子どもの復讐
−なぜ人間の中の「悪」を教えないのか?−
またまた少年の残虐犯罪である。「風の便り」43号に長崎の幼児殺害事件の感想「潜在光景」を書き、45号に「『業』と『原罪』ー人間性の未知と教育の限界ー」を書いた。人間の「業」や「原罪」を野放しにすれば、小学校の同級生が同級生を切り殺しても、中学生が告げ口を恐れて、幼児を高所から突き落としても、夜中に徘徊している高校生が何者かに殺されても特に驚きはしない。筆者の感想の要点は以下の通りである。
1 「教育の抑止力」再考
人間は未だに未知である。DNAの構造が科学的に解き明かされる現在でも、欲望や精神の領域はほとんどが未知に属する。人間のことが人間自身に良く分からないところがある以上、社会が対処できるものと、対処できないものがあるのは、当然のことである。教育に関して言えば、肉体を鍛えて、体力を向上させることはできる。道徳律を教える事も、法律の処罰を伝えることもできる。世の中の規範を教え、困難なプログラムを与えて我慢させる事もできる。やさしさや思いやりの心をボランティアのプログラムに翻訳して体験させる事もできる。
しかし、すべての努力を尽くしても、人の道や世の中の規範をどこまで内面化できるかは依然として不明である。不明であっても目指すべき方向に向かって努力を続けなければならない。それが教育の宿命である。
2 なぜ人間の中の「悪」を教えないのか?
人間の欲求や性癖は簡単には制御できない。仏教はそれを人の『業』と呼んだ。大晦日に百八つの鐘を突くのは人の煩悩を払うためだと云う。百八つの煩悩があるというのである。毎年、毎年それを行なうのは、人は『業』から逃げることはできない、ということを意味している。同じようなことをキリスト教は人間の「原罪」と呼んだ。要するに、人は生まれながらに邪悪欲望を背負った罪人なのである。これらは神や仏の領域である。宗教的努力を何千年も続けて来ていまだ人間の「悪」はほとんど解決できていない。およそ教育などの歯の立つ話ではないのである。教育は人間の中の「悪」について教えるべきである。世間も自分の中の「悪」を棚に上げて、さも知らなかったかのように、少年犯罪に驚いてみせるベきではない。
3 教育努力の方向
戦後教育における努力の方向が間違っている。教育は「命の大切さ」だけを教えず、人間の悪を教えるべきである。「自分の命」の大切さを教えず、「他者の命」の大切さを教えるべきである。人権を教えるなら「他者の人権」を教え、社会的義務の遂行が先である事を教えるべきであった。戦後教育は規律を教えず、道徳を教えず、社会的義務を教えず、人権や命の大切さは「自分」を中心にしか教えて来なかった。
人間はそもそもが自己中心的にできている。それが「存在の個体性」である。痛いのも、辛いのも、悲しいのも、うれしいのも、己の肉体、人間の個体の感覚に頼って理解するしかない。当然、「命の大切さ」を教えれば、自分の命だけを大切に思う人間ができる。人権を教えれば自分の人権だけを考える子どもが育つ。他者の権利はぼろのごとく捨てて顧みない。人間は「自分を先」に置くことしかできないのである。古来、日本人が喝破したとおり、「人の痛いのなら3年でも辛抱できる」のである。見渡せば、現状こそが戦後教育の成果(!?)である。
4 「耐性」教育の欠如
「業」も「原罪」も人間の「欲望」の別名である。欲望にブレーキをかけるのは歴史的に、宗教による禁止と法律による処罰と教育の教えと個人の耐性であった。教育が育てるべきブレーキは「耐性」である。耐性は「行動耐性」や「欲求不満耐性」に分類される。「やりたくてもやらない」、「やりたくなくても我慢してやる」ことができるのは、個人に「耐性」が備わっているからである。「耐性」は困難に耐え抜く鍛錬によってしか形成されない。人生の欲求不満にたえるだけの能力を備えるためには、多くの「欲求不満」、多くの困難、多くの挫折や失敗を耐えぬかねばならない。鍛錬プログラムとは「困難プログラム」の別名である。幼稚な少年犯罪は「命の大切さ」が分かっていないから起ったのではない。己の感情や欲求を押さえる耐性の欠如が深く関係しているはずである。規律に従えないのも、義務を遂行できないのも、すぐに切れたり、欲求のままに振る舞うのは基本的に耐性の欠如が原因である。戦後の子育ても戦後の教育も過剰な保護が支配した。鍛錬という表現だけで教員は反発した。そのつけが廻って来たのである。ブレーキの聞かない欲望は「業」や「原罪」を野放しにすることである。自分の人権だけが大切な子どもが感情の赴くままに残虐な犯罪を犯しても今更驚く事はないのである。
5 教育の為すべき事
教育の為すべき事は二つある。第1は耐性を鍛える事である。第2は人間の悪を教え、他者の人権だけを教え、他人に「迷惑をかけるな」ということだけを教えることである。少年の犯罪が起る度にメディアにせっつかれた教育界は「命の大切さ」を合唱する。人間は自分の命の大切さは基本的に知っている。水に放り込めば必死にもがいて助かろうとする。生きようとするのは肉体の本能である。追い詰められて自殺をするものもいるが、それは耐性が欠如しているか、精神の病いが原因であろう。根性が足りない時は根性を鍛えるしかない、耐性が欠如している時は、我慢の教育を与えるしかないのである。気鬱や精神を病んで死ぬ場合は、「命の大切さ」を教えたところで防ぐ事はできまい。
もちろん、すべてを承知の上で、覚悟の自殺を遂げる時もある。覚悟の自殺は「生きた」のであって、「死んだ」のではない。自分の生き方を貫いたという事である。人間の命が肉体の存続だけではない、という前提に立てば、「覚悟の死」は必ずしも命を粗末にしたという事にはならない。「切腹」以来、「恥の文化」の命ずるところでもある。
他の方々はいざ知らず筆者は屈折した少年であった。多くの少年犯罪者と同じように「悪」も様々に想像した。実行しなかったのは、処罰が割にあわない、という判断、社会的トレーニングが作り上げた我慢のブレーキ、親が哀しむだろうという思い、後は偶然ながら完全犯罪の機会がなかった等々の組み合わせの結果である。 ■ |