回されてならない−
欧米流「児童中心主義」の教導者は二言目には子どもの「興味・関心」が重要だといい、子どもの「主体性」・「自主性」を尊重せよという。それゆえ、「子どもの目線」が大事で、「社会の視点」は相対的に大事ではない。
しかし、考えるまでもなく、子どもの「興味・関心」も、「主体性」も最初から子どもに備わった所与の条件ではない。乳幼児は基本的に教育上は「白紙」である。自分の事もまだ自分では出来ない。自分の事もまだ自分では決められない。世の中の価値も当然、弁えてはいない。これらはすべて「育てる」ものである。自律的に学ぶものではない。他律的に教えるものである。「すぐれた少年」は彼らが「なる」ものではない。われわれが「優れた少年」に「する」のである。
子どもは「学習の主体」になる以前に「教育の客体」である。従って、子どもが備えるべき条件は基本的に教育や他律の結果である。社会や家族が子どもに教えるべき大部分のことは子どもが生まれる前から決っている。教えるべきことの大部分は生活の「型」であり、従うべき「しつけ」である。家族や幼児教育・保育施設の指導が子どもの「興味・関心」や、「主体性」という名の移り気なわがままや勝手に振り回されてはならない。学校が当面している「小1プロブレン」は、家族と世間が子どもの放縦を許した結果である。子どもの「食」の崩壊は子どもの「主体性」を野放しにした結果である。「食育」で対応することはできない。
3 失敗の根本原因
発達途上にある子どもの「興味・関心」から出発し、未熟な主体性や自主性に決定を任せれば、結果も未熟な独り善がりに終らざるを得ない。欧米の「児童中心主義」は、欧米の社会が「大人中心主義」であることを前提としている。欧米の子育て風土は原則として厳しい他律の中で子どもをしつける。言う事を聞かない子の「スパンキング(尻を叩く)」はしつけの常識である。かつては「スパンキングボード」と呼ばれる板で尻をたたいていたことも知る人は知っているであろう。そのような風土だからこそ教育者は、子どもへの過度の抑圧を防止するため、子どもが主役であり、学習者が中心であるべきことを説いたのである。
一方の日本は「子宝の風土」である。子どもは大事にされ、「たからもの」として護られ、大人は子どものためであれば、献身的に奉仕する。そのような風土を前提にして、「半人前」に日々の決定権を委ねるのは教育の放棄に等しい。失敗の根本原因は重ねてはならないものを重ねたことである。戦後日本の教育は「子宝の風土」に、欧米型の「児童中心主義」を重ねてきた。子どもに尽くす風土に、子どもを尊重する思想を重ねてきた。児童中心主義は子どもの「興味・関心」を尊び、子どもの「主体性」を重視する教育思想である。子宝の風土と児童中心主義の結合は文字どおりの「屋上屋」を重ねたことを意味する。重ねてはならないものを重ねれば、子どもの決定権が異常に肥大する。未熟で、自己中心的な子どもが決定すれば、わがままと勝手が増殖する。好きな事しかやらないのは、それが子どもの「主体性」であるという解釈がまかり通るからである。やりたくない事をやらないで済むのは子どもの「興味・関心」を抑圧するな、と尤もらしく教育論で語る人がいるからである。
「好きなものしか食べない」のは子どもの「主体性」を重視した結果である。「嫌いなものは拒否する」のも子どもの興味関心が一人歩きした結果である。食生活が乱れるのはわがままで、勝手な子どもがやりたい放題にやった結果である。今ごろ「食育」の必要を説くのは誠に迂闊なことであった。
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