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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第77号)

発行日:平成18年5月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 拝啓 市町村長殿、『保教育課』の新設はいかがでしょうか

2. 生涯学習実践研究交流会第25回記念大会報告

3. 第25回大会記念出版および実行委員会

4. 第66回生涯学習フォーラムレポート

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

生涯学習実践研究交流会第25回記念大会報告

T 不安の時代
特別企画:第1部「定年と老いをどう生きるか」
第2部「生涯時間20年時代の施策はなにか?」 より
 1  「自助」−「共助」−「公助」

  個人の当面する課題と不安を下敷きにすれば生涯学習の施策に繋がるのではないか、とプログラム企画の段階では漠然と考えていた。それゆえ、第1部では登壇者がそれぞれに個人の願望や不安や環境・事情を語った。しかし、個人の生涯学習課題がそのまま第2部の生涯学習施策には繋がらない。当然のことだが、第1部で登壇した「交流会」実行委員経験者の問題意識は多岐に渡った。定年は時に2度でも3度でもやってくる。その時その時の衝撃が大きいとしても、複数の定年を迎えることのできる方々は社会的に幸運な方々であろう。財政難の昨今いくら福祉社会を標榜しても、公的施策によってこの種の人々の面倒迄は見切れない。「親の介護」も個人の数だけ問題が起る。満足して逝った親もいればそうでない親もいることであろう。そうでなければ"まだ、生きてんのかいや!もう、いい加減にしてや"のセリフは生まれない。「親孝行したくないのに親は生き」の"川柳"も生まれない。司会の正平辰男氏は登壇者に「高齢期」の「野望」はないのか、と問うている。野望の実現を妨げているのは、金か?場所か?時間か?己の才能か?それとも配偶者の邪魔立てか?と尋ねている。これらの問いに対する各人の答が出たとしても、ますます生涯学習の公的施策にはなりにくい。「個人の願望」と「個人を取り巻く状況の現実」のギャップはそれがどれほど深刻であっても、原則的に個人が解決するしか方法はない。病気で医者にかかる場合はともかく、「体力」、「気力」の衰弱を初めとして、老後の準備は個人の責任に帰結する問題の典型である。「女房に死なれて以来女の手は握ったことはない」という種類の問題に対応する施策は当面存在する筈はないのである。
  筆者は第2部の司会を担当する役であったが、個人の問題を社会的施策に置き換えることの難しさに途方にくれて立ち往生した。福岡県立社会教育総合センターの菊川律子所長から表記の「自助」?「共助」?「公助」の3段階整理の助け舟をいただいて我に返った。ご指摘の通りである。第1部で出された心配も不安も深刻なものであったが、「答」は単純である。「自分で何とかせい!」という外はない。もちろん、答が単純である、ということが、対応が簡単であるということではない。逆である。どの問題をとっても各人が自己責任で乗り切れる保証は無い。老いのどんづまりは心身の衰弱であり、人生を支えてきた方々との「別れ」である。ほとんどの問題はそれぞれの生き方に関わり、人生の終り方に関わる。「自助」の部分は人生の秘事なのである。
  青年期の不安は行くべき道が未知ゆえの不安である。熟年期の不安は100%確実な孤独と孤立と死についての不安である。未知の不安には希望や夢を描くこともできるが、既知の不安にはその種のごまかしは効かない。存在のための医療と介護はとりあえず日本社会が提供してくれる。しかし、「よりよく生きる」ための方法は生涯学習・スポーツを通して個人が開拓しなければならない。その時よりよく生きるための「文化的介護」の支援策はどうあったらいいのか。第2部の問いはそこから始まる。

