教育行政の面従腹背
筆者は日本のシステムの構造改革を支持している。改革のスピードの遅さに苛々している。技術が変わり、生産やサービスのシステムが変わり、人口構造が変わり、日本がおかれた国際環境が変わったのに、教育や生涯学習のやり方は昔のままであることが多い。学校はその典型である。これまでの教育システム、今までの教員、これまでの方法や中身でこれからの日本が成り立つはずはないのである。
しかし、構造改革が必要だとしても分野の足並みはそろわない。筆者の思い過ごしであれば幸いだが、教育界の改革スピードは意図的に遅い。大学教育分野の改革は自分自身がしくじった苦い経験がある。夜間開講制も、サマースクール制も、留学生の全面受け入れも、論文を書かない教員の受け入れも、学生による教員評価の公表も、人事への反映も、産学共同によるインターンシップの導入も、生涯学習キャンパスの創造も、教員の契約雇用も、すべて賛成は得られなかったのである。
■ 1 ■ 教育特区の革命
生涯学習の改革を怠れば、高齢社会の熟年の生きる力は保持出来ない。子育て支援の活動プログラムも創出できない。福祉と生涯学習を融合させなければ、介護予防や子育て支援の実質的効果は期待出来ない。結果的に、女性の社会参画条件を保障する事もできない。教育は日本人の考え方、生活のスタイルを変えるのである。教育改革を断行しなければ、経済はもとより、福祉も、文化も、研究も、恐らくは日本人自身の質も世界とは太刀打ち出来ない。
既得権を有する抵抗勢力が改革の妨害をするが、少しずつ時代は進んでいる。突破口は構造改革特区にある。しかし、その特区構想においてすら障碍は余りにも明らかである。
このたび株式会社立の学校が全国に3校誕生した。高等教育部門では、ITやデジタルコンテンツの専門家を育てるデジタル大学院大学が設立された。これも株式会社立である。
問題はそれらに対する運営上の極めて差別的な処遇である。教育行政は自分達が管理監督して来た公立及び私立学校の既得権だけを守ろうとしていないか?公立、私立の学校が、「会社立」の学校に太刀打ち出来ないことを恐れて敢えて公平な条件を作ろうとしていないのではないか?株式会社立の学校に対する極めて不公平な処遇は、基本的に文科省のサボタージュであると言われても仕方があるまい。教育行政は己自身の改革をすすめるためにも正当な競争から逃げてはならない。公立も私立も財政的に国家の支援・保護を受けている。株式会社立の学校だけが国家の保護を受けていない。小中学校であれば、どの学校も、形態は異なっても義務教育の一端をになっている。株式会社立の学校もなんら変わりなく、責任と役割は同じである。なぜ、公私立の学校は同じ土俵で株式会社立の学校と勝負しないのか?なぜ私学協会はこの不公平な処遇に沈黙しているのか?誠にアンフェアーである。教育の中身と方法で競って、なぜ優れた学校を国民・保護者に選ばせようとはしないのか?
同じ義務教育をになう学校でありながら株式会社立の学校が私学助成を受けられないのはなぜか?同じく他の私学と同じように税制上の優遇措置を受けられないのはなぜか?もし、現行法に制約があるのならなぜ学校の設立だけを認めて、法律の方は特例を認めたり、改正の努力をしようとしないのか?教育行政は株式会社立の学校の失敗を願っているのか?教育行政の担当者は、これらの疑問に公の場で明確に答えるべきである。
■ 2 ■ 新しい教育には 新しい基準を
教育の構造改革は、一方で、政治判断である特区構想を認めながら、他方で行政上の差別的処遇を改めようとしない。政治の指示に従うべき行政でありながら教育行政は政府の方針に面従腹背している。同じ税金を払って、子どもを株式会社立の学校へ行かせている保護者に何と説明できるのか?デジタルハリウッド社長の藤本氏は言う。デジタルハリウッド大学院大学は「業務上の実績を有する実務家教員だけで組織している。にもかかわらず、なぜ教員審査の基準は研究業績の論文なのか?」「私立大学の経営を支えている学生と親が望んでいることは、学生が希望する職業につく事である」。「教員を一流の研究者に育てる事ではない」。「大学設置審議会の構成見直し、研究者以外の外部人材を入れて」「顧客志向を意識化すべきである」(筆者要約:日経、'04年6月26日)。大学審査の現状は藤本氏の指摘の通りである。大学紀要などにあらわれる粗雑な論文を何十本書いたところで学校の質も、教育の質も変わらないのである。
さらに最近の新聞報道によって知ったが、株式会社立の学校の職員は私立学校共済組合に加入出来ない。株式会社立の学校は「私立学校」ではないのか?共済組合に入れないという決定を下しているのはだれか?それは競争相手の株式会社立学校を閉め出すためか?これらの疑問には、恐らく誰も答えずに黙殺が続くのであろう。口を噤んで都合の悪い時間が過ぎるのを待っているのである。改めて「日本人の敵は日本人」であることを実感せざるを得ない。 |