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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第78号)

発行日:平成18年6月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 教育行政の刷新

2. 敵は「伝統」と「しきたり」と「おのれ自身」

3. "おれたちは1円ももらってない"−二本足の「ボランティアただ」論−

4. A小学校への提案ーその4 「食育」の死角

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

"おれたちは1円ももらってない"−二本足の「ボランティアただ」論−

  「寺子屋」の見学に来て、"おれたちは1円ももらってない"と「啖呵」を切った活動指導者がおられた、と報告があった。見学に対応した実行委員は"人の善意だけにすがって責任の重い子育て支援を継続的に実行する事は困難ではないでしょうか"とやんわり躱そうとしたが、もとより「誇り高き共同体のボランティア」は納得なさらない。寺子屋では「有志指導者」に対する「費用弁償制」を採用しているだけではなく、「費用弁償制」こそが寺子屋を持続させ得る基本システムであると考えている。
  ボランティアの「費用弁償制」を批判する方々の幸運と気概は大変結構なことだが、費用の弁償が必要でないのなら、一度受け取った上で会や事務局へお気持ちと一緒に返納していただけるともっと奥床しい。現に山口県の生涯学習センターでは地域への貢献を前提とした研修の故に、参加者に研修旅費を支給したが、多くの研修参加者は、研修を受けさせていただくだけで十分であるとして支給された旅費を黙って返納された。
  世の中はすべて「1円ももらわずに」他者への貢献を続けられる人々ばかりではない。そもそも「費用弁償制」が問題なのか?、それとも、「お金を受取っていること」が問題なのか?仮に、前者であるのならボランティア活動は費用弁償を必要としない「豊かな人々」の「特権」だというのか?「海外青年ボランティア」や「海外シルバーボランティア」も費用弁償なしでやれというのか?ボランティアの本場の欧米が「費用弁償制」を採用している事をどう評価するのか?経済的に余裕のない人々はボランティアなどやるな、とでも言いたいのか!
  また「金を受取る事がけしからん」というのであれば、黙って自分だけ返納すれば済むことではないのか!?社会的弁償を受けなくても思ったとおりの社会貢献を続けることができるということは何と幸運なことであろうか!
  とにかく"おれたちは1円ももらってない"という啖呵は自慢がましく、当てつけがましいのである。見学者に対応した実行委員の困惑したお顔が浮かんで誠にお気の毒である。彼らが「1円ももらっていない」と言う度ごとに、発言者の意図の有無に関わらず、結果的に、費用の弁償を受けてボランティア活動に参加している方々を威圧し、攻撃しているように聞こえる。費用弁償を受けないことが御自慢なのであろうが、費用弁償を受けながらこつこつとコミュニティのボランティアを続けている方々にケチを付ける必要はない。せっかく活動の意義やご自分の社会貢献の機会を見い出した多くの善意に冷や水を掛けることはないであろう。世の中はすべて「1円ももらわずに」他者への貢献を続けられる人々ばかりではない。恐らくは、アホな研究者が広め、日本社会が誤解した「ボランティアただ論」の信奉者なのであろうが、まずは費用の弁償も受けずに日々のボランティア活動に参加できる己の幸運に感謝すべきであろう。

『あなた方も汗をかけ!』「一斉主義」:横並びの落し穴

  "おれたちは1円ももらってない"の次は恐らく『あなた方も汗をかけ!』ということになる。「一斉主義」は、ボランティア論において日本が最も欧米に劣るところである。すでに書いたところであるが、欧米のボランティアは個々人の信仰を原点とした「神との約束」から出発した。したがって、ボランティアは個人の行為であり、他者の行動には原則として関知しない。神の恩寵は己れの信仰の実感であり、個人が感じ取って「汝の隣人を愛せよ」の教えに従って、社会を経由して神に捧げられる祈りの形だからである。
  これに対して日本の奉仕論は共同体の構成員に対する「共益」の配分を出発点としている。みんなの為にみんなが働くという思想である。参加しないものはみんなが受ける分け前の分配には預かれない。だから「みんな汗をかけ!」という発想に繋がるのである。それはボランティアではない!それは共同体の勤労奉仕論の再生である。特に、現在活躍している方々が"おれたちは1円ももらってない"という気概で頑張っていらっしゃるとますます苦労は均等に分担すべきであるという感情に捕われる。地域の子は地域で育てよう!というスローガンは苦労はみんなで分担しよう、という感情の火に油を注ぐ事になる。
  しかし、『あなた方も汗をかけ!』という声が聞こえてきた時「汗をかけない人々」は困惑するばかりである。色々な事情でみんなと一緒に汗はかけないからである。福岡県K市の子どもたちが地域の行事に参加しなくなったのは、「汗をかけない保護者」がわが子に参加を遠慮するように指導したからである。
  ライフスタイルが多様化し、価値が分裂し、人々の行動が個々の「選択」を原点とするようになれば、ますます「共益型一斉主義」の伝統的共同体は機能しなくなる。前回、高齢者介護の建て前である「自助→共助→公助」のサイクル論は「共助の崩壊」によって機能しなくなると書いたが、"おれたちは1円ももらってない"『あなた方も汗をかけ!』の論理が横行するようになればやがてボランティアも崩壊する。現にいまでもコミュニティのボランティアただ論は機能していない。対象の子どもが100人を超え、子育て支援日数が年間200日を超えた時、子どもたちに多様な活動の場と機会を提供しようとすれば、"おれたちは1円ももらってない"ことを誇りとする人々だけではすでに手に負えない。「無償制」原則を十分に吟味しない短絡的な「ボランティアただ論」の罪は深いのである。
 

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