第47回生涯学習フォーラム「この指とまれ」報告
夏休み自然体験プログラムの創造
夏休みが近い。第47回フォーラムは夏休み自然体験プログラムの創造を取り上げた。今回は自然を前面に出した穂波町少年「不便の家」の紹介をいただくことになった。文明が成熟し、便利が常識となった今日では「不便」こそが挑戦のキーワードである。どのような文明に囲まれようと人間は自然的存在である。現代の子どもの脆さはまさに人間の自然性の危機である。文明の利便性が初めて人間の自然性の脅威となった今、子どもは自然の中で自らの自然性を育む所から「生きる力」は出発する。発表は福岡県穂波町教育委員会社会教育課の松原克彦さんにお願いした。発表テーマは「『不便の家』プログラムの思想と方法」である。論文参加は「異年齢少年の活動・合宿・キャンプの目的と方法ー「学んでから活動する」から「活動の中で学ぶ」へー」(三浦清一郎)である。今回の三浦論文は執筆の途中で問題意識と立論の視点を変更したので独立の記事として紹介することにした。
◆ 1 ◆ 「不便の家」の原点
「不便の家」の出発点は昭和32年に設立された「青少年野営訓練所」である。今や、「野営」も、「訓練所」もほとんど死語である。いまだどこも使ったことのない「不便の家」の概念は「野営」と「訓練所」の復活であった。文明の快適さは人々をますます人々を「辛さ」から遠ざけたのである。子宝の風土ではまっ先に子どもが「辛さ」から遠ざかった。多くの保護者も、教育者ですらもそれを「よし」としたのである。かくして、青少年野営訓練所は歴史の表舞台から次第にその存在感を失ったのである。
◆ 2 ◆ 逆転の発想
今や、文明の豊かさ、文明の利便性は少年に敵対している。加えて、地方財政は困窮し、「贅沢施設」の建設は困難である。そこで再び「野営」「訓練所」の構想が逆説的に復活するのである。行政上の施策としては最小限の経費で最大限の効果を上げることである。豊かさと利便性が子どもの「生きる力」を奪っているとすれば、自然の中の「不便性」こそがカギとなる概念となったのである。問題は現代の状況に照らして「不便」とはなにか、についての具体的定義である。何をもって『不便』とするか?不衛生は「不便」には違いないが、現代の基準に照らして許されることではない。したがって、トイレも、炊事施設も整備しなければならない。また、「不便」が事故に繋がっては元も子もない。したがって、子どもを自然に曝すといっても、緊急時の「避難小屋」は不可欠である。そうなると「不便」はプログラムの中で実現するしかない。「火おこし」も、「かまど作り」も、「野外炊飯」も、文明の原点である。これらが工夫の中から人間の生存を確保してきた。さらに「生き物」である子どもの「体力向上のプログラム」は「我慢」と「感動」の原点である。
◆ 3 ◆ 利用の永続性
新しい「不便」の概念はそれなりの新鮮さをもって受入れられ、開所式以来の活用は順調である。しかし、問題はこれからである。「敵」は文明である。最も手強い人間の「欲望」である。欲望が追い求めているのは、「豊さ」であり、「快適さ」であり、「便利さ」である。これらはすべて人間の努力の結晶である。
この世に、「不便」を好み、「困難」を楽しむ人がいるか?いる筈がない。まして子どもを放置すれば、必ず「易き」に流れる。「不便の家」のプログラムは生涯学習の「選択原理」で歯の立つ話ではないのである。社会教育行政に任せる限り、「不便の家」はいずれ立ち枯れ、「青少年野営訓練所」と同じ運命を辿ることになるであろう。活用の永続性を保障する唯一の解決策は学校のカリキュラムに組み込むことである。学校だけがプログラムの「永続性」を保障し、「必修」を保障する。学校だけが価値が分裂した時代の子育ての異論を"封殺"することができる。学校は社会が設定した「守役」だからである。その使命は「一人前」の条件を形成することだからである。「一人前の体力」。「一人前の我慢強さ」、「一人前の責任感と思いやり」こそが学校の達成目標である。しかも、これらの条件が整った上で初めて現代が要求する「学力」を培うことが可能になる。しかし、現代の学校は果たして意図的、意欲的、目的的に少年プログラムの「不便」を選択できるか?それは教員が「不便」を選択することでもある。教員のエネルギーと少年教育の展望が問われるのはまさにこれからである。
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