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「風の便り」(第78号)

発行日:平成18年6月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 教育行政の刷新

2. 敵は「伝統」と「しきたり」と「おのれ自身」

3. "おれたちは1円ももらってない"−二本足の「ボランティアただ」論−

4. A小学校への提案ーその4 「食育」の死角

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

教育行政の刷新

  今回は福岡県飯塚市の教育行政の新しい出発を素材にさせていただき、フォーラム初めての参加者全員を4グループに分けた「ブレイン・ストーミング」を試みた。初めに、森本教育長、勝田課長から基本的なお考えを提示いただき、それらを核として参加者が自由に発想してみた。時間があまりにも短く、急ぎ足の意見集約であったためそれぞれが十分に意を尽くせなかったであろうことは十分想像している。それでも咄嗟の発想と意見こそが各人の現状認識の原点である。
  ご意見の解釈、背景の説明、補足的提案の追加などは皆さんの議論に触発された筆者の独断と偏見と責任で行なった。「勇み足」、「読み込み過ぎ」、「思い過ごし」、「想像過剰」など文責はひとえに筆者にある。ご参加の皆様の意に添わないところは事前に寛容なお許しをお願いしたい。なお、当日は飯塚市の関係者はもとより、佐賀県吉野ヶ里町 最所三千夫氏、佐賀県教委 関 弘紹氏、長崎県佐世保市 智創研究所 西野寿弥氏、山口県生涯学習センター 赤田博夫氏、熊本県熊本市 「心豊かな熊本を創る運動推進協議会」事務局の林田興文氏など県外から遠来のお客さまもお迎えして部屋は満杯となり、1時間の討議は熱を発して盛況であった。

1  「合併に伴う旧住民意識の変革は学校の変革から」−最大の課題は「学校のあり方」の革新である−

  発言が最も集中したのは学校改革である。「まちづくりの課題は学校変革が最優先である。」という認識が根底にある。
  「子宝の風土」の求心力は学校にある。学校は藩校や寺子屋以来一貫して大事な「宝」の未来工房であった。学校は子どもの希望の生産現場であり、住民の発展願望の世俗「信仰」の対象であった。教師が尊敬され、学校が文化センターとなり、運動会がコミュニティの祭を兼ねる事ができたのもそのためである。それゆえ、聞こえてくる学校への不満や教師への不信は、希望の芽を潰され、信仰の対象を失い、地域の連帯を支えてきた求心力の衰えを嘆く声でもある。分かっていないのは当事者の学校とその監督者の教育委員会である。学校が再び希望を生み出す「やしろ」となりうれば、人々は学校を中心として地域の連帯を確認し、子宝の風土は活力を取り戻す。合併によって一度バラバラになった住民意識も学校を論じ、学校の変革を地域の日常の中心課題に据える事によって新しい連帯を紡ぎ出す事ができる。いつの日も「子宝の風土」にとって子どもの成長と未来を支える学校こそは関心の中心に位置しているからである。ブレイン・ストーミングの提言も期せずして「学校革新」が最重要課題に浮上した。

