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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第77号)

発行日:平成18年5月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 拝啓 市町村長殿、『保教育課』の新設はいかがでしょうか

2. 生涯学習実践研究交流会第25回記念大会報告

3. 第25回大会記念出版および実行委員会

4. 第66回生涯学習フォーラムレポート

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

「他律の中の自律」 ―A小学校への提案 (その3)
◆1◆  基礎・基本とは「習慣」の形成、「型」の体得
  教育行政も学校も常に基礎・基本の重要性を説く。その通りであるが、原理を言うだけでは基礎・基本の習得はできない。教育は「なる」ではなく、「する」であると前号に指摘した通りである。基礎・基本が大事なら基礎・基本のプログラムを開発して、例外なく習得「させる」工夫が不可欠である。筆者が幼少年期の「型」の指導を強調するのはそのためである。日本語は「文型」という「型」であり、礼儀作法は社会生活の行動の「型」である。挨拶も言葉使いも指導者との人間関係のもち方は「学びの型」であり、「師弟関係の型」である。子どもは教えない限り、決して「型」を自得しない。子どもは反復しない限り、自発的に基本的生活習慣を形成できない。日本語の基礎も、礼儀作法の基本も、頭で習得「する」のではなく、全身で体得「させる」のである。
  「まなぶ」が「まねぶ」である以上、確かに子どもは自発的に模倣する。「手本に倣う」とは、子ども自身が身の回りのモデルの一挙手一投足を見よう見まねで身に付けることである。時には「門前の小僧」が「習わぬ経を読む」。しかし、偶然の例外を一般化してはならない。子どもの自主性に委せた結果は現代のしつけの崩壊によって明らかである。子どもは教わったことのないことは分らない。やってみたことのないことはできない。それゆえ、幼少年期の生活の基礎・基本を子どもの自発的な学習や、偶発的な環境の感化力だけに頼ってはならないことは自明である。
  生活習慣や礼儀作法の確立は社会学では「社会化」と呼ばれる。社会の一員として機能するために基礎・基本を習得させるという意味である。社会化の「主導」は当然社会である。社会から指導の責務を与えられた「指導者」である。「子宝の風土」においてこの事は特に、著しい。保護者は「宝」を護ることに専念するからである。
  人間の社会で幼少年期の基礎訓練を受けることができなければ、子どもは「狼」にでも成り得る。社会化の原理はアーノルド・ゲゼルの「狼に育てられた子」に詳しい。言葉を飾らずに言えば、「社会化」は「他律」である。他者が律するとは、心理的・社会的に人間関係の様々な"罰則"を伴う「教化」であり、「強制」を含んでいる。社会生活の基本をマスターしていない子どもは人々の眉をひそめさせる。ルールや作法を無視すれば、多くの場面で叱られる。乱暴が過ぎれば他の子どもは遊んではくれなくなる。親も"ああいう子には近づくな"と言うようになる。指導者を初め、子どもが他者の言うことを聞かなくなれば、そこで教育は止まってしまう。やがて善意の人々まで「さじ」を投げる。プロの学校ですら「さじ」を投げる。
  カリキュラムの指導時間帯を拡大して、放課後や休み中の「補習」や体力・耐性の育成に務めなければ、より上位の社会化のプログラムには進めない。「かけ算九九」のできていない子どもに中学校の数学は無理である。ルールに従い、困難に耐えるトレーニングを受けていない子どもに集団生活は難しい。
  何らかの理由で「遅れた子ども」には「遅れ」を取り戻してやらなければならない。学力保証も生活習慣の確立も最後はプロの仕事である。学校はまだこのことを分かっていない。教員の「フレックスタイム制」を導入するのは「補習」のためである。日々を生きて行く基礎・基本を習得しなければ、困るのはその子自身である。子どものためを思えば、基礎・基本の習得を手をこまねいて待つ訳には行かない。「可愛い子には旅」をさせ、「可愛い子には基礎・基本」なのである。幼少年期のしつけも教育も原点は「する」であって、「なる」ではない。「社会化」の原理は「他動詞」である。基礎教育の過程は子どもの自侭を許してはならない。過保護の時代、子どもの「守役」に当るものは、時に親の自侭も許してはならない。