 2  「一人にするな」

  第2部を聞いた筆者の総括は高齢者を「一人にするな」というところに収斂する。福岡県男女共同参画センター「あすばる」の中嶋玲子館長の提言である。高齢者を一人にすれば早晩人間の機能が破綻するということは、提案者ご本人の痛烈な体験に基づいている。館長はある事情で7ヵ月間人と話す機会がない体験を耐え抜いた。人と会うことがなければ会話は途絶える。人間相互のコミュニケーションが停止すれば、思考も停止する。結果的に意欲も希望もしぼむ。精神が衰弱すれば、生きる気力を失う。人は人の間で生きるのである。然るに、熟年期の活力を維持する施策の根本は熟年を「一人にするな」、ということになる。
  今になって議論を振り返ると他の方々の提案も結局は孤立と孤独の問題に帰着するのである。「一人にしない」ためには熟年の社会参画機会を拡充するしかないからである。飯塚市の森本精造教育長は様々な事業の具体例を上げた。例えば、旧穂波町の「熟年まなび塾」である。たとえば、今大会で発表された子どもと年寄りが一緒に学ぶ岡山県の「シニア・スクール」である。また、たとえば、記念出版「市民の参画と地域活力の創造」(学文社)に収録した福岡県直方市の高齢者大学で実現した高齢者の学校教育への参加事業(第6章事例11;森一郎氏発表)であった。収斂するところは、結局社会参加を勧めて、「一人にするな」ということであろう。雑誌「社会教育」の近藤真司編集長は、教育行政は「箱」を作ったが、高齢社会を前提とした「ひと(の関係)は作っていない」と指摘した。基本と成る社会的条件が変われば、生涯学習のプログラムも参加者の支援策も当然変わらねばならない。従来通りの社会教育は本人申告型である。「この指とまれ」型の教養・娯楽・軽スポーツのプログラムで熟年の社会参画を進めることは出来ない。「手を上げない人」に参加の機会は訪れない。社会教育は従来の「待ちの姿勢」だけで熟年の孤独と孤立の危機に対処することは出来ない。生涯学習の社会的対策は遅きに失しているのである。政治は生涯学習は地域の問題解決に役立っていないと判断している。このままでは予算も、人もますます減るであろう。結果的に生涯学習の真の効用はこれから試されるのである。

 3  「地縁」は現代人を支えるか??「共助」の崩壊

  生涯学習社会は学習者が主体である。学習者の主体性は活動の「選択」に現れる。選択したもの同士が繋がるのはこの世の自然である。結果的に、生涯学習時代は「知縁」や「志縁」によって人々が知り合う。しかし、最後に生物学上の衰弱が来て人が動けなくなった時、知縁も志縁も選択者を救えないだろう。「知縁」は結局「地縁」の共助に戻らなくてはならないのではないか?菊川所長が投げかけた問題は「知縁」→「地縁」への回帰であった。中嶋館長も既存のコミュニティの人間関係を強化し、「一人にしない」施策の中核にすべきである、とのご提案であった。
  しかし、「地縁」は人生の価値意識がますます多様に細部分裂を続けている今でも人々をつなぐ「縁」や「絆」であり得るだろうか?まして日本には欧米のようなコミュニティをベースにした宗教的日常活動は存在しない。筆者が近隣で目撃している共稼ぎで余裕のない若い世代に地域の高齢者を支える意識が根付くとはどうしても思えない。自治会の共同作業も、自治公民館の学習も確かに行われているが、これまでの惰性で「仕方なく」行われているのではないか?コミュニティの共同活動も人々の「共益」に関わり、興味関心が共通の時はいい。しかし、共通要因が失われた時同じ地域に住んでいるという理由だけで若い世代は衰えた熟年の「面倒」を見るであろうか?恐らく「答」はNOであろう。
  これからの熟年は、「自助」努力でやれるところまで頑張る。そこで倒れたら「共助」は期待できない。「共助」を飛ばして、「公助」の世話になる、という順序ではないのか!?平均的日本人は一通りの近所付き合いはしているが、従来のようなお互いを束縛し、お互いを助け合う「共助・相互干渉型」の村落共同体コミュニティには帰属していない。生涯学習施策における自治公民館中核思想や校区中心型のコミュニティ創造論は本当にこれからの生涯学習政策足りうるのか?「豊津寺子屋」モデルに見るように、校区を中心とした「子縁のサイクル」は成立する。しかし、同じように、校区を中心として「衰えた熟年」を対象とした「支援のサイクル」が成立するか、否かは決して簡単ではない。子育て支援は未来に繋がるが、高齢者支援はどこにもつながらない。何よりも支援の中核と成るべき若者や成人の誰一人として「老衰」の世界に足を踏み入れた事はない。「介護」を職業として社会化しなければならなかった最大の理由がそこにある。
  熟年の「不安」の源は「自助」の限界、「共助」の崩壊、「公助」の貧困である。一神教型の信仰を持たない日本人の多くは、自らの意志と気力で待ち受けている「弱者収容所」の過酷な環境に耐えなければならない。今になって苦しい時の"神頼み"は効かない。
  不安の根源は、確実な不幸の予感に対して、現行の生涯学習や福祉政策の印象がまったく頼りにならず、暗すぎることである。この実感は恐らく司会の正平氏が分類した「定年前組」にはまだ早すぎるであろう。不安は肉体の衰えと共にやってくる。誰も代わりには生きられないのである。「定年後組」の不安は最近の筆者の夢に出てくる。誰もいなくなって施設の中で淋しく花を育てている風景がそれである。そこから先はまた人生の秘事に属する。

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