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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第55号)

発行日:平成16年7月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「経験則」を超える

2. 「保教育」概念の創造

3. 二つの後日談

4. 夏休み自然体験プログラムの創造

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

「経験則」を超える

   生涯学習を巡って、筆者は様々なことを書き、ささやかながら様々な実践を積み重ねてきた。しかし、そこで主張したことの大部分は事物の「論理性」であり、「このようにすれば、次のような結果に至る」であろうという予想である。しかしながら、これらの予想は人間が積み重ねてきた「経験則」の範囲を出るものではなかった。教育研究には、測定や分析に使いうる「単位」がほとんど存在しない。もちろん、人間を一定条件下に置いて制御する教育実験も当然許されない。教育研究が科学になり得ない宿命的限界がそこにある。証拠も実験結果も提出することができないのである。それゆえ、教育論には誰でもが参加できる。証拠を出さなくていいのであれば、論者の数だけ教育論が展開される。結局は何が正しいのか、何が何ゆえに効果的なのか、は論理と経験の範囲で語るしかなく、他の分野のように科学的な証明力・説得力をもたずに今日まで百家争鳴の議論を繰り返してきたのである。

1  指導の条件
   あらゆる指導の基礎条件は「体力」と「耐性」である。この二つが人間の行動を支えるからである。そこから生まれる集中力と持続力を抜きにしては、いかなる学習も練習も可能ではない。はからずもこのことは学級崩壊や授業崩壊の現実が証明した。子どもが教室に座っていられない時、いかなる授業も成立しない。子どもが集中/持続できない時いかなる授業にも身は入らない。それゆえ、対応の処方箋は体力と耐性の回復である。ありがたいことに体力向上の方法は多様であり、様々な側面から指標化と測定が可能である。
   かくして長崎県の壱岐市の霞翠小学校では体力と耐性に焦点化して「タフな子ども」の育成をはじめたのである。筆者は生きる力の構成要素には「順序性」があると主張してきた。第一順位は「体力」、第二順位は「耐性」である。あらゆる生き物は「体力」が尽きた時生存が終わる。生きる為の第1条件は「体力」に決まっているのである。
第2条件が「耐性」であるのは、人間が社会的動物だからである。社会的動物は全体の利益を考慮して折り合いながら共同生活を営む。「万人の万人に対する戦い」という「無政府状態」を回避する為である。制度を作るのは人間だけである。運動会の集団行進に始まり、人間が意志力をもって共同行動を取ることができるのは個々の欲望を抑制する「耐性」が存在するからである。それゆえ、体力と耐性を欠落すれば、あらゆる指導/学習は成立しない。
   幸い、体力の向上は時間や距離の単位に翻訳が可能である。霞翠小学校では、「おはようマラソン」についても、「シャトルラン」もついても、すべて児童の行動能力の変化を記録してきた。「何分間走り続けることができるのか?」、「10分間走ったらどのくらいの距離を駈けたことになるのか?」、現代の車社会で「非日常的な長距離をがんばって歩き通すことができるのか?」「キャンプの自然体験を楽しんでやり抜くことができるか?」などなどであった。
   昨年からは一周50キロを越える壱岐の島を、他の小学校の体育館に泊まりながら、ゴミを拾って歩き通すというプログラムも導入した。これらのことは「指標化」して事前と事後の比較が可能である。モデル校の子ども達は2年数カ月前とくらべれば明らかに記録をとったあらゆる体力分野で進化を続けてきた。「体力」の向上は証明されたと断定してよいであろう。問題は「耐性」である。「耐性」には測定値がない。我慢強さの基準は存在しない。「我慢強くなった」のは何がどのように変わったのか?どのような状況に耐え、どのような条件を抑制できるのか。単位のない世界では常にそのことが問題になる。もちろん、体力にしても耐性にしても、それらがどの程度「直接的」に学力に反映されているかは分らない。しかし、霞翠小の「学力テスト」の結果は向上し、予想以上に上々である。次の目標は学力テストで「C判定」の子どもがいないところまで引き上げようというのだが、最終的には、もって生まれた人間の能力差が立ちはだかることになるであろう。
   もちろん、学校だけの努力の結果が測定値に反映されているか、否かに付いても留意する必要がある。家庭教育の努力も、塾などの教育指導も子どもの中では渾然一体として分かち難い。世の中には本人の発奮と努力だけで飛躍的な進歩を遂げ得る場合もある。「学校ががんばれば子どもが伸びる」というのも相対的な経験則に過ぎない。