(1) 「学校は地域に開放せよ」、「教員は地域の人間関係から逃げるな」      

  読みづらいであろうが提案の意見はそれぞれに学校に寄せる期待の重さが感じられる。若干の重複を厭わずに列挙すれば以下の通りである。「学校施設はコミュニティに開放せよ、特に夜間はサークル・グループに開放せよ」、「学校を地域と共同経営のコミュニティスクールにせよ」、「学校に地域のボランティア活動拠点をつくれ」、「空き教室は高齢者サロンに!(高齢者を一人にするな!)」、「学校施設を公民館的に活用せよ」「空き教室の展示利用」、「高齢者と子どもの日常的接触を工夫せよー学校内にデイケアセンターを設置せよ」、「空き教室には恒例者福祉施設を設置せよ」、「学校内に学校支援ボランティアの拠点を創り、常時学内備品などの保守/点検をお願いする」、「学校は学校外の子どもの安全に関与せよ」、「地域の熟年を学校に入れよ」、「岡山県のシニアスクール(註*)のモデルもある、穂波町の『熟年学び塾』モデルもある」、「空き教室も活用せよ」、「安全や高齢者の孤独を地域の問題とするな、学校の問題として捉えよ」、「安全対策委員会を立ち上げ、熟年の研修も実施せよ」、「部活には地域の力を導入せよ」、「学校はコミュニティ・スクールになるべきである」、「コミュニティ・スクール推進研修会を開け!」、「学校内に高齢者の活動拠点を!」、「余裕教室は保教育の拠点に」、「学校に岡山型「シニアスクール」の導入を」、「高齢者の学ぶ場と貢献の場を学校に!」、「18時迄は学校に子どもの居場所を保障せよ」、「高齢者等の力を借りて小学生にも乳幼児保育(の実習機会)を導入せよ」、「『部活』に地域の指導者を導入せよ」、「校長に特色づくりのデザインを作らせ、教員の異動希望を取り入れよ」、「学校づくりは校長の腕で、教員の獲得はトレード制で!」、「校長が変わらなければ学校は変わらない」、「学校の特色は教育行政の特色に連動している」、「校務分掌に『地域連携係』を導入せよ」、「校務分掌に『保育と教育の連携係』を導入せよ」、「校長に学校の施設・機能のフル活用の意識を注入せよ」、「学社の融合・連携研修を徹底せよ」、「教員にボランティアを、体験ではないボランティアを!」。

註*第25回発表事例:
 NPO法人子ども達と共に学ぶ教室「シニアスクール」の過程と成果 −「コミュニティ・スクール実践研究校」の挑戦と試行錯誤−
発表者 岡山県岡山市岡町 NPO法人子ども達と共に学ぶ教室シニアスクール理事 藤井 敏明

  文科省指定「新しいタイプの学校運営のあり方に関する実践研究校」として出発し、「コミュニティ・スクール」のモデルを提示することが課題であった。実践上の枠組みとして中学校区内のすべての保育・教育機関が連携した地域教育力の向上の取り組みとして「シニアスクール」を企画し、ボランティア講師を募集し、学習内容を検討し、世代間交流の実態を研究した。結果的に、高齢者は新しい目的を発見し、高齢者の指導を受けた学校・園の子ども達には落ち着きが見られるようになった。

(2)「学校間の指導の一貫性を確保せよ」

  少年の危機の最大原因は疑いなく家庭の子育てにある。しかし、その危機に対処できない原因は学校と教育行政の責任である。昔から、日本の家庭は1人前のトレーニングは第3者の「守役」に付託して来た。現代の守役こそが学校に外ならない。守役は家庭から子どもを離し、「他人の飯」を用意し、「世間の風」を吹かせ、「可愛い子」に擬似体験の「旅」を与え、「辛さに耐えて丈夫に育ててきた」のである。教師は絶えず修養の重要性と守役の責務を保護者に説き続けてきた。現代はそれができるか?できまい!
  福岡県PTA連合会が取り組んでいる「新家庭教育宣言」のメッセージが届けるべき保護者に届かないのは、もはや学校と教師が保護者への説得力を十分に有していないからである。それができるためには教師が親の信頼と尊敬を勝ち得なければならない。子どもという「宝」を守り育てる事に献身と奉仕の姿勢で立ち向かってこそ教師への信頼が生まれる。だからこそ「子宝の風土」の教職は「聖職」になったのである。自分達と同列の「教育労働者」を住民が特別に尊敬する道理はない。教育行政は自らの責任と指導を放棄して各学校の恣意的な分業を許してはならない。教育の目的地は自明である。それは保護者に感謝される「一人前」を育てる事である。換言すれば流行りの子どもの「生きる力」を育てる事である。だからこそ預かった子どもが「一人前」にならない時は教育行政の失敗である。「生きる力」が衰退したのは、学校の責任であり、学校は付託された守役の機能を果していないということを意味する。恐縮ながら、「子宝の風土」の家庭には「一人前」を育てる能力は稀薄である。現在行なわれている「家庭教育推進事業」などは風土の実態を理解しない教育行政の的外れな施策である。保護者を責めたり、保護者を教育しようなどという考えは「子宝の風土」において決して機能しない。「子宝の風土」はただひたすら子どもを護り、子どもに献身的な奉仕を行なうのみである。「一人前」のトレーニングはいつの時代も「守役」の任務であった。
  参加者の提案は関係教育機関の有機的な連携に集中した。

