◆◆ 徒労のアンケート −悪しき「員数主義」 ◆◆
アンケート調査は民主主義における学問の落し子である。生涯学習分野の多くの担当者は、男女共同参画でも、子育て支援でも、ボランティア活動でもアンケート調査をすれば何かが分かると錯覚している。それゆえ行政はアンケート調査に膨大な金と時間をかける。時に、学校教育や子ども会では、子どもにまでアンケート調査を行なう。関心のない人間に関心事項を聞いても答は出ない。興味のない人々にやりたいことを聞いても答は出ない。改革を考えたこともない人々の意見を聞いたところで改革の方向が分かる筈はないのである。まして子どもに教育や学習の目的に関することを聞いて何になるというのか?
民主主義が建て前である以上、人々の意見を聞く事が大事でないと言うつもりはない。しかし、分からない人の意見をいくつ集めても答はでない。特に、子どもの場合、意見を聞いてはならない場合も多い。聞けばそれが「多数決」や「民意」という正義に格上げされてしてしまう。アンケートに反対勢力の意見を取り入れれば、当該事項を実践しない理由がいとも簡単に作れる。それが悪知恵であり、作られた「意識の壁」である。アンケート調査の落し穴がそこにある。
いわゆる「抵抗勢力」の意見を集めて現状改革の方向性を求めても目的が達成できる筈はない。この時、アンケート調査は、民主主義を看板にした単なる「員数主義」に過ぎない。そこから出た意見を集めて政治をすれば、「衆愚政治」と呼ばれる。自治体の多くの施策、なかんずく、男女共同参画も、子育て支援も、前に進まないのはそのためである。
それ故、教育関係者や生涯学習分野で行われる多くのアンケート調査は金と時間の無駄であることが多い。2005年1月6日(木)、日経は全国学長調査の結果を発表した。「株式会社大学を容認するもの」42%、「大学破綻が相次ぐ」と予想するもの89%と一面に見出しが踊った。最も新しい「株式会社大学」を最も古い体質の大学のトップに聞いたところで答は最初から決まっている。新しいものなど認める筈はないのである。「株式会社大学」を認める学長の中でも「内容により認め、私学助成も認めるべき」としたのはわずか13.2パーセントに過ぎない。今頃になって、「大学の破綻が相次ぐ」という予想もいい加減なものである。子どもの数が減っているのに大学定員を拡大して来たのはほかならぬ大学自身である。全入時代がくることは統計的に予測出来たにもかかわらず、大学の定員拡充を認めて来たのはほかならぬ文部行政である。今ではどんな3流大学にも大学院まである。私学も含めて日本の大学は、税金で補助し、税金で運営している以上、大学の破綻は国民の負担で処理しなければならない。その時、教育学はすでに経済学なのである。2005年5月29日(日)には、同じ日経に「少子化と育児支援策についてのアンケート」の結果が紹介された。筆者にとっては質問も月並み、答も月並みの一語に尽きる。調査などやらなくても答の出方は分かっている筈である。もちろん、新聞社は「データ」という名の学問の衣装が必要なのである。少子化の本質は別項「女学生の質問」で書いた通りである。「育児と仕事 両立に壁」などという結論は最初から分かっていることであり、「男の育休で賛否」が分かれることは男社会に聞けば当たり前のことである。男女共同参画の「啓蒙活動が不足している」とか「出産後に再び就職」を女性の半数が望んでいる、とかいう大新聞の見出しは、当たり前で、能が無くて、無知で、恥ずかしくて「風の便り」には書けない。
何度も書いて来たが「抵抗勢力」に聞いても現状打開の方向は見えない。当然、大学に聞いても大学改革の方向は出ない。男支配の文化に満足している「変わりたくない男」に聞いても男女共同参画推進の答は出ない。
女 子 学 生 の 質
問『女はなぜ子どもを生まないのか?』
