矢野大和落語に学ぶ
1 情に始まり情に終わる
筆者は中坊公平さんがおっしゃったという「正面の理、側面の情、背面の恐怖」を信奉している。講演はこのスタイルに倣って構成する。研究者を名乗る以上、あくまでも論理が主役である。もちろん、聞いていただくためには「側面の情」にも訴える。聴衆を「背面の恐怖」で脅すことはないが、時代錯誤の発想に対しては、時に口調は激しくなりがちである。
講演以外の現場でも、引き受けた小学校の「生きる力」の指導や「豊津寺子屋」の子ども達の指導原理はまさにこの方式を採用している。先生方には、活動の「理」を説明し、応援の情を惜しまず、それでも逸脱する者には「鬼の塾長」の恐怖を持って対処する。
ところが先日お聞きした矢野大和落語は人権を論じても、生涯学習を論じても情から入り、情を持って終わる。聴衆に自分で考えさせる点で抜群であった。矢野落語の真髄は、いわば、正面の情、側面も情、背面の論理である。勿論、「恐怖」はどこにもない。
2 話法に倣う
筆者は研究の命は論理であると信じて疑わない。結果的に筆者の講演の論調は理詰めになる。理詰めとは、資料に基づく事実と正確な現状分析を突き合わせて、その解釈の論理を積み上げて行くのである。論理的に目的に適っていない中身や方法は証拠を上げて完膚なきまでに批判する。しかし、理詰めの講演は多くの方々の反発を買う。巻頭に書いた「連作障害」や「年功障害」の人々は、私がシステムや思想を批判しても、ご自分が侮辱されたと勘違いする。そこで矢野大和落語の話法を借用する実験を始めた。原理は「情」から入ることである。
彼の落語に「肯定から入る」という落し話がある。矢野さんはお客さんに三つのお願いをする。「大分弁で喋ります」、「隣の人と話をしないでください」、「そんな考え方もあるんだな、と思って聞いて下さい」の三つである。この三番目が「肯定から入る」である。矢野さんには「肯定から入る導入」のやり方にいろいろ具体例なネタがあるのだが、私は最も簡単なものをお借りして実験をしてみた。
筆者の論調は理詰めの上に、不幸にして現行の学校教育の指導法や子育て支援のプログラムに正面から対立するところがある。結果的に、人の耳には厳しく聞こえる。怒らせてしまっては何のための講演か意味を失う。そこで矢野話法である。
「いいか、人の意見を聞く時には『そういう考えもあるな。そういった考えもありますね。』といって聞け!」と息子に言ったという。
すると息子が「そういう聞き方を肯定から入る、って言うんだわ」
息子の方が頭がいい。
「いやそれは出来ん。無理じゃ。だめですね、という聴き方を何と言う?」
「もちろんそれは否定から入る」
「よくそんな難しい言葉知ってるな」
「だって学校に行きよる」
「学校に行ったらどうしてそんな言葉がわかるんか」
「だってぼくたち、学校に行く時はいつも校庭から入るもん」
この時、笑った聴衆はすでに「敵意」を武装解除されている。話を肯定的に聞いてみようと言う構えも出来ている。現行理論に挑戦的な自分の講演には打ってつけであると判断して、恐る恐る試しにやってみた。みんながどっと笑ってくれた。初めにやっておくと、講演の途中でも、ここのところは一度「肯定的に聞いてみて下さい」と投げかけることも出来た。その結果、多くの人が、過激に聞こえるであろう教育論をにこやかに聞いてくれた。味を占めて二度、三度と試してみた。いまだ失敗していない。矢野大和落語の凄さを身を持って体験したのである。
3 『態度は信頼の関数である』
差別論や「セクハラ」論を皆さんに聞いてもらうことは難しい。論理は簡単な筋立てでも問題は論理では解決しない。わかる人はわかるがわかろうとしない人は決してわかろうとはしない。価値論がこじれるとわからない人には許してもらえない。社会学では「神々の戦い」と呼んでいる。さしずめ、イスラム原理主義のテロなどはその典型である。
矢野大和落語はこのような問題でも「情」から入る。情から入るとは、情景描写から入ることに重なる。例えば、落語の会場に大分県知事が来たとする。矢野氏は深々と頭をさげて「知事、初めてお目にかかります。矢野と申します」と言う。逆に親戚のおばあちゃんが来たとする。矢野氏は頭は下げずに手を振るだけだと言う。
「おばあちゃん久しいな。元気よかった?」
見てる人がきっと、差別だなと言い張って、「どちらの方にも丁寧に丁寧に頭をさげた方が、より人間として立派じゃないですか」