◆2◆  「他律」の中で「自主性」を育てる
  多くの人々は表題の小見出しを矛盾と感じるかも知れない。他律は自主性の反語だからである。しかし、「自分でやれ」ということは他人が教えなければならない。これが幼少年教育の原理である。子どもに最初から自主性や自立心がある訳ではない。あるのは自我と呼ばれる「慾」に外ならない。「慾」を放置すれば、わがままと勝手が自己増殖を始める。
  子育てや教育の基本原理が「なる」ではなく、「する」であるということは、現在の指導法の原点を「自律」から「他律」へ転換しなければならないということである。特に、幼児期、学童期の初期は「型」の指導を「他律」によって始めなければならない。日本の子育ての風土が子どもを宝とする「子宝」感情と思想に被われているので、人々の慈愛は深い。日本の子どもは大事に大事に慈しまれ、保護されて育つのである。しかし、慈愛もその分別を失えば、子どもの過保護・過干渉に外ならない。過保護も、過干渉も、子どもの発達を阻害し、結果的に反社会的である。バランスを失い、さじ加減を間違えれば、教育は不毛な甘やかしや虐待に転落する。
  現在、家庭の教育力は衰退したと多くの人が指摘する。学校も指摘する。だったら、学校は何をどうすればいいのか?学校はプロ集団の集まりである。答は明らかであろう。家庭に成り代って子どもの自主性を育ててみせることである。
  体力・耐性共にへなへなな上に、不作法で、わがままな子どもが繁殖を続ければ、崩壊するのは学級や授業だけに留まらない。極端には家庭自体が崩壊する。家庭内暴力や引き籠りの深刻化がその一例である。やがてはその影響が社会に波及する。犯罪の多発や労働に参加しない若者の増大はその一つである。子育てに手を焼けば親は幸せにはなれない。子育てプロセスの不幸は明らかに少子化の原因の一つになっている。しかし、子育てから生じた不幸な問題の多くは善意の結果である。大多数の人は意図的に不幸を招いているのではない。子どもへの溺愛や「子ども観」、「教育観」の間違いが招いた失敗である。プロにはそれを正す義務があるのではないか?
  学校は「守役」の機能を自覚し、しつけを回復し、子どもの「自律」を「他律」をもって育成しなければならない。自分で出来ないのであれば、第3者がトレーニングを引き受けなければならない。それが「教え、育てる」教育の任務である。育てるべきは「自主性」であるから、他律の中に「君が自分でやって見なさい」という自律の機会を作って行くしかない。換言すれば、自主性の指導は、活動の「枠」を決めて、枠の中で自分達の創意工夫で事を実行して見ることである。更に、言えば、指導者との約束の中で子ども達が自由にやってみるということである。その時にこそ「型」や「モデル」を提示し、「試行錯誤」の自由を与えることが重要である。戦後教育が輸入した「児童中心主義」教育の修正が必要である。「児童」が中心であっても、彼らの勝手気ままが中心ではない。
  指導をせずに、子どもの自主性を放置すれば、彼らを「自滅」に導くことになる。今や日本の子どもが社会生活の基礎・基本を習得していない事は周知の事実である。体力も、耐性も、学力ですらも、「生きる力」の衰退は現代の「風土病」に近い。かつて日本文化に存在した子育ての教訓は「他律のすすめ」である。「可愛い子には旅」も、「辛さに耐えて丈夫に育てよ」も、「他人の飯を食わせよ」もすべて「他律のすすめ」か「他律の中の自律のすすめ」であることに注目すべきである。それゆえ、格言のスローガンはすべて「させよ」という他動詞であることに注目すべきである。
 

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