第24回中・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会の特別企画『子育て支援サミット』のダイアローグの中で会場の女子学生から質問が出された。趣旨は単純明快であった。昔の母は沢山の子どもを生み育てた。今の母は社会が少子化の防止を政策にしなければならない。なぜか?どこに原因があるのか?お二人の町長と一人の教育長、登壇者はいずれも男であった。登壇者の答は、少子化の原因は「コミュニティサポート」の衰退と消滅にある、という一点に収斂した。学生の問いは根源的であったが、登壇者の答は現象的であった。司会者としては進行の判断に迷ったが、彼女の質問の答はそもそもが「複合的」なのでやむを得ず女子学生の不満(だったであろう?)を残したまま先へ進んだ。
筆者がそのように感じた根源的な理由の第1は女性が獲得した「自由」と「選択」の問題である。今の女性が子どもを生まない理由は女の「自由」にもっとも深く関係している。昔の女性はその「自由」を手にしてはいなかった。子どもを生むことは、「選択」の余地のない「義務」であった。「嫁して3年子無きは去る」の文言通り、子どもを生めない女は「離縁」されても抗議はできなかった。文化はそれを「よし」としたのである。
理由の第2は子育ての難事業に関わる。難事業ゆえにその「選択」は女性の意志に関わり、女性の自由に関わる。子どもは「産みの苦しみ」を経て、「手塩にかけて」育てる。育児は 喜びもあるが、苦労も伴う一大事業である。その一大事業の「創業」は女にしかできないのである。したがって、女性がこの一大事業に取り組むか、否か、は「自由」を手にした彼女の出産を促す男と文化と社会の意志に懸かっている。「家事」も「育児」も、大部分を女に背負わせておいて、さらにこの難事業の「創業」に戻れということが果たして「フェア」か?少子化の結果を見れば明らかなように、日本社会はすべての点で「創業者」への配慮が落第である。
理由の第3は「子育て」以外の選択肢の登場である。「職業」から始まって、夫婦生活、あそび、消費にいたるまで、暮らしの中の選択肢は多様になった。「女の自由」と「男の支配と既得権」が衝突すれば、結果は「非婚」であり、「晩婚」であり、「無産」であり、「少産」であり、あるいは「離婚」である。これらの現象を引き起こす具体的な動機や状況は様々であるが、根源には、男が支配して来た社会が、どこまで女性の「自由」と子育ての「難事業」のバランスを保障できるか、否かの問題に帰着する。今や、「筋肉」にものを言わせた労働の時代は終わった。戦争とやくざの社会を除けば「腕力」にものを言わせる時代も終わった。さすがに男社会も「ばか」ではないから、「腕力」にものを言わせたDVやレイプは重大な犯罪であるとようやく規定した。文明は成熟し、女性が人類史を通じて負って来た「筋肉労働」のハンディキャップはほぼ消滅した。女性も自らの自由のために果敢に戦ったが、当然、男社会の発想も変わった。それが「男女共同参画」のスローガンである。しかし、実質的な男女共同参画は進んでいないのである。
理由の第4は社会も、男も、女性の出産・子育てに感謝が足りない。「難事業」と取り組んでいるのに、文句をいわれ、けちを付けられ、評価も、協力もほとんど得られない、というのでは子どもを生む方が「アホ!」というものである。女はそのことに苛立ち、男はそこが分かっていないのである。少なくとも、男社会は出産−育児に対する評価も感謝も形にはしていない。
理由の最後は子育て支援システムの不備である。
日本社会は、相対的に、「年寄り」には膨大な金を使っているが、「育児支援」には金を使っていない。保育所における待機児童は解消していない。全国どこを見ても、幼保一元化は全くといっていいほど進展していない。30年以上も続いている「学童保育」の貧しさを見れば、働く女性の支援とはほど遠い。学校がそっぽを向いた「子どもの居場所」づくりや福岡県の「アンビシャス広場」事業などの効果は問題外である。登壇者が指摘したコミュニティにおける子育てサポートの不在という問題はここで初めて登場する。枝葉末節とは言わないが、少子化の根本原因からは遠いのである。しかし、具体的にはここからしか行政の取り組みは始められない。登壇者の答が引きずられたのはそのためであろう。
|