  以下順不同、多少の重複はあるが列挙の通りである。
  「幼・小・中の連携、一貫性を確保せよ」、「小・中の生活指導を一貫的に実施せよ」、「保育と教育を一元化せよ」、「教育内容、教育方法で異なった教育関係機関の学習者を組み合わせよ?保育園+小学校、小学校+中学校など」、「幼保と小学校教育の生活指導を共通化・一貫化せよ」教育と保育を統合し、就学前の保護者教育を徹底する、「保育と教育の統合はトップダウンで実行するしかない」、「中学生には保育体験の機会と場を設けよ」、「学校長、保育所長、幼稚園長の合同会議を創設し、自由な発言を保障せよ」、「家庭と地域の教育力を増強せよ」、「地域の人材を発掘・確保せよ」、「就学前保護者教育は幼稚園保育園に設置する親教育センターで」、「高齢者等の力を借りて小学生にも乳幼児保育を導入せよ」。

(3) 評価の導入と学校の個性化

  評価は難しい。中でも教育評価、教員の人事評価は難しい。評価する側の人間の質が反映するからである。大学の経営を担当した時代、覇気のない?小理屈の多い幹部の一人が職員の採用面接にあたって、「エネルギーのある前向きの人材」が欲しいと発言したのに驚いたことがあった。「エネルギーの無い、しかも前向きでないあなた」がどうしてそのような人材を判断できるのか!?子どもの内申書評価も難しいが、結果が出るまでに時差を伴う「総合的」・「創造的」な教員の仕事の評価はもっと難しい。筆者の結論は現状では実行不可能であるが、単純である。それは「終身雇用制」を廃止して、期間限定の契約人事システムにすることである。そうすればシステムそのものが「契約更改」に向かって確実に職員の自己評価と客観評価を進化させる。終身雇用制を温存して何をやっても、結果は中途半端に終るであろう。筆者が大学改革をしくじった最大の理由もこの問題に手をつけたからであろう。当時は全くのタブーであった。ともあれブレイン・ストーミングの具体的提案は「学校選択制」の実施も含めて以下の通りであった。
  「教員の評価システムを導入してやる気を変革せよ」、「学校の独自性を認めて、推進する」、「学校評価を充実する」、「学校個性の背景は『学校選択制』で!」、「学力調査の結果を徹底分析せよ」、「学校選択制を実質的に保障する登下校方法を工夫せよ」、「まちかど評議員制度をつくれー学校評議員制度だけでは不十分」、「学校の個性化を推進せよ」、「学校紹介パンフレットを工夫/活用せよ」、「学校に厳格な外部評価を導入せよ(内部評価の「なあなあ」を排せ)」。

(4)  学校は尊敬と信頼を失った

  学校が信頼と力を失い、教師が人々の尊敬を集めなくなったのは学校という閉鎖社会を作って地域の課題から逃げたからである。学校関係者はただでさえくそ忙しいのにこれ以上地域の問題など持ち込まれてたまるか、と思うだろうが、そうした反応は、子宝の風土の学校の位置付けを理解しないが故である。地域は常に地域に貢献する学校の味方であり、それも強力な味方である。学校が地域の問題を引き受けた瞬間から学校はあらゆる点で地域の協力を受ける事ができる。地域への貢献と子どもの教育への献身によって、教師が人々の尊敬を勝ち得れば、保護者も教師の助言に素直に耳傾ける、結果的に家庭との連携が深まり、教育効果は上がる。それが日本における「学校の神話」である。神話はかつて存在し、これからも当然復活し得る。
  教育行政が為すべきことはそのように学校を導き、条件を整備し、コミュニティと「協働」する学校のモデルを提起し、創造する事である。参加者による提案の過半数が「学校改革」に収斂したのもうなずける。参加者個々の提案事項に筆者の解説と可能なモデル案をつければ容易に1冊の書物ができるであろう。それくらい現状の学校には工夫の余地が残されているのである。しかも誰もそれらの改革に組織的に着手しようとはしていない。公立学校を1校つぶし、指定管理者制度を活用してその運営をわれわれのチームに任せてみないか?参加者の提案を整理して行くと夢のような企画が広がる。

