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生涯学習通信

「風の便り」(第55号)

発行日:平成16年7月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「経験則」を超える

2. 「保教育」概念の創造

3. 二つの後日談

4. 夏休み自然体験プログラムの創造

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

「保教育」概念の創造


1  概念の固定化と事業機能の限定
  「保教育」とは保育と教育を融合した概念である。これからの「子育て支援」には不可欠の概念である。第47回生涯学習フォーラムの企画委員会で福岡県穂波町の森本教育長から提出された疑念を概念化すれば「保教育」としか言い様がない。
  森本提案は以下の通りであった。
  現在の行政システムの縦割り分業の中で、教育行政はもとより、福祉も、男女共同参画も、諸事業の対象と機能は明確にその範囲が限定されている。したがって、現実の課題が事業機能の統合を必要としている場合でも、行政分野ごとに事業概念が固定化されているため、具体的な必要課題に柔軟に対応することはできない。例えば、「青少年健全育成」概念には幼児は含まれていない。それゆえ、青少年健全育成団体には、通常、保育の発想は皆無である。逆に、「子育て支援」は通常、「乳幼児の保育」を主眼としている。それゆえ、社会教育のいう学童期の少年の活動プログラムからは「保育」の概念が分離されている。一方、「学童保育」は「保育」概念に限定している為、「学童保育」の発想からは教育活動の意義と重要性の視点が抜け落ちるのである。法律を準備した担当者が「学童保育」概念の「不十分性」に気付いたのであろう、児童福祉法(第6条)では「学童保育」を「放課後児童健全育成事業」という内容・対象、時期などが具体的に理解できる総合的な表現に置き換えている。法律の立案者は「学童保育」の実施者以上に先見の明を有している。学童保育には「保育」と「健全育成」の二つの機能を同時に進行させ、保育と教育を融合した新しい概念が必要なことを自覚していたはずである。それが「保教育」の概念である。もちろんその意味するところは、「保育」も、「教育」もである。行政の縦割りは対象と機能を専門的に引き受ける分業の結果であるが、それが固定すると本来総合的に行うべき事業が分断されてしまう。分断は事業に留まらず、森本氏の指摘のように概念まで分断して新しい統合の妨げになっているのである。
  行政における幼保一元化は当然の帰結である。すでに指摘したことであるが、もとより幼児期の保育と教育をわける論理はない。保育は必然的に教育であり、幼児期の教育は必然的に保育を含まざるを得ない。幼児期の保育と教育を分離したのは、単純に行政の縄張り意識の為せるわざに過ぎない。ひとたび行政の分業が起った時、担当部局がそれぞれの任務と機能を固定化して縄張りになったという一点に尽きる。学童保育に教育プログラムを組み合わせることができないのはまことに愚かなことであるが、妨げになっているのはそれが「保育」概念で括られているからである。「保育」概念にこだわって、教育を排除すれば、子ども達が集まっても教育活動のプログラムは導入できない。保育の担当者の言い分は自分達は教育の指導者ではないという理屈であろう。一方、社会教育の青少年プログラムの多くは逆に「保育」の重要性を無視している。それゆえ、活動の多くは活動の教育的側面にのみ重点が置かれ、年齢別、学年別能力別編成のメニューが圧倒的に多い。概念の固定化はプログラムの融合を阻んでいるのである。

2  「豊津寺子屋」の「保教育」概念
(1) 社会生活の予行演習は保育と教育の融合
   福岡県京都郡豊津町が開始した現代の「寺子屋」活動は通常の子ども会活動に似ている。小学校の学年制を反映しているので1年生から6年生までの混合編成である。1年生と6年生の体力差、知力差、経験・体験の差は極めて大きい。子ども会と同じく指導者は一般人である。指導上の専門的トレーニングは受けていない。したがって、個別の活動の指導経験はもとより、合宿、キャンプの知識・技能・経験は必ずしも有していない。さらに教科教育/知育を主流とする学校教育とは子どものグループ編成の方法が根本的に異なっている。学校が同年齢集団の編成であるのに比して、寺子屋も子ども会もその基本は異年齢の集団編成である。異年齢集団の活動には体系的、連続的な知育のカリキュラムは適用できない。学校のような専門家も不在であり、特定レベルに合わせた教科書・指導書もない。したがって、指導の目的も、方法も、成果も個々の子どもと指導者の力量によって制約される。しかし、このような状況こそが社会生活の実態にもっとも近い。お互いに協力し、お互いに助け合わないと活動は成立しない。結果的に、そこで行われる活動は社会生活の「予行演習」になる。子どもにとって異年齢集団体験の重要性はそこにある。指導者の側から見れば、諸活動は「保育」でもあり、同時に「教育」でもある。二つの概念を融合させて指導しない限り1年から6年までが同時に存在する活動は進行できないのである。

