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生涯学習通信

「風の便り」(第70号)

発行日:平成17年10月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 連作障害と年功障害

2. 英訳「俳句いろはカルタ」

3. 英訳「俳句いろはカルタ」(続き)

4. 矢野大和落語に学ぶ

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

  連作障害と年功障害 

  島根県江津の宿で季節は突然冬に変わった。泊めていただいた部屋には明かり取りと排煙を兼ねた天窓が二つあって、冷たい雨が天井のガラスを叩き、一晩中「もがり笛」のようなヒューヒューと身を竦ませる風の音が続いた。翌朝、車窓に見た日本海は白波が泡を吹いて、岩を叩き、海は大荒れであった。前夜は関係者が沢山集まって下さり、ひたすら島根の方々と語りあった。その余韻の中でメモをとったものが以下の感想である。

 1   「連続」の危機、「成功経験」の危険

  島根に限った事ではないが、このところ情報交換や懇親の会によく出席させていただく。その結果、沢山の方々と語り合う機会に恵まれた。新しい時代の要求を分っている多くの人に会ったが、同じように多くの分っていない人にもお会いした。気付いたことは、おおまかに2種類の人がいるということである。第1は、時代の変化に対応し、従来の発想を修正しつつある人である。第2は、自分の意見はすでに決まってけして変えようとしない人である。この方々の論理は変化する時代が悪いと言わんばかりであった。事は、男女共同参画から生涯学習まで、施策の上では、「子育て支援」から「学校開放」までことごとく意見が対立する。
  第1種の方々は、時代の変化は人々の要求の結果であることを自覚しておられる。したがって、マイナスもあれば、プラスもあることを自覚しておられる。第2種の方々は、変化の基本原理がお分かりではない。それゆえ、変化がもたらした成果の恩恵には浴しているのに、そのマイナス面ばかりを論難される。成果を当然として享受しながら「副作用」は時代が悪いと言う。このような姿勢からはマイナスに対する対処策は出て来ない。

  これらの方々は変化を求めている人々の立場に立つことが出来ない。変化は心外であり、これまでの自分の生き方の変更を迫る。「生き方」は変えたくないのである。したがって、男女共同参画も、子育て支援も、分らないのではない。分ろうとせず、分りたくないのである。マーシアが定義した「自分自身観」(identity)の「事前閉鎖」(Foreclosed)が起るのであろう(註)。これらの方々の「答」は、社会的条件が変わろうと、科学技術が進化しようと、決してご自分を変えようとはしない。答はすでに事前に決まっている(foreclosed)のである。時代が悪く、変化を歓迎しないという事は、いままで通りの発想が滅んで行くことを哀しみ、変わって行くことへの反発と思い込みが激しく、頑固である。しかも、「事前閉鎖」型は役職の上の方の人々に多い。ご自分の発言に対して、若い部下達が耳を塞いでいる現実が見えていない。

(註)J.E.Marcia, Development and Validation of Ego-Identity Status, Journal of Personality and Social Psychology,1966, pp.551-558

2  "「養育」の社会化は認めないー子育ては家庭がしろ!"

  筆者は2年前に男女共同参画を言う以上、「家庭にすべての子育て責任を課すこと」は間違っている、と宣言した。したがって、それまで自分が唱えていた「家庭教育責任論」から転向した。代わりに「養育の社会化」論を展開するようになった。子育て支援は社会の責任で行なうべきであるという考え方に転換した。その論理はフォーラム論文「養育の社会化」に詳しく記したので省略するが、結論は以下の通りである。
  少子化の防止を言い、男女の共同参画を主張し、女性の能力を社会に引き出すことが大事であると言うのであれば、子育ての責任を「家庭」から「社会」に移すのは当然である。家事と育児のほとんどを女性に背負わせて、なおかつ「少子化」は止めなければならない、というのであれば、そうした役割のせめて半分は男が分担しなければならない。男が責任と役割の分担に応じないというのであれば、養育機能は社会が引き受けるべきであろう。子育て支援論はそこから出発する。
  かくして、男女共同参画と「子育て支援」は裏表であり、「少子化」の防止と「養育の社会化」もまた表裏一体である。なぜなら、Super Womanでも両方を同時にかつ立派にこなすことは至難のわざだからである。
  しかし、多くの偉い男達は未だに「家庭の育児責任論」者であり、「家庭でのしつけや教育の責任論」を言い続ける。育児も家庭教育もしょわされているのは女性である。したがって、「家庭責任論」は「女性責任論」に等しい。「家庭はもっとしっかりしろ!」と言うことは「女性はもっとしっかりしろ」と言うことに等しい。この種の方々は「養育の社会化」論はもとより、家事の分業も、女性の社会進出も、女性の自己実現も、様々な家庭の有り様についても、人の話を聞こうとはしない。
  講演前のお茶の時間にそういう話を聞いたので、ついつい講演のトーンが高くなった。女性に「育児をちゃんとやれ」と言うのなら一度「男が引き受けてやってみたらどうか!」、「子どものしつけが悪いと言うのであれば、試しに男が自分でやってから言え!」、「やったことのないものに発言権はない!」と声を張り上げた。前号に特筆した「豊津寺子屋」事業の総括は「養育の社会化」論から出発している。


