ななめ読みの感想−平成17年5月29日日経新聞日曜版−
目まぐるしいスケジュールが続いた。多忙な日々は、テレビは「ながら視聴」、新聞は「ななめ読み」がやっとである。それでも己のアンテナを張っている時は思いがけず関心のある情報に巡り会う。5月29日に立ち読みした日曜版がそれであった。
読者俳壇/読者歌壇
遠くアメリカからの久々の懐かしい来訪者が去って我が家は森閑となった。心は虚脱して、いささか茫然自失の状態であったが、仕事は山済みである。気を取り直して日常のスケジュールに戻れば、約束した仕事の締切りは目の前である。溜まった新聞はごみ出し用に積み上げたが、2−3日分だけでも目を通したいとななめ読みをした。
見るともなく見た黒田杏子選の読者俳壇の中に『前世も来世も知らずほととぎす』(高知県の浜崎浜子さん)とあった。森閑とした我が家を詠んで下さった句だと思った。栗木京子選の読者歌壇には、「不平不満不安理不尽尽きねども不幸とだけは言いたくはなし」(西東京 水島孝雄さん)とあった。老いの身にはいろいろあるが、同感である。
「風見鶏」
2ページ目のコラム「風見鶏」には政治部の丸谷浩史氏が書かれた"「小泉流」こそ常識"の一文があった。小泉総理が一番世間の感覚に近く、議会運営も常識に則って行っており、昨今メディアを騒がせた総務省幹部の交替劇もアメリカでいう「政治任命」であり、民主党の小沢一郎氏の言う「ポリティカル・アポインティー」に重なるという指摘であった。お説の通りである。学校開放の建て前だけを言って、一向に学校の開放に踏み切らない文部科学省幹部の交替も政治的に行なってはいかがか?学校教育法第11条の「体罰禁止」の項もここまで少年非行や荒れた学校が日常化した現在では、ポリティカル・アポインティーによって抜本的な検討に入るべきである。他者に多大な被害を及ぼすルール違反者に物理的な処罰をもって対処しない社会組織などあり得ないのである。この国はまさに「人権」が大流行りであるが、被害者の「人権」はあまりに軽視されているのである。
「私の履歴書」
最後のページは千葉商科大学長の加藤寛さんの「私の履歴書」である。普段、時間のある日でもめったに読むことはないが、「親のかたき」という表現が目に入った。福沢諭吉は「門閥制度は親のかたきでござる」と言ったという。「郵政民営化情報システム検討会議」の座長を務めた加藤さんにとっては「官主導」は親のかたきでござる、ということであった。筆者は知らなかったが郵便局は近代的会計基準に則っておらず、未だにどんぶり勘定であるという。郵便局の預かり資産は350兆円にもなるのに、個々の郵便局会計は小遣い帳なみの「単式簿記」だという。この一点だけでも郵政民営化の必要性は明らかであると指摘する。加藤さんのかたきは郵政事業に立てこもっている。日本人の個人資産の4分の1は官主導の「御用金」であり、経済合理性など無関係に財政赤字補填や財政投融資に使われる、という。実に分りやすい解説であった。郵便局のサービスがへき地に行き渡らなくなるとの「反対派」の説明は加藤さんの明解な論理を隠ぺいする機能を果たしている。
加藤さんの「学問する目的」は国民の福祉を増大する方策を探ることである。加藤さんはソ連経済の研究から、「官主導」の経済では国民福祉は増大しないと論証したという。それゆえ、日本経済から官主導の部分を排除して、真の市場経済に転換させることが国民福祉増大への道だと確信している。筆者が関わる分野でも、「官主導」のプログラムはすでに役に立たなくなりつつある。加藤さんの論理における「経済」を生涯学習と置き換えても間違いではない時代が到来しつつある。普段は穴埋め記事の多い退屈な日曜版から思いがけずいろいろなことを学んだ一日であった。
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