(2) 異質集団への適応
   異年齢集団は同時に異質集団である。1年生と6年生とではあらゆる面で異なる。様々に異なった少年達が同一種類の活動を行う時、当然様々なギャップが生じ、通常、同一歩調、同一レベルの行動は困難である。したがって、異質集団への適応とは、「資質・能力・経験の異なる子ども達がその違いを乗り越えて共同活動ができること」である。異年齢集団の子どもの活動が社会生活の予行演習になるのは、集団構成員の資質が大きく異なっているからである。社会はまさに異年齢はもとよりあらゆる面において異質の人々によって構成される集団である。様々な「違い」があるにも関わらず共同生活ができるのは、人々がその「違い」を相補うからである。子どもも同じである。将来の社会生活への適応力を付けるためには、子ども達はまずそれぞれの「異質性」を実感し、体得しなければならない。上級生のできることでも下級生はできない。上級生はやったことがあっても下級生はやったことが無い。指導がすぐれていれば、異質性は共存の努力に変わる。上級生は手加減し、下級生は上級生をモデルとして背伸びする。上級生は下級生以上に働き、下級生は自分の力量を越えて働く。いたわりも、寛容も、尊敬も、憧れも、面倒見の良さも、モデリング熱意も、こうしたプロセスから生まれる。もちろん、いいことばかりが生まれるわけではない。威嚇も、苛めも、恐怖も、不安も、過剰な支配も、過剰な依存も生まれる。それらのバランスを取るのが指導者の役割である。

(3) 「いたわり」と「あこがれ」?「手加減」と「背伸び」
   異年齢集団の「異質性」は行動を律する心身の力量の相違に最も顕著にあらわれる。あらゆる活動において、上級生の力は明らかである。下級生の力不足も明らかである。そこから上級生は「いたわり」や「手加減」を学ぶ機会を見い出す。力量の違いが明らかな時、指導者の方向付けで上級生は自分の位置も、役割も容易に理解することができる。特に、下級生が憧れと尊敬を示して彼等に頼った時、上級生は子どもながらも小さな保護者・指導者に変身する。それゆえ、異年齢集団においては意図的、目的的に上級生による下級生の指導や世話をプログラム化することが重要である。プログラムの中で上級生は己が果たすべき「役割演技」の舞台を獲得するのである。
   下級生は基本的に上級生の逆のプログラムが必要になる。指導者は下級生を前に上級生の実力を例示し、説明し、諸活動において彼等が「手本」として憧れ、モデルとして「背伸びして」学ぶべきことを促さねばならない。子ども会などにいう「ジュニア・リーダー」の感覚と姿勢は、いわゆる教室の机上で行う「ジュニア・リーダー研修会」では育成できない。上級生がリーダーとなるのは、唯一、自分自身の指導体験、リーダー体験を通してのことである。異年齢集団が共通の活動を行う時、上級生は力量において劣っている下級生から頼られ、下級生の面倒を見なければならない。心情的には下級生の「憧れ」が上級生に伝わる。上級生が弱者に対する「いたわり」と惻隠の情を感じた時、初めて「保護者」の体験を味わう。下級生がいて上級生がいて、指導とモデリング(模倣)のプログラムが与えられた時、上級生の「いたわり」と下級生の「憧れ」が組み合わさって、初めて上級生は「ジュニア・リーダー」になるのである。

(4) 年齢混合の班別編成の重要性
   異年齢集団における具体的な活動においては、上級生がいて下級生がいる。年齢の違いは発達段階の違いである。発達段階の違いは当然、体力、知力その他諸々の子どもの能力の違いとなって現れる。能力の違い、発達段階の違いこそが異年齢集団の最大の特徴である。それゆえ、寺子屋や子ども会を年齢別、学年別に編成すること程もったいないことはない。異年齢の特性を生かした活動こそが社会生活の「予行演習」を意味するからである。寺子屋も、子ども会も、グループ編成にあたっては、上級生と下級生を一定の人数で組み合わせることが重要である。グループのまとまり、グループ内のコミュニケーションの密度、課題遂行能力を考えれば、班編成は6〜7名ぐらいが望ましい。活動の目的、内容や方法の特性を考慮して、大きなグループや小さなグループ、または固定的なグループや臨時的なグループなど弾力的に運用すればいい。しかし、基本となる班別編成は子どものネットワークを形成する基本であるから固定することが望ましい。夙に、社会学者が明らかにしたように、「第一次集団」の強固な心情的つながりは擬似家族のような連帯と共感を育むことができるからである。