2  教育行政のシステム改革

  地域と学校が遊離したのは教育行政が採った分業のシステムの結果である。文部科学省の生涯学習関係部局と初等中等教育部局の関係から始まって、地方教育委員会の学校教育課と社会教育課はほとんど協調できていない。それゆえ、「教委内部の学校と社会教育の関係を強化せよ」という意見や「学校教育課と社会教育課の1メートルの距離は1キロに匹敵する」という分析がでるのである。提言には「教員の意識改革こそが改革のスタートである」とか「教員に生涯学習や社会教育の実際と意義を理解させよ」とか「教員の体力・耐性作りから始めよ」などが並んだ。教育委員会が学校教育委員会に終始しているという事は長年に渡って言われてきた事である。しかし、これらをだれがどのようにシステム化し、実行するのか。学校の地域参加にしても、学校の地域開放にしても、スローガンは踊ったが実行はできていないのである。何故か?
  人々のブレイン・ストーミングが見落としたことが一つある。それは教育行政にリーダーが不在である、という事である。端的に言えば、巨大な学校組織と積年の学校のしきたりと伝統の変革に挑むリーダーシップを取る事は学校教育の経験者には至難のわざである。現状を刷新しようとすれば、彼らはかつての出身母体を裏切らざるを得ない。先輩教育長や校長のやり方を否定しなければならない。何よりもかつての同僚や部下の恨みを買う事にもなるであろう。現状の変革を前提にした時、学校出身の教育長や教育委員では実行不能である理由がそこにある。学校出身者を安易に教育長にするのは間違いであると主張しているのはそのためである。いまや、教育は生涯学習の推進を初め、日本社会変革の「要」となった。その時、変えるべきことを変えることができなければ、教育委員会無用論の浮上は当然の帰結である。
  ブレイン・ストーミングの提案は問題の大きさに照らして、あまりにも断片的であるが、われわれの想像力を駆使して理解するしかない。
  「新しい教育行政システムを創設せよ?例えば、戦略的特別部署の設置、緊急課題対応部署の設置、時限的プロジェクト部署を創設」、「学校の特色は教育行政の特色に連動している」、「高齢者の指導能力を把握せよ」、「教育委員会の公開制を導入せよ」、「教育行政組織の内部改革を実施せよ」「学校を変革し、教育委員会を刷新し、教職員の資質を向上させよ!」、「ニーズ対応型教育委員会組織に改編せよ」、「教育委員の構成を多様化するため再検討せよ」、「首長を含めた教育政策研修を!」「学校内部に職員以外の人々も含めた生涯学習推進の組織を設置せよ」、「まずは職員を職務に精通させよ?職員の知識・体験の巾を広げよ」、「職員の感性、創造力の向上」、「コミュニティの交流を促進するプログラムを工夫せよ」、「システムより人である」、「答の多様化を受け入れ、様々な試行を歓迎せよーオリジナリティこそが重要」、「システムは大事であるが環境はもっと大事である」、「教育委員会内部の人事を相互交流させよ」。

3  首長部局との協働

  今や地域が当面する課題は「複合課題」である。従来の行政の縦割りで解決できる種類の問題ではない。当然、少子高齢化や男女共同参画が絡んだ問題は教育行政だけで解決が出来る筈はない。それゆえ、首長部局と教委との緊密な連携は不可欠である。それができないというのであれば、学校を除く教育部門は首長部局へ移した方が一貫した対応が可能になる。まちづくりの最終責任者は疑いなく教育長ではなく首長だからである。それゆえ、提起された処方の最終目的は「首長部局との協働」である。
  処方の具体例は以下の通りである。
  「地域課題対応型のシステム構築ー地域の安全、厚生、教育の総合的ネットワークをつくれ」、「保育所、交番、学校、老人ホーム、公民館など個別機関の機能を複合化せよ」、「総合的な高齢化対策ボランティアシステムを創設せよ」、「新しいまちをつくる行動するボランティア組織を創設せよ」、「学校選択制を支援するため『コミュニティバス』を運行せよ?福祉バスを活用する」、「給食の提供過程を教育に活用せよ」。
 
4  戦後教育思想の変革に繋がるか?

