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「風の便り」(第60号)

発行日:平成16年12月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 『 論 よ り 証 拠 』 総括−壱岐市立霞翠小学校のパイロット事業

2. 『 論 よ り 証 拠 』 総括−壱岐市立霞翠小学校のパイロット事業 (続き)

3. 60号記念小論 『風をつくった男』 宰相小泉純一郎論

4. 60号記念小論 『風をつくった男』 宰相小泉純一郎論 (続き)

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

 ◆ 5 ◆ 教育の「抽象性」を排す  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

  (1)  教育界の「情緒的な言葉」を使わない

  学校は情緒的な言葉を多用しがちである。いわく「生き生きとした子ども」。いわく「豊かな心」。いわく「たくましい身体」。いわく「かがやく瞳」。いわく「わくわくした体験」。いわく「感動する授業」。いわく「主体的な行動」。その他延々とこの種の「形容詞」を組み合わせた叙述がつづく。しかし、これらの美辞麗句は「基準」を示さない限り具体的な意味を持たない。「指標」をもって説明できない限り、「生き生き」の中身も、「たくましい」の中身も具体的にはならない。
  具体的でない説明をいくら並べても、具体的な状況「診断」は出来ない。具体的な状況診断が出来なければ、具体的で、効果的な処方は設定できない。現在の、教育行政が子どもの現状を変える事が出来ないのは目標をいつも「情緒的」な言葉で表現しているからである。学校の努力が実を結ばないのも原因は同じである。多くの教員研修会の発表は、子どもの現状に付いての具体的な診断も処方もなく、情緒的な説明を羅列しているに過ぎない。

  (2)  抽象性の最たる表現が「生きる力」である

  中でも抽象性の最たる表現が教育行政が使用している「生きる力」である。「生きる力」の構成条件を具体的に示さなければ、現場も曖昧な定義のままに「魔法の言葉」として「生きる力」を多用する。あたかもそれを繰り返し唱えていれば、子どもが向上するかのような錯覚さえ持っているのではないかと思うほどである。霞翠小学校では「タフな子ども」を目標としたが、その中身は以下のように規定し、しかも、その具体的達成目標をできるだけ指標化する事に努めた。当然、「タフ」とは「生きる力」と同義である。「タフ」という形容詞の響きの違いは目標の「新鮮味」を狙ったに過ぎない。