3  連作障害と年功障害

  10月の生涯学習フォーラムに山口県田布施町の「田布施雑学大学」の発表があった。事例を発表して下さった三瓶晴美さんが真に言いたかったことは社会教育プログラムの「連作障害」であると当日の夕食会の席でうかがった。土を変え、新しい作物に転換しなければ豊かな実りをもたらすことは出来なくなる。生涯学習では新鮮味が失われ、進化が止まって「マンネリ化」が起る。同じ作物を作り続けると土がダメになって「連作障害」が起ることは農業の常識である。しかし、明らかに生涯学習や子育て支援の常識にはなっていない。相変わらず学童保育のやり方も社会教育のプログラムも数十年前と同じ型を踏襲している。公民館などは「連作障害」の典型であろう。
  三瓶さんの指摘を聞きながら、私は「連作障害」の背景には、これらのシステムを支配している「偉いさん」方に「年功」障害とでも呼ぶべき「過去の体験」、特に「成功体験」への「固執」が顕著であると思う。
  草創期の「田布施雑学大学」が新鮮で、魅力的で、人々の評価を得て成功したように、多くの経験者、功労者は過去の事業やプログラムに成功している。そうした成功体験が学習結果の「転移」や応用を阻み、従来の経験の「干渉」が新しい発想への転換を阻むのである。アメリカの心理学者ぺックはこうした現象を「精神の固定化」(Mental Rigidity)と呼んだ。
それゆえ、成功体験者は、自らに成功をもたらした方法や内容に自信をもち、こだわっている。これらの人々の最大の落し穴は時代や人々の変化の要素を見逃すことである。「筋肉文化」が世間を支配していた時代には、「筋肉」の働きに優れた男が「稼ぎ」に出た。女性は家庭にという「性役割分業」は歴然たるものであった。この時代に「子育ては家庭が責任をもってやれ」と言うことはフェア?ではなかったが、大きな矛盾にはならなかった。男の偉い役職者はこの時代の空気を吸ったのであり、この時代の「良妻賢母」の理想を聞いて育ったのであろう。そうした家庭やそうした家庭を守った理想の母が彼らの今日を築いたとしてもなんら不思議はない。彼らに少子化の発生メカニズムが分らないのは当然であろう。男女共同参画が不快であるのも当然であろう。まして「養育の社会化」を分って下さい、と言うことの方が無理というものである。"地域の子どもはみんなで育てよう"というスローガンの大会においてすら、「子育て支援」よりは「家庭が子育てに責任を持つ」ことの方がもっと大事ではないのか?という論理になる。
  文部科学省が一方で社会による子育て支援の発想に基づいて「子どもの居場所」事業を拡大発展させようとしながら、他方では、陳腐な家庭教育推進事業に巨大なお金を使っているのは、政策決定者やその取り巻きの中に上記の「年功」障害者がいるからである。見聞の限り、現行の「家庭教育推進」事業に「来るべき人」は来ない。「来なくてもいい人」だけが集まって、子どもの「生きる力」をダメにする教育講演を聞いている。何たる無駄と徒労であることか?

4  同じことをやり続けた結果

  「連作障害」は同じことをやり続けた結果に起る。土の劣化、作物自体の成長力の低下を見逃すからである。現在の子どもを見れば、学校教育の誤りは歴然たるものであろう。それは「家庭の責任」に起因するものだけではない。学校の指導力低下に起因するものの方が多い。学校は「児童中心主義」を連作している。相も変わらず「子どもの主体性」をいう。今では「子どもの人権」が教育界を席巻し、子宝の風土では子どもの権利は保障されなかったかのように言う人さえいる。
  教育に限ったことではないが、一生懸命にやっても成果が出ないことがある。「継続は力」を信じて、さらに続けても、どうしても成果がでない時がある。一生懸命にやってみて、しかも結果が出ない時は、「中身と方法」が間違っていないか、と疑ってみるべきであろう。疑う能力を失うことが「年功」障害であり、自分自身観の「事前閉鎖」である。この時、人は、昔やったようにしかやれず、昔考えたようにしか考えられなくなる。これでは到底「変化の時代」には対応できない。失敗の分析も出来ず、自分達以外のものに責任があるかのように考えることになる。年をとった教育長にも、社会教育委員にも、公民館長にも似たような「連作障害」者が多く、「年功」障害者が多い。日々変化し続ける子どもを指導している校長にすら多い。とても学校教育を革新したり、新しい時代の生涯学習を創造する状況にはない。
 

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