  ブレイン・ストーミングの成果はおおよそ筆者の関心に合致したが、最も注目したのは、戦後教育が原理とした「児童中心主義」に対する修正意見が出されるか、否かであった。もちろん、学校改革においても、教育委員会事務局システムの改革においても「鍵は意識改革であり」、「教員の意識改革こそが改革のスタート」であることに異論はない。
  しかし、現在の意識をどのように「改革」するのか?意識改革のために「夏休みには教職員の一斉研修を」という意見も重要であろう。しかし、ご指摘の通り「問題は研修ではなく、研修の内容である」。なぜなら、問われているのは研修の頻度やシステムではなく、「教育原則」だからである。それゆえ、「子どもの労働体験をプログラム化せよ」、「高校生には起業体験、営業体験を!」、「給食を教育に活用せよ?生産者の話を子どもに繋げ!」、「通学合宿を全市に拡大せよ」、「子どもの基本的習慣を確立せよ」等の意見は、方法論として必要であっても、果たして原理論として十分か!?
  労働体験が必要だとして、現在、総合的学習の下に行なわれているような「労働体験」で良いのか?通学合宿が必要だとして、過保護・過干渉のままごとのような通学合宿をこれ以上普及させて良いのか?お座なりのゲストティーチャーをお招きして「生産者の話」を聞かせたとして何がどう変わるのか?もちろん、子どもの「基本的生活習慣」は確立しなければならないが、いかなる考え方に基づいてどうすすめるのか?しつけについて、日本社会はこれまでも"家庭も、学校もしっかりしろ"と声高なスローガンを連発して来た。それで出来なかったものがどうすれば出来るようになるのか?今回指摘された程度の認識では原理の改革には繋がらない。問われているのは「子どもの主体性」論や「子どもの興味・関心」論に振り回されてきた戦後教育の原点:「児童中心主義」だからである。

5  点在する改革視点

  筆者が面白いと思った個別意見を拾い上げてみた。KJ法の「直観分類」によってもこれらは他の提案意見とあまり類似性のない「一匹狼」のご意見である。しかし、それぞれに背景の解釈に想像力が膨らんで興味が尽きない。例えば、「世代間を分断した事業は地域の力にはならない」という意見があった。「豊津寺子屋」は手を叩いて喜ぶであろうが、現状はすべて年齢別、対象別の分業であり、分断事業である。
  また、例えば、「教員の体力・耐性作りから始めよ」という提案があった。指導者に体力・耐性が欠如していれば子どもの「生きる力」を育てることはまず覚束ない。筆者もPTAの関係で多くの学校を訪問させていただくが、中には本当に無気力な先生方に出会うことがある。戦前、戦中の「タフな世代」が逝った後、現代の学校は次の世代を育て切るのか?なるほど初めに教師自身の体力・耐性が問われているのである。
  さらには、「モデルとすべきモデルの質を吟味せよー先進地概念に惑わされるな」という指摘があった。本当にそうである。ゆとり教育にしても、その具体策としての総合的学習にしても、学校評議員制度にしても、学校選択制にしても、ゲストティーチャーの活用にしても、モデルの選択を間違えれば、手本に習った結果も間違える。いくつわれわれはその種の間違いを繰返してきたことか!!
  その他「まちはNPOやボランティアを重視するメッセージをコミュニティに送るべきである」、「教員の人事に自由裁量の余地を増やせ」、「教育委員会内部の人事を相互交流させよ」、「学校教育と社会教育の人材バンクを一本化せよ」、「PTA組織に実践部をつくれーex.「朝読み・読書部」等があったが、その他は紙数の関係で省略した。
 

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