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「風の便り」(第52号)

発行日:平成16年4月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「学力」を巡る自問自答/学力の周辺

2. 地方政治の2大条件:「介護の社会化」による財政破綻と「養育の社会化」の欠如に伴う「少子化」の進行

3. 変化は「飛躍」する:「アンケート調査」の修正

4. 定年者の「地域帰還」歓迎オリエンテーション−新入生歓迎クラブ説明会のように!−

5. 第45回生涯学習フォーラム報告:「学力」とはなにか?「学力」向上の方法とはなにか?

6. お知らせ&編集後記

「学力」を巡る自問自答

 

1  「学力」の構造:「学力」の構成要素−学力テストで測定したものが当面の「学力」である−
   「学力」には様々な要素が含まれている。知識も、技能も、応用力も、批判力も、表現力も、時には、創造力も「学力」の内だという。また、「学力」は「基礎・基本」が重要であるという。それゆえ、「学力」には「基礎・基本」と「基礎・基本以外のもの」がある、ということになる。それゆえ、何を重視するか、どこを見るかで「学力」の定義は分裂する。しかし、世間が「学力」に注目するのは、学力テストの点数が下がったからであろう。テストが子どもの能力あるいは学力のすべてを測れないということは誰もが知っている。しかし、学力テストに現れた学力が学力の一部であることもまた、誰もが知っている。したがって、当面の心配は学力テスト結果の低下である。学力テストで測定されたものはたとえ「学力」の全部ではなくても「学力」であることに間違いはない。能力の全部ではなくても、その一部であることは否定できない。2002年全国の小中学校で学力テストが実施された。以後、個々に様々なテストが行なわれている。結果は、10年前より成績が低下している。1999年の「ゆとり教育」の導入は失敗ではなかったのか?「生活科」や「総合的学習」は「生きる力」の向上を目的に導入されたが、「生きる力」は向上しているのか?「生きる力」と「学力」はどんな関係にあるのか?学校は「学力」養成の専門機関ではなかったのか?小学校で問われる「学力」と、上級学校で問われる「学力」を同じように論じてもいいのか?「2002年度からの新学習指導要領の廃止を求める国民会議」も発足している。当面の疑問は「学力」の定義、その構成要素の分析から始まる。
 

 

2  「学力」定義の分裂

  ある人はペーパーテストで測れる程度のものは「学力」ではない、という。例えば、町野は「学力がつくこととペーパーテストの点がとれるのは似て非なるもの」である、という。それゆえ、塾の勉強は「学科上の知識や情報の総量が増え、実践的ドリル力がついてきただけの話で知の質量にかかわるものではない」(*1)、ともいう。残念ながら町野の説明には、「知の質量に関わる学力」の定義はない。同じように、小宮山は「みかけの学力」という概念を使う。「みかけの学力」は「質問の答を出せる」だけで、「考える力」、「創造する力」が入っていないと言う(*2)。しかし、小宮山は「質問」の「質」を疑ってはいない。そもそも「考える力」や「創造力」を測るテストや測定が可能か、否かも疑っていない。
  野口も中山治氏の「親子でのばす学習戦略(宝島社、1995年)」を引いて、「学力」と「得点力」は異なるという趣旨のことを書いている(*3)。通常の試験で測定できる「学力」には「批判力」、「応用力」、「創造力」などを含めることは難しいという意味であろう。また、野口は学力とは「重要なことに集中できる能力」である(*4)と言っているので、「学力の対象」には「重要なもの」と「そうでないもの」があると考えているはずである。そこから野口の『「超」勉強法』なる書物が生まれる。
  これに対して陰山は、「学力が上がれば表現力、創造力が拡大する」、と言っている(*5)。文脈から明らかなように陰山は「学力」と「表現力」、「創造力」を区別している。少なくとも、陰山にとって、「表現力」、「創造力」は「学力」より上位の概念である。「読み・書き・計算」の基礎的なトレーニングを課すにあたって、陰山は「揺るぎなき基礎は多様性に転化する」と確信を持って断言する。筆者の40年に渡る教育研究の経験に鑑みても「基礎学力」と「その他の学力」が無関係であることは想像できない。ペーパーテストの結果がそのまま「批判力」や「創造力」になるはずはないとしても、全く無関係だということにもなるまい。陰山は、「揺るぎなき基礎」とは「読み・書き・計算」のような基本的な知識とそのドリル対応力である、という。したがって、上記のテスト批判論者の言葉を借りれば、陰山が実践する「読み・書き・計算」とは、「ペーパーテストの点が取れる能力」であり、「見かけの学力」であり、「得点力」である。
  しかし、陰山は小学校教育の実践で「基礎学力」が様々な能力・資質に転化して行く可能性を証明してみせた。「読み・書き・計算」の基礎が確立されれば、それが応用力や考える力や子どもの意欲にさえも転化して行く、と自らの実践の中から報告している(*6)。問題は陰山に対する批判論者が子どもに期待している「応用力」や「考える力」の範囲である。範囲を限定せずに「応用」や「思考」を抽象的に論じては陰山の実践に対してフェアーではない。文脈から察するに陰山のいう「応用力」は、現行の小学校カリキュラムが想定する知識と考え方を指すのであろう。少なくとも、陰山の実践は、「揺るぎなき基礎は多様性に転化する」ことを証明したのである。かくして、町野と陰山の「学力」観から導き出される指導原理・指導法は真っ向から対立せざるを得ない。学習内容の編成論も大きく分かれる。