「この理屈は当たっています。(肯定から入る!)。より丁寧に頭をさげた方が立派です。(肯定から入っても矢野落語は主張を変えない。)
でも私は差別などしているつもりはありません。時と場合によって、態度を変えています。私と知事との信頼関係の深さと、おばあちゃんと私の信頼関係の深さが違うのです。このように立ち場が違う時に同じようにしたらかえって失礼になります。知事と私とは友だち関係ではありません。でも私は大分県知事を尊敬しています。みんなから選ばれています。当然頭を下げると思います。逆におばあちゃんと私は親しい間柄で、信頼関係があります。深いです。小さい時おむつも変えてもらいました。すべて見られています。そんなおばあちゃんに深々と頭を下げると、「なにしてるんだ、他人行儀だ」と言われます。これをみんな同じようにして差別をなくそうと言っている人もいるような気がしてなりません。」
矢野落語の論理は情の陰に隠れている。人間の行動やその評価基準を画一化するなとは決して言わない。表題のように表現はTPOで変わり、態度は信頼の関数であるとも言わない。聞いている人はニコニコ笑っておばあちゃんに手を振っている矢野さんを思い描いて納得しているのであろう。彼が1年に400回も各地に呼ばれる理由がここに潜んでいる。誰も不愉快にならない。誰も怒らせない。みんなをほのぼのとさせて、しかも、伝えるべきことは伝えている。
彼のセクハラ論も情景から入る。
「信頼関係があって男が女の人を触るのは悪くないよな。女の人も大好きなひとからはさわられたいやろ?」
ところが男の方に女性との信頼関係を見抜く力がないから問題が多発している。信頼関係を見抜く力こそ「生きる力」である、とのたまう。
口演の後、若い女の子がきて「おいちゃん、今日のセクハラ分りやすかった」と言ってくれました。「そうか」。「大好きな人から触られたら嬉しいけど、大嫌いな人から触られたら訴えてやろうと思うわぁ。信頼関係によってセクハラか、セクハラじゃないか、決まると思うわ」と若い子に言わせている。その後が人々の共感を呼ぶ。若い子は矢野さんに追い討ちを掛けた。「だいたいおじちゃん、男の人がな、 40を越えて女性に好かれていると思うことが基本的にまちがいや!」「男は40を越えたら嫌われているという謙虚さがあった方がいいよ」
矢野氏はすでに49才である。「生きる力は時と場合によって態度を変えなくちゃ」というのが笑わせた後の矢野理論である。
4 ふるさと主義−日常主義
矢野落語に登場するのはその多くがふるさとの人々であり、その方々の日常である。落語の素材は誰にもあるふるさとであり、誰もが共有する日常である。専門用語も、横文字も全く出て来ない。嫁姑の関係を論じ、生涯スポーツと重ね、ふるさとの年寄りと小学生の交流を論じて、高齢者の社会的活躍の場の必要を説き、高齢者を社会的に承認することの重要性を説く。小学生と三人の高齢者の交流を描写した「たかくんの通学路」は、今や第1級の生涯学習論となった。
次の小話も自在に活用が可能である。
おばあちゃんがスイミングスクールで泳ぎを習いはじめる。年寄りの健康増進につなげれば、言わずと知れた生涯スポーツ論になる。自立を論じれば生涯現役論である。嫁と姑の物指しが違うという生活基準の問題として取り上げれば世代論になる。もちろん、そうした固いテーマにつなげなくても会場はどっと湧くだろう。
79才になったおばあちゃんが今年水泳を始めました。
「婆ちゃん、79才にもなってなんで水泳を始めたんですか」
「もうボチボチしたら、わたしお迎えが来るから。もし私が死んだら、三途の川を自分の力で泳いで渡ろうとおもって、水泳を始めた」
生涯現役ですから、ばあちゃん、いい趣味を持ちました。先生の教え方がうまかったのでしょう。どんどん、どんどん泳げるようになりました。
奥さんが心配して「先生、うちのおばあちゃん、水泳どうですか?」
「奥さん、びっくりしました。おばあちゃん、水泳上手ですよ。もし、今お亡くなりになっても、三途の川を自分の力で泳ぎ渡ってもなお、ピンピンしていますよ。」
「そうですか。そこまでしていただいてありがとうございます。でも、先生にお願いがあります。」
「なんですか、奥さん」
「おばあちゃんにターンだけは教えないで下さい」
*(参照)矢野大和、笑って元気、家の光協会、 2005年 |