2  朗誦と計算力指導の理論的背景
   個人の経験と歴史の実践の中から「素読」は重要な方法であることは論を待たない。しかし、その教育効果の証拠を示せと言われた時、教育学は「経験則」の中でしかものが言えない。特に、「型」から入る教育の方法は子どもが内容を理解しない時、強制的に型通り「詰め込む」ことになる。子どもの理解を越えているものをなぜ無理矢理教え込むのか、という質問に答えることは容易ではない。答のひとつは「子どもの理解を越えているからこそ、『型』を教え込むのである」ということになる。何故なら、子どもの理解できる範囲内でのみ教育が行われれば、子どもが自分の限界をこえることは難しいからである。指導者が「ここまで上がって来い」と無理をいうのは子ども自身の限界を越えるためである。それゆえ、「理解を越えたレベル」への挑戦こそが時に重要なのである。
  もうひとつの理由は「教育の時差」の存在である。朗誦の難しさは、内容のレベルだけに留まらない。その応用時期も、適用の対象も必ずしも法則化はできない。子どもは社会生活の「現場」を有していないのである。学んだ結果は長い時を経て意味が分る時がある。現時点で、分らないことでも、いつかは分るかも知れないのである。教育はいつかは役に立つという前提の上に成り立っている。しかし、その前提を国民が共有することは簡単ではない。筆者が学んだ多くの古典や詩歌は、学んでいた少年の時代には価値が分らなかった。しかし、時を経て今はその価値は分る。教えてもらっていなければ知る由もなかった価値である。
  叩き込んで下さった恩師の方々には感謝のしようがないが、わが子の学校時代にはほとんど消滅した指導方法である。

3   川島教授の研究成果
   東北大学の脳生理学の川島教授の研究成果は朗誦の理論的背景を科学的に証明した。朗誦という教育方法の効果を「経験則」を越えて証明したのである。学問もようやく異分野間連携の時代が来るのであろう。壱岐市の霞翠小学校も、筆者が実践している英会話の暗唱クラスも、佐賀県多久市の論語の朗誦も、福岡県豊津町の「寺子屋」の朗誦プログラムもはじめて経験則をこえる科学的根拠を獲得したのである。川島教授の研究と広島県の小学校で朗誦と計算ドリルの方法で多大な成果を上げている陰山英男先生が出会った。いわゆる「陰山メソッド」が川島理論によって脳生理学的に証明されたのである。また、福岡県大川市の老人施設永寿園の山崎律美さんが川島理論に出会った。子どもの朗誦や計算ドリルが脳の活性化に効果があるのであれば、老人の痴呆予防にも効果があるはずではないか、とお二人は考えたのである。驚くべき結果が報告され始めた。痴呆のお年寄りにおいて、朗誦や計算ドリルの練習が「前頭前野を含む脳全体が活発に働く」ことを証明したのである(*)。痴呆の進行が止り、改善すら見られるようになったのである。寺子屋以来の「素読」の経験則は川島理論によってようやく日の目を見ることになるであろう。川島研究の成果が広がって行けば、早晩、経験則を無視してきた「詰め込み」教育批判も声を潜めるであろう。
   朗誦に限って言えば、戦後教育の誤謬を訂正するのに50年以上の歳月を要したのである。
  筆者が関わってきた実践のなかで、佐賀県多久市は11月20日(土)に保育園児と小学校児童による論語朗誦の発表を行う(「文化芸術による創造のまち」フォーラムin多久と第51回生涯学習フォーラムin多久の合同事業である)。また、長崎県壱岐市の霞翠小学校は、「タフな子どもを育てる」長崎県モデル事業の一環として朗誦の発表会を12月1日(水)に予定している。1年生から6年生まで全学年が、先生方が選択した日本語の基礎教養を暗唱して、保護者や教育関係者の前で発表する。暗唱は言葉を記憶しているだけではない。彼らの発表は彼らの表現である。記憶の素晴らしさにおいて子どもの時期に優る季節はない。鍛えられた子どもは、おのれの日本語におのれの感情を移入しての表情豊かに表現するはずである。子ども達は木々のように整列し、声張り上げて日本語の「粋」を披露する。大人ですら歯が立たないようなレベルを朗々と語って、保護者の胸に迫るはずである。表現力は子どもの「生きる力」の最終目標である。「タフ事業」を通して、体力も、耐性も向上した。学力も着実に向上している。それらの相乗効果が表現と発表の力となってあらわれる。採用した教育方法は江戸時代の素読と同じ原理の朗誦である。朗誦の中身は、多久市の場合も、壱岐市の場合も、通常の保育所や小学校児童のレベルを遥かに越えている。しかし、子どもの学ぶ力の可能性はそのレベルを軽々と越えるであろう。陰山英男先生が指摘する通り、子どもは「記憶力の旬」の季節に生きているのである。発達の跳躍台に立っているのである。現代、子どもの権利を保障するとは、まず子どもの学習を保障することであろう。学習を保障するとは「学力」を向上させることである。陰山メソッドも、川島理論も、朗誦や計算ドリルの重要性を明らかにしつつある。教育的に「不利な条件におかれた(Educatinally Hanndicapped)子ども」こそ新しい方法に挑戦させるべきである。これまでのやり方では効果が上がらなかったことは明らかである。学力を付ける努力を抜きにして、子どもの人権の保障はない。学校はそのことを厳しく自らに言い聞かせるべきであろう。

*  川島隆太、山崎律美、痴呆に挑む、くもん出版、2004年、p.35


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