(*1)  町野叔司、塾と学校の授業はどこが違うか、なぜ授業は壊れ、学力は低下するのか、プロ教師の会編著、洋泉社、2001年、p.92
(*2)  小宮山博仁、よく学びよく遊ぶ子の育て方、ごま書房、1995年、まえがき
(*3)  野口悠紀雄、「超」勉強法、講談社、序、p.15
(*4)  同上、p.35
(*5)  陰山英男、「読み書き計算」で学力再生、小学館、2002年、pp.158~159
(*6)  同上  pp.20~21


3  「新学力観」の混乱

   文科省がいう「新学力観」になると更に定義が錯綜する。「新学力観」では、通常の方法では到底測定不可能な子どもの「姿勢」や「態度」や「関心」や「意欲」を「学力」概念に加えているからである。恐らく、「ペーパーテストだけでは測れない学力」、という議論はここから始まっている。評価における調査書の重視などという論議もここから発生する。しかし、当面の「学力」問題は、学力テストの結果が心配だというところから出発する。それゆえ、子どもの姿勢や態度や関心や意欲は「学力」向上の条件にはなり得ても、「学力」そのものではない。学力テストは「姿勢」や「態度」や「関心」や「意欲」を測定しようとはしていない。これらを「学力」の一部に含めるのであれば、最小限国民に説明できる評価基準やテストの方法を提示する努力をすべきであろう。もちろん、現実には、子どもの精神や生活態度の実態をペーパーテストで測定できるはずはない。これらは昔から「資質」と呼ばれ、「学習の構え」と呼ばれてきた。したがって、資質は能力の一部と成り得ても、学力を構成する要因ではない。それゆえ、当然、「学力」と「能力」も異なる。通常、「能力」の条件は遥かに複雑で、多岐に渡っている。「学力」はそのほんの一部に過ぎない。能力には、体力があり、耐性があり、学力があり、判断力が問われ、分析力が問われ、決断力が問われ、思いやりや感受性まで問われる。学力についても、学年が上になる程、知識やドリル力以外に分析や判断の力が問われる。「学力」の概念も期待される能力の拡大に従って拡大する。学力も能力も諸々の要素の「総合」であるが、どこかで限定しなければ、中身も、指導方法も論じることは出来ない。もちろん、「学力」を論じるためには、「学力」を向上させてきた「資質」も論じなければならない。しかし、両者は同じものではない。能力はこうした諸因子の総合を意味する。「資質」を詰めて行けば、人間関係能力を含め、社会的適応力の総計となる。ダニエル・ゴールマンが提案した「感情値(EQ)」の考え方に近くなる。EQも人間生活の大切な能力構成要因ではあるが、「学力」ではあるまい。「学力」問題を資質や能力の問題と混同して論じれば、教科内容の編成も教科指導の方法の特定も難しい。