  (3)  「タフ」の中身

  学校は「タフ」の中身を明示して目指すべき「子ども像」を具体化した。学校の「子ども像」と指導の方針は簡単な賛否を問う質問紙の形式にして保護者の皆さんのご意見を伺う手だてとして活用した。もちろん、一つ一つの構成条件がなぜ「タフの条件」となるべきかの理由を提示した事は言うまでもない。「タフ」の構成条件は以下の6つである。
  まず、第1は「体力」である。「体力」は「生き物」が生存を続ける為の第一条件である。体力を失った時、人間に限らずすべての生き物は生存できない。
  第2は、「耐性」:「忍耐力」である。基本的に2種類の「耐性」を重視した。「行動耐性」と「欲求不満耐性」である。前者は行動する意志と気力と体力である。後者は、己の欲求をコントロールする「切れない」能力である。両者は社会的動物としての人間が共同で暮らすための最も重要な条件である。忍耐力なくして限られた資源を分け合って暮らす事は出来ない。やりたくなくても責任を果たし、やりたくてもルールに従ってやるのをがまんする事はすべて「耐性」/「忍耐力」のおかげである。
  第3は、「基礎学力」である。学力こそはあらゆる就業の条件であり、社会生活の条件である。その土台が基礎学力である。学校に人々の関心が集まるのはこの一点に尽きると言っても過言ではない。人生の大部分は「労働」で出来ているからである。
  第4は、「道徳的実践力」である。換言すれば、ルールに従う「態度」、規範を守る「行為」を意味する。ルールと規範の遵守こそが社会生活の基本条件となることは言うまでもない。多くの学校が「心を育てる」と言って勘違いしているのはこの条件である。教育は「見えない心」を育てる事は困難である。育てる事ができるのは具体的な「ルールに従う態度」と「規範を守る行為」である。もちろん、「態度」や「行為」が育ったからといって、それをもって「心」が育ったという事は出来ない。人間の心には歴史的に「業」と呼ばれ、「原罪」と呼ばれる数々の欲望が渦巻き、所詮、人間の心の問題は学校教育の手に負えるものではない。この点については従来論じて来たところである。
  第5は、「思いやり」や「やさしさ」の感受性である。これらは道徳的実践力から派生した「価値」である。これらも又、「ゆたかな心」の問題として関心を集めるが、大切なのは情緒的な「思いやり」や「やさしさ」の文言ではない。人権の価値論や親切の思想でもない。指導上の問題は、それらをどのように生活の中の「態度」や「行為」に翻訳するかである。態度や行為だけが具体的に確認でき、具体的に指導の対象にする事ができる。「思いやり」や「やさしさ」の態度や行為が共同生活の「質」を保障する基本条件である事は論を待たない。
  以上の5点が筆者の提案であったが、霞翠小学校の教員集団が協議して、第6番目の条件を付加した。それが「表現力/発表力」である。先生方は「思いやり」や「やさしさ」は「思い」であり、それを「態度」や「行為」に具体化するには、「表現力」が必要であると考えたに違いない。確かに、「表現力」も「発表力」も物事を理解しただけでは身に付かない。人間の態度も、行為も、それらの背景にある思想や感情を日常生活に表現して始めて態度となり、行為となる。表現力こそは、子どもにとって主体的に生き、人間関係を維持する基本条件であると想定したことは、小学校の実践的取り組みを焦点化するにあたって極めて重要なことであった。教育の成果はとりもなおさず発表の成果として現れるからである。朗唱や太鼓や通常授業時の全員参加の発表が外部の訪問者を驚かせるまでに成長した秘密は「表現力」をモデル事業の努力の中心的位置に据えたからに外ならない。

  (4)  子どもの興味/関心/意見/感想を過信しない

  教育は「バランス」である。「さじ加減」と言ってもいい。生物の成長と同じ原理である。成長や発達に必要な要素でも多すぎれば、害をもたらす。少なすぎても害をもたらす。教育や指導に必要な条件でも、すべて「過ぎたるは及ばざるがごとし」である。もちろん、足りなければ、足りない事の結果が出る。その意味から、現代の学校は子ども主義に偏っている。それゆえ、社会の視点が足りない。過剰に子どもの興味/関心/意見/感想を教育・指導の根拠としてはならない。子どもの感想を持って学校の評価としてはならない。多くの子どもは教師の聞きたい事を答えているに過ぎないのである。書いて欲しい事を書いているに過ぎないのである。
  子どもの存在への過信は戦後に導入された「児童中心主義」の為せるわざである。この事はすでに再三指摘して来た。学校は基本的に、保護者から「子ども」を付託され、「一人前」にする役割を負った「守役」である。日本の歴史風土が「子宝」の文化を基盤としている以上、家庭は「子どもの側」に立つ。それゆえ、学校は意識して「社会」の側に立たなければならない。子どもの「主体性」、「自主性」を過大評価してはならないのはそのためである。幼少期に学ぶべき価値や態度は子どもの生れる前からすでに決まっている。それが「価値の先在性」である。子どもの「主体性」は社会が定めた「枠」の中で十分に認めてやればいいのである。

 ◆ 6 ◆ 実践の背景−教育/指導の原則  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

  (1)  教育の3原則

  霞翠小学校の実践の背景は簡明である。以下は教育を考える3原則である。
   「やったことの無いことは出来ない」
   「教わっていないことは分からない」
   「練習していないことは上手には出来ない」

  従って、第1に為すべきことは子どもの活動舞台を準備して励ます。第2は分からない事は分かるように説明する。第3は習得の目標を反復練習することである

  (2)  指導の3原則

  教育において、あらゆる「指導結果」は「中身と方法」の関数である。したがって、指導の第1原則は「中身と方法」を決定することである。「中身と方法」が間違っていれば、結果は出ない。奇妙な事だが、どの学校の実践発表を聞いても、言っている事も、書いている事も似たり寄ったりである。しかし、成果は全く異なっている。なぜか!?恐らく決定的に違うのは、「書いてある事」の実践方法とその実行の「度合い」である。
  それゆえ、指導の第2原則は、「指導」の目標と到達地点を明示して、実践することである。実践方法やその「度合い」が明確でないのは、到達すべき地点を明示できていないからである。どこの学校でも「体験活動」を重視すると言う。どこの学校でも「授業がかなめ」で「あいさつ」が大切と言う。「音読タイム」を設定し、「チャレンジ・タイム」を準備している。しかし、指導結果は天と地ほども異なるのはなぜか!?学校が言っている事が具体的な実効性を伴わぬ「口だけ!!」のことだからである。
  第3の原則は、子どもへの応援と信頼である。教育が定める中身も、方法も、到達地点も、その大部分は子どもの了解を得たものではない。子どもを鍛える為には、時には、厳しい中身、困難な方法に挑戦しなければならない。だから教育の原則は「師弟同行」なのである。子どもに対する最高の応援は先生が一緒にやってくれる事である。最高の信頼は一緒にやってくれる先生からの励ましと評価の言葉である。欠けているのは「師弟同行」である事に現代の学校は気が付いていない。

  (3)  忘れられた「概念」-無視された「体得」

  あらゆる「向上」は「学習」と「体得」に起因する。なかんずく、幼少期の「生きる力」は「体得」に起因する。「体得」の概念が久しく忘れられていたことが日本の教育の不幸である。
  忘れられた理由は、「体得」が「型」を重んじるからである。「型」を重んじるということは、子どもの関心や主体性を軽んじる事に通じているからである。戦後教育が最も重んじたのは個人の思考であり、子どもの興味・関心である。最も拒否したのはこれらを問わない教育である。「型」の指導は子どもの考えは問わない。興味・関心も時には重視しない。子どもの主体性も一定の枠の中でしか認めない。それゆえ、「体得」は故意に忌避され、意図的に忘れられたのである。しかし、子どもが学ぶべき「価値」は子どもに聞くべき事ではない。「価値」は子どもの存在に「先在」しているのである。何を学ばせるか、何を学ぶべきかは子どものうまれる前から決まっているのである。然るに、子どもは「価値」を学び、「型」を学んだ後でその意味を理解するのである。もちろん、「型」の教育には、創造性を抹殺する「型にはまり」、「型通り」に陥る危険が、常に存在することは自覚しておかねばならない。しかし、自分の個性を発現して、ありきたりの「型」を打破する為には、世阿弥が指摘したように、「型より入り」て、しかる後に「型より出ずる」しか方法はない。
  子どもが学ぶべき言語は「文型」である。子どもが身につけるべき作法・礼儀は「態度と行為の型」である。体力・耐性は「行動の型」を保持する力である。協力や責任は「社会生活の基本型」である。親切な行為は「思いやりの型」である。現代の教育、特に、学校教育は理屈と説教に明け暮れて、「型」の習得については捨てて顧みない。子どもが成長しないのは「型」を体得していないからである。

 (4)  「向上」の基本条件は「体力」と「耐性」である

  「向上」の基本条件は「体力」と「耐性」である。この二つを抜きにしては、どんな学び方も成立しない。霞翠小学校の学力が向上したのは子ども達が授業や特別活動に集中し、それらを持続する体力と耐性が向上したからである。表現力も同じである。霞翠の子ども達は圧倒的な迫力で訪問者を驚かせたが、すぐれた表現が猛練習に支えられたことは当然である。猛練習に耐え抜いた子どもの力が体力と耐性にある事も自明であろう。学校の任務は通常「知徳体」の順序で述べられる事が多いが、学力向上の壁を突破するには、「体徳知」の順序で鍛えることが重要である。

 ◆ 7 ◆ 人の世は人が作る−教師集団の質を問う  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

  人の世は人が作る。家族を考えて見れば想像が可能であろう。北朝鮮も、イラクも、アフリカ諸国も、日本も、地域社会も、そして学校も人間の集団が作る。国の善し悪しも、学校の善し悪しも所詮は人が作るものである。ましてほとんどの指導内容と方法を教員が決定する学校においては、指導結果は教員集団の質と活動を反映している。「子は親の鏡」とは、前号に引用したドロシー・ノルトの「名言」であるが、これにならえば、「学校は教員集団の鏡」である。従って、霞翠小学校の成果は教員集団の勝利である。体力の向上も、困難プログラムへの挑戦の成功も、表現の素晴らしさも、学力の向上も、すべて教員集団の理解と団結と努力の成果である。保護者の圧倒的な支持もその大半は、教員集団が獲得したものであった。それゆえ、成功したモデル事業はどのようにその遺産の継承を叫ぼうとも、成果の発展を願おうとも、存続はしない。これらの成果を作り上げた教員集団は転勤によってやがて解体する。解体と共に蓄積したエネルギーも経験則も再び元の木阿弥に返る。残念ながらそれが人の世の宿命である。

 ◆ 8 ◆ それでも「抽象性」は残った  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

  霞翠小は教育活動の目標も結果も指標化しようとした。その努力の大半は達成したがそれでも抽象性は残った。それが「こころ」である。
  「心を耕す」とはなにか?「豊かな心」を育てる中身と方法はなにか?
形のないものの教育効果をどのように測定するのか?子どもの「言葉」、子どもの「思い」と子どもの「態度」や「行為」のギャップを教育は説明できるか。これらの問いに対する答は容易ではない。筆者は、指導の対象となりうるのは「態度」と「行為」である、と割り切っている。
「言葉」と「行為」のギャップを教育は説明できない、と断念している。
読書を続ければ子どもの心が育つとは言えない。条件が整えば、育つ場合もある。育たない場合もある。人権教育を行えば人権尊重の「こころ」が育つと断言する事も出来ない。人権作文にすばらしいことを書いたとしてもそれが子どもの「こころ」だということにはならない。時に、子どもは屈折している。時に、心にもないことをいい、時に、褒められたいだけの一心で、褒められるようなことを書く。現代日本の教育が「こころ」を重視すればするほど、学校は指導方法が分からずに混乱する。筆者の当面の提案は指導を「態度」の形成と「行為」の実践に絞ることである。もとよりそれで「こころ」が育つとは断言出来ない。前号59号の巻頭小論のとおりである。

 ◆ 9 ◆ 学校だけで子どもの「生きる力」は育たない  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

  「教育力」とは「プログラム及びその遂行能力」である。学校には教育力が生まれた。しかし、子どもが学校で生きているのは日常の一部分に過ぎない。この時、家庭や、地域社会に「生きる力のプログラム」はあるだろうか?答は「ほとんどない」である。従って、学校教育の成果は家庭と地域で消滅する可能性は大きい。地域の子育て支援が不可欠になるのはその為である。現代の家庭の教育力は呼び掛けても復活はしない。家庭を責めても、反省する家庭しか反省しない。教室を崩壊させ、授業を妨害するのは、しつけのできていない子どもである。子どもの安全を脅かすのは、耐性と社会性の培われていない子どもである。世間は不審者から子どもを守れというが、真の問題は、問題行動の子どもから真っ当な子どもを守ることである。不幸にも長崎の二つの事件はそれを象徴した。事件の下地は全国に蔓延している。霞翠小学校の実践は地域に支えられて初めて完結する。しかし、地域にそうしたプログラムはない。筆者の研究が『豊津寺子屋』にシフトしなければならない理由がここにある。


**2005年3月9日(水)は霞翠小学校のPTA総会に合わせて、モデル事業最後の子ども達の発表会を行います。堀川薫PTA会長、久田清文校長にお話をして外部の皆様の見学・参加の許可をいただきました。当日、博多中央埠頭発一番の快速船(ヴィーナス)に乗ると発表に間に合うようにプログラムを組んで下さるとお知らせをいただきました。島の早春はまた格別、奮ってご参加下さい。資料の準備もありますので、ご参加の場合は「風の便り」事務局または霞翠小学校kasu12@luck.ocn.ne.jpまでご連絡下さい。
 

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