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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第65号)

発行日:平成17年5月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 2つの「モデルハウス」−2つの「お試しセット」

2. 「学校評議会」のTPO −なぜ「すぐれた学校」に「素人の意見と権限」を入れるのか?−

3. 徒労のアンケート−悪しき「員数主義」、女子学生の質問 『女はなぜ子どもを生まないのか?』

4. ななめ読みの感想−平成17年5月29日日経新聞日曜版−

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

「学校評議会」のTPO −なぜ「すぐれた学校」に「素人の意見と権限」を入れるのか?−

◆ 1 ◆  「常識」の導入

  各地で「学校評議会」制度のモデル研究が始まっている。従来の学校の閉鎖性を打破するためには一つの妙薬であることは間違いない。しかし、薬の効き目はタイミングとさじ加減次第である。すべての学校に「学校評議会」が必要になるわけではない。「効用」がでるかどうかは、学校次第、状況次第である。では、「学校評議会」はどのような状況にとって有効なのか?「学校評議会」にTPOの配慮が問われなければならないとすれば、それはどのような条件下にある学校なのか?学校の選択、教育状況の判断を間違えれば、外部の素人集団の「評議」は逆効果をもたらすのである。

◆ 2 ◆ 両極の典型

  筆者は学校の両極の典型を知っている。一つはどうにもならぬくらい無気力で、怠惰で、閉鎖的で、誰のいうことにも耳を傾けない独善的な学校である。他の一つは、教職員が意欲に燃え、勤勉で、学校に沢山の応援の方々をお招きし、常に実践を外部に開いて評価を受けようとする姿勢を貫いている学校である。当然、社会的に目立つのは後者である。教育行政が頼りにするのも後者である。したがって、新しい実験事業やモデル事業は熱意のある後者の学校に廻ってくる。前者の学校が「モデル事業」を引き受けることは稀である。校長さんががんばって研究指定を取って来ても、職員の不平が増すだけで、時には「袋だたき」にあう。

◆ 3 ◆  「学校評議会」の権限

  「学校評議会」構想は、一般外部の「評議員」に、教育評価はもとより、学校運営の決定権や、時には人事権まで認めている。その意味で「学校評議会」は、従来の学校慣習を根底からひっくり返す革命的なものである。「評議会」は、校長の権限を縮小し、従来、学校運営を超法規的に陰で牛耳って来た「職員会議」の影響力を排除できる。それゆえ、学校再生の一般論としては何も間違ってはいない。アホな校長が停滞の「癌」であることは分かっている。政治イデオロギーで凝り固まった怠惰で身勝手な職員会議が戦後の義務教育を沈滞させて来た多くの事例があることも分かっていることだからである。これらを打破するには学校に「市民の常識」を取り戻すことが不可欠である。それゆえ、「学校評議会」を必要とするのは、「市民の常識」が欠けている学校である。「市民の常識」が打ち破るべきは「閉ざされた学校」であり、「停滞している学校」なのである。市民の意見を必要としているのは、ほとんど研究指定校になったこともない、また、極力、モデル事業の指定を回避しようとしている学校である。当然、教員の意識は沈滞し、子どもの活力−学力は停滞している。しかも、そのような学校は、現状の情報は決して外部には公開しない。残念ながら、保護者の大部分は他校と自校との比較の手段を持たないので学校に対する批判力は皆無に近い。そうした学校は、学校開放もおざなりで、外部との接触も少なく、すべての面で極めて風通しが悪い。多くの場合、教育行政も、校長も、職員会議の意向を聞かなければ重要事項の決定はできない。「学校評議会」の導入は、そのような学校にこそふさわしいのである。断じて、優れた実践に邁進している学校に導入してはならない。理由は以下の通り簡単である。

◆ 4 ◆  「評議会」の有害性

  「学校評議会」は時に諸刃の剣である。「学校評議会」に期待されているのは市民の常識であり、それ以上では無い。市民の常識が機能するのは「停滞している学校」だからである。
  優れた学校は、その「開放性」においても、保護者との交流においても、情報の開示においても、外部評価の導入に付いても、当然「市民の常識」はクリアしている。
  一方、外部の「評議員」の多くは教育の素人であり、教科指導の経験はない。時には地域における少年指導の現場実践も積んではいない。それゆえ、評議員には「市民の常識」以上のものは期待できない。それゆえ、「評議会」が提示する素人の常識で優れた学校の教育実践をかき回してはならない。「優れた学校」が「より優れた学校」になるためには、一層の緻密な教育戦略と指導方法・技量の向上と教員集団の団結とチームワークである。しかし、通常、「評議員」は教育分野における個別の指導方法は分かってはいない。チームティーチングの重要性も体験していない。教育現場の苦労も共にしてはいない。何より子どもとの信頼関係が無い。その素人群に、優れた教育実践を続け、教職員一丸となって日々の指導に励んでいる学校の運営権、人事権まで渡そうというのは、狂気の沙汰である。
  今回は偶然、そのような優れた学校に「学校評議会」を導入するという話を聞いた。メディアを賑わす実験校であればあるほど、「評議会」はかならず使命感に駆られて新しいことを「やりたがる」。そうなればようやく自分達のやり方を見つけて頑張って来た教職員はかならず評議会と衝突する。教育実践に没頭して来た教職員は現場感覚なき議論に疲れ、評議会の「陳腐・凡庸かつ市民の常識を出ない」決定に振り回される。校長の経験やリーダーシップは生かされること無く、意志決定プロセスに屋上屋を架した学校は混乱し、教員は評議会の思い付き提案に振り回され、やがて意欲を無くして行くであろう。残念ながらこの学校に筆者の予想が適中することは疑い無い。
  教育活動が充実していれば、必ず子どもの変容結果が見える。1年間すぐれたプログラムを継続すれば間違いなく子どもの体力は変化する。我慢強さも学力も、規範意識も、発表や表現の力も変容する。現段階で、子どもの変容がはっきりと「向上」を示している学校に「評議会」は全く不要である。
  「学校評議会」が必要なのは、「陳腐・凡庸かつ市民の常識」レベルにすらも達していない学校である。残念なことは、すぐれた学校は少なく、反対に、「市民の常識」に達していない学校は無数にあるのである。
 

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