4  指導原理ー指導方法の分裂                                   

  スポーツには科学的トレーニング法が研究され、実践されている。勉強は少なくともスポーツ・トレーニング法の段階まで進歩して然るべきではあるまいか、とは野口の指摘である(*7)。学力には今のところ教育実践の経験則しか存在しない。当然、「学力」の指導法も確立してはいない。「学力」の定義が分裂することはそのまま指導法の分裂となって現れる。俗称される「詰め込み」と「ゆとり」が指導原理の分裂の典型であろう。
  行田は「『詰め込み』強化の方向では、いじめ、不登校、学級崩壊などに示されている子ども達の苦悩は克服できない」、と断じる。行田によれば、子ども達から喜びを奪い、学校生活の閉塞感を作り出しているのが「詰め込み教育」であるという(*8)。行田は「学力」を「知識の量」プラス4つの要素であると表現している。4つの要素が加わった時、「学力」に「血」が通うのである、という。「知識の量」とは「基礎・基本」のことであろう。4つの要素とは、第一に「五感を通して見る、聞く、考える」、第二に「問いを育てる」、第三に、「学んだことを表現する」、第4に、「自分を探す」ことである(*9)、という。重視すべきは「知識の量」ではなく、行田のいう4つの要素である、ということになる。
  これに対して陰山は「読み・書き・計算」で学力を再生するという。「基礎・基本」は子どもの興味・関心に関わりなく教えるべきである。それは「読み、書き、計算」である。指導法はいわゆる「型」の「詰め込み」である。読む力を育てる指導法は、「詰め込み」で"悪名高い"「音読と暗唱」である。書く力を育てるのは、主として漢字の練習の単純反復である。当然ながら、読書指導、読解指導は平行して行う。計算力を鍛えるためには陰山が岸本裕史の実践をヒントに開発した陰山メソッドなる「百マス計算」ドリルを用いている。陰山メソッドは勉強をゲームや記録会に変えた。子どもは記録の向上を楽しみ、競争を喜ぶ。進歩と向上は楽しいものだからである。実践総括で陰山は次の8点を指摘している(*10)。

(1) 教育訓練で基礎学力は上がり、定着する
(2) 「基礎学力」が育てば「ゆとり」が生まれる
(3) 教育の適度な「負荷」は子どもの成長を加速する
(4) 子どもの記憶能力を生かせ。子どもは記憶力の旬である。
(5) 身体で覚えることの競争と向上は両立する            
(6) 学力が上がるとIQも上がる
(7) 学力が上がると精神の安定と自信に繋がる
(8) 学力が上がれば表現力、創造力が拡大する

  野口も最終の結論は陰山と一致する。「若い時に詰め込み教育を受けるのは、大変意義があることだ」。「『創造力のための教育が必要』といわれるけれども、創造は学習からしか出て来ない」(*11)。「『ゆとり』で子どもの教育を受ける権利を奪うな」。「『詰め込み』なくしていかなる創造もあり得ない」。「能率的な勉強法を教える以上にあたたかい方法があるだろうか」と指摘している(*12)。

(*7)   野口悠紀雄、「超」勉強法、講談社、序、p.18
(*8)   行田稔彦、学力を育てる、旬報社、2002年、p45
(*9)   行田、同上書pp.69~70
(*10)   陰山英男、「読み・書き・計算」で学力再生、小学館、2002年、pp.148~159
(*11)   野口悠紀雄、「超」勉強法、講談社、序、p.252 
(*12)   同上、p.257
 


 

「学力」の周辺
 

1  資質と学力の相関                                          

  資質と学力とどちらが先かと問われれば、疑いなく資質が先である。勉強する気がない者に勉強を教えることは至難のわざである。体力的に持続力のない者も問題外である。精神的に耐性や集中力のない者も指導には耐えられない。興味や関心を持っている子どもが、持っていない子どもより勉強に身が入るのは当然であろう。学習習慣ができている子ども、勉強のコツを分かっている子どもはそうでない子どもに比べれば成果が上がり易いのは当たり前であろう。それゆえ、どちらが先か、と問われれば「資質」の向上が先である。もちろん、人間は総合的な存在だから、「学力」を鍛える中で、「資質」を育てることもできる。指導が適切であれば、集中的なドリルや受験勉強が子どもを鍛えることができるのはそのためである。


2  価値の先在性

  筆者はたびたび子どもが「学ぶべきこと」は社会が先に決めている、と主張してきた。それが価値の「先在性」である。社会が決めているのは知識や技術だけではない。「一人前」が到達すべき条件も、やさしさや思いやりの重要性も社