 (5)   体験プログラムの領域
   教室の学習に教科の領域があるように、子ども集団の活動には実現すべき目的にそった活動の領域がある。読み書きを学ぶためには、「国語」が必要であり、計算力の習得には「算数」が必要である。「体得」の場合も原則は同じである。協力の態度を学ぶためには、「協力体験」が必要である。耐性や体力の向上のためには困難な課題に挑戦する「困難体験」が必要である。自発性のトレーニングには自分で企画し、自分で執行し、課題を達成する体験が必要である。
   異年齢集団は知的/体力的発達段階が大いに異なる。それゆえ、知識や概念や関係を学ぶには適していない。学校教育が学年制を採用し、その上、「習熟度別学習」を導入するのは心身のレベルが異なった学習者に「脳」を中心とした「学習」を行うのはほとんど不可能だからである。体験プログラムの領域は活動の目的、体得すべき目標によって決定する。学ぶべきことは知的学習に限定しない。そこでは異質との付き合い方を体得するのである。どこに「いたわり」の舞台を設定するか、どこに上級生の指導を設定するか?当初の企画が重要になる所以である。

(6)  「保教育」現場の活動指導
    −OJT(On The Job Training):「現場訓練」 の原理−
  学校教育の児童・生徒には原則として「現場」はない。彼らが未だ子どもだからである。加えて、学校は閉鎖的な環境である。したがって、論理が先行し、概念が先行し、机上の知識が先行する。学校の「頭でっかち」はある程度やむを得ないことなのである。
   しかし、生涯学習の場合は現場を創造しながら学ぶことができる。企業が行うOJTの原理と同じである。OJTの特徴は、仕事の中で学ぶことにある。したがって、学ぶ者に学ぶ動機が強烈である。学ぶ者は、学ばねばならない具体的な課題に直面している。現場で学んだことはすぐに応用して学習や体得結果の検証が可能である。特に、「保育」と「教育」の機能が同時に進行する異年齢集団において、子どもが学ぶということの原理はOJTと同じである。集団活動の中で、学ばなければならない「状況を作り」、学ぶことの「必要を感じさせ」、学んだことの「応用・検証を行う」ことができる。具体的な課題を示しながら、強烈な動機付けも可能になる。
  にもかかわらず、従来の生涯学習/生涯学習に関わる研修は学校教育の影響を受けて、学ぶ論理や必要が逆立ちしている。ほとんどの研修プログラムは「現場」を持っていない。順序的に、プログラムは、「学んでから」「行動に移る」ように設計されている。「高齢者大学」を受講してその成果を社会に還元しようという発想がその典型である。「ジュニア・リーダー」の養成コースを終わってから後輩の指導をしよう、という発想も同じである。以下、ボランティアの養成コースにしても、社会教育職員の研修にしても、研修があって、実践があるはずだという想定の下に構想されている。しかし、現実には、研修が終わって何人が学んだことを実践に移すであろうか?学習者は実践の必要動機を有していないのである。
   高齢者大学受講者の社会還元はほぼゼロに近いであろう。ジュニア・リーダーの研修が機能していないことも明らかであろう。ボランティア研修でボランティア活動が盛んになればこんな簡単なことはないが、そのようなことはあった試しがない。行政研修の多くは金とエネルギーと時間の無駄に過ぎない。
  表現が上手にできるようになるためには表現の実践の中でその原理を体得しなければならない。司会が上手になるためには司会の現場で原理とコツを会得しなければならない。実践に関わることはすべて同じである。教育行政においても、大学の研究者が理屈だけこねて、実務ができないのは「やったことがない」からであり、実務を見下して「やる意志がない」からである。実践は研究を進化させる。実務は原理の検証を必要とする。実務現場と研究室の相互乗り入れが不可欠なのはそのためである。現場との交流が多いアメリカなどに比して、日本の大学の教育研究システムが成果を上げられないのは、終身雇用制度に守られて、研究者が現場との職業上の相互乗り入れを行っていないからである。
  従来の学校教育型の研修には典型的に学ぶ動機が不在である。児童も生徒も、学ばねばならない具体的な課題に直面していない。研修生も同様である。問題解決能力は実践の中で身に付けるところが圧倒的に多いのに、多くの研修は具体的な課題意識を持っていない。「やったことのないことはできない」というのは「体得」という学び方の原則である。概念や知識を主体とする「脳の学習」だけでは実践力は身に付かない。学校教育の本質的欠陥がここにあり、その悪影響が生涯学習現場の研修構想にまで及んでいる。「畳の上の水練」で泳げるようにはならないのである。
  知的なトレーニングを重ねても、本人は実践上の「火事場」の緊張感を有してはいない。仕事の締切りの切迫感にも当面していない。机上の訓練や学習が効果を発揮しないのはそのためである。上級生も、下級生も、やったことのないことはできない。練習を積んでいないことは上手にはできない。何よりも課題に直面していなければ何をどのように学ぶべきかが分るはずはない。異年齢集団の活動は、上級生に力の足りない下級生への「いたわり」の必要をつきつける。逆に、下級生には、おのれの力不足と限界を付きつける。そこから力量においてすぐれている上級生への憧れも、学ぶ意欲も、課題意識も生まれてくる。異年齢集団における少年の「保教育」は子どものOJTなのである。
 

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