『 論 よ り 証
拠 』 総括−壱岐市立霞翠小学校のパイロット事業
◆ 1 ◆ 論より証拠 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
1・2年生は「いろはかるた」を諳んじて声高らかに朗唱した。「いー!」、と一人が号令をかけると『犬も歩けば棒にあたる』と続く。「ろー」で、『論より証拠』、「は?」は、『花よりだんご』である。日本文化に蓄積された数々の懐かしい人生観察である。長崎県壱岐市立霞翠小学校は県のモデル事業の指定を受け、3年間に渡って「タフな子どもを」を育てようとして、今、その最終段階にかかった。昨年までは議論と理屈が先行していた。3年目の今年に入って、議論も、理屈も実践が追い抜いた。「タフでありたい」、「タフであるべき」という理屈は、「タフプログラム」の積み上げによって実現した。学校がやろうとしたことは子どもの活動に現れたエネルギーとわざを見れば一目瞭然である。まさに『論より証拠』で証明した。現代の教育にもっとも欠落しているもの、それこそが『論より証拠』のアプローチである。
教育、特に、学校教育は行動を伴わずに喋り過ぎる傾向が強い。子どもはへなへなである。我慢も出来ない。日常の生活習慣も確立していない。靴ひもは結べず、タオルは絞れず、リンゴの皮は剥けず生卵も割れない。このような簡単な技能すらも習得していない。当然、目に見えない集団生活の約束事が身に付いているはずはない。子どもを巡るあらゆる問題は子どもに「生きる力」がないからである。繰り返して論じたとおり、「生きる力」とは抽象的な文言ではない。一に「体力」、二に「耐性」、三に「基礎学力」、四は「道徳的実践力」;ルールに従い、規範を守ることである。五は、やさしさや思いやりの態度と行動である。学力を除けば、すべて机上で学ぶことは出来ない。実践を通して「体得」するしかない。
教育の原則は単純かつ簡明である。「やったことの無いことは出来ない」、「教わっていないことは分からない」、「練習していないことは上手には出来ない」。これだけである。
◆ 2 ◆ 表現と集団行動に現れる「行動耐性」 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
数ある動物の中でも、意志によって集団の行動を律することができるのは人間だけである。それゆえ、子どもの表現活動には彼らの体力と意志が反映される。集団行動には体力とがまんする意志;即ち耐性が反映される。体力と意志の結合は「行動耐性」である。行動にはその行動を行おうとする意志が必要であり、実行するための体力が不可欠である。特に、集団行動においては、個人の意志と体力を決められた一定の「型」の中で統一しなければならない。勝手は許されず、統率を乱せば集団行動にはならない。集団行動の中の個人は自らの意志とエネルギーを制御し、他者の意志とエネルギーに同調させなければならない。発表会当日、筆者は舞台から一番遠いところに席をとった。1年から6年まで、全校児童による「風の又三郎」は地鳴りのような迫力と押し寄せる波のようなリズムを感じた。声は明瞭で、動作も、発声も一糸乱れることがなかった。この時、子ども達は表現と集団行動に不可欠な「行動耐性」を会得したのである。「会得」は「理解」と「体得」の合体である。「風の又三郎」を理解し、その表現を体得している。上級生は下級生を配慮して自制している。下級生は上級生を模範として大いに背伸びしている。しかも、発声のレベルと息をそろえ、振り付けの演技を一糸乱れずに制御している。霞翠小学校はごく普通の学校である。子ども達の潜在能力が特に優れているわけではない。それゆえ、よほどの練習を積まない限り、あれほどの集団演技の迫力やリズムには達しない。上手になろうとする子ども達の意志が不可欠である。
表現力がなければ、テレビを見慣れた観客に感動を伝えることは出来ない。表現は相手に伝わって始めて表現の名に値する。集団演技は相手を揺り動かして初めて表現である。子どもも、教員集団もありありと「観客」を意識している。彼らの舞台は「学芸会」ではなく、「他流試合」であった。見せるために演じ、拍手のために演じたのである。演じ終わった子ども達が直立して、みずから「礼」と言った時、"どうだ!、見たか!"という内面の叫びが聞こえた。私は"見たぞ!"と答えた。観客は惜しみない拍手を送った。ハンカチで目頭を押さえる見学者も散見された。その後に展開されたすべての学年の朗唱や演技も常識的な小学生の基準を遥かに超えていた。子ども達の「圧勝」であった。当然、指導に当たった教員達の「勝ち」であった。両者とも昨年の自分達の水準を遥かに超え、持てる潜在能力を存分に発揮したのである。このように発現した行動耐性が学力や日常の行動規範に反映しないはずはない。体育館の隅でPTAの会長が咳払いをして、胸を張ったのが見えた。嬉しかろう、さもあろう、私は二階のバルコニーの席から遠い拍手を送った。
◆ 3 ◆ 「戦友」の絆 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「にこにこマラソン」は学校が日常的に取り組んで来た体力づくりのプログラムの一つである。マラソンの外に、「シャトルラン」や「サーキットトレーニング」なども行って来た。記録によればこの数年で子ども達の体力は格段に向上し、県や全国の平均値を大きく上回っている。その日、われわれは「にこにこマラソン」の実践を見た。大勢の見学者の目を意識して子どもも教員も高揚したことはもちろんであろうが、それにしても10分間のマラソンは学校の情熱が伝わってくる風景であった。体育主任が全力で疾走するのに並んで全校児童が止ること無く完走した。障害児の学級生も最後まで走った。並走した女教師がなんとも美しく見えた、という感想が見学者の中から聞こえた。同感であった。校長だけが見学者の応接で参加しなかったが、すべての教員が参加していた。それもいい加減な参加でないのは走り方を見ればよく分かる。自分のペースだとは言っても、中年にとって、10分間止らないで走り続けるのは容易なことではない。季節は師走に入ったが、子ども達はもちろん、教員の顔にも汗がひかった。数分前までは授業が続いていた。数分後には朗唱の発表が始まる。子ども集団はきびきびと動いた。教師はほとんど指示を出していない。学校には規範が確立し、子ども達は規範に耐えうる「行動耐性」を獲得しているのである。教師はそれぞれの持ち場で確実に任務を果たしていた。子ども達にも、見学者にもそれがよく見えた筈である。準備から後片付けまで彼らは「戦友の絆」で結ばれていたのである。成果は教員集団が勝ち取ったものであった。今更改めて言うまでもないが、教育の成果は当然、教師次第なのである。
見るべきところは以下のとおりである。
1 子ども達は普通の田舎の小学生である
2 先生方は沢山の指示を出してはいない
3 子ども達は自分の為すべき事を心得、為すべき事を体得している
4 出番でない時間もルールと礼儀に従って待つことができる、聞くことができる、見ることができる
5 あいさつも礼儀作法も習慣化している
6 もちろん、表現すべき素材は理解している
7 表現/演技に耐える体力/耐性の基本は磨かれている
◆ 4 ◆ モデル事業の成果 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
霞翠小学校に関する限り、長崎県は価値あるお金を使ったのである。この事業を思い付いた県教委の課長や実施の許可を与えた教育長や財政担当者にも見せたい発表会であった。箇条書きにするとわずか5項目であるが成果は巨大である。保護者の皆さんは他の子ども達と比較する機会がないので、この学校がどのくらい凄いことを実現したか、実感はないであろう。いつでも、どこでも、親は「井の中の蛙」である。「大海」を見る機会のある教育委員会や教育事務所の職員は、保護者に彼らの子ども達の幸運を伝えるべきであろう。筆者も大海を見て来た。「朝礼」に立てない子ども、50分の授業に集中できない子ども、ルールも規範も守れない子ども、子どものエネルギーを持っていない子どもに比較すれば、霞翠の子どもは抜群であった。成果を箇条書きにすれば以下の通りである。
(1) 体力も、耐性も飛躍的に向上した。
(2) 学力テストの結果は、ほとんどのクラスで県の平均、全国平均を上回った。
(3) 音読/演技の迫力・表現力は観客を圧倒し、涙させるまでに向上した。
(4) 日常の規範意識は態度や行動に翻訳され、「聞く態度」は見事であり、「移動」は迅速であり、授業もその他の活動も「熱意と一生懸命」が伝わって来た。学校生活における活動の規範、学びの「マニュアル」が身に付いて「やるべきこと」を会得している
そのプロセスを多くの方々にお知らせしなければならない。
具体的なデータは、学校が作成した発表資料および研究紀要に譲るが、上記のようにさまざまな点で子どもの能力は向上した。中でも、3年間のモデル事業で子どもの体力は飛躍的に向上した。体育主任を中心にしたおはようマラソン(現在は「にこにこマラソン」)とシャトルランとサーキットトレーニングなどを続けた。年に1回であったが無人島キャンプやゴミを拾いながらの壱岐の島一周「ごみゲッツ」なるイベントにも挑戦した。この間、子どもの体力は測定され、記録された。子ども達自身の変化もさることながら、県の平均や、全国平均と比べても格段の進歩であった。
当然、体力は「体力」だけを鍛えない。走り続けるためには走り続ける「意志」が不可欠である。止めたくても止めない「根性」が必要である。先生方が要求する基準を乗り越える「がんばり」が必要である。体力と耐性は常に2人3脚である。体力の付いた子どもは朝礼も、朗唱も、舞台の順番を待つ間も規範に従って務めることができる。朗唱の発表では身動き一つしない1年から6年までを見た。私語もない。先生方は指示を出していない。しかし、やるべきことは立派にやり、やるべきでないことは決してやらない。子ども達は「行動耐性」・「欲求不満耐性」が「生きる力」の基本であることを証明した。
耐性は日常の行動だけでは明らかには分からない。証明は「挑戦」のプログラムで顕著になる。今回の発表会がその一つであった。昨年の状況に比べれば、著しい向上が認められた。昨年の表現力を1とすれば、今年の舞台は10であった。3泊4日の「壱岐の島一周長距離歩行;ごみゲッツ」も都市部の子ども達をゲストに迎えて見事にやり遂げた。保護者を始め、延べ300人近いボランティアがプログラムを支えた。大人を奮い立たせたのは子どもの気概である。子ども達の挑戦が通常の小学生の基準を遥かに超えた挑戦だったからである。保護者には不安や心配もあったであろう。しかし、結論は、"わが子ながらよくやった!"というのが今の感慨であろう。"子どもながらあっぱれ!"というのが保護者以外のボランティアの感想であったろう。現代の学校は児童/生徒の平均や公平を重んじるあまり、子どもや中学生の潜在能力や可能性を過少評価しすぎてはいないか?記憶力のトレーニングにおいても然り、体力の鍛錬についても然りである。結果的に、出来ることも出来ないままに季節が過ぎて行っていないか?挑戦のときめきを知らないままに季節を生きていないか?
大人はいざ知らず、子どものしらけは退屈と諦めの産物である。
若さ弾ける子どもにとっては、学校の課題は「負荷」も、「挑戦」も不足している。子どもに寄せられる信頼と期待が、彼らの現状の体力や運動能力を超える時、彼らは初めて自分への挑戦を実感する。その時「しらけ」は100%吹っ飛んだことであろう。背伸びしない青春は不幸ではないのか?憧れを持たない日常は退屈ではないのか?自分達にとって「挑戦」となるような課題を得た時、子ども達のしらけが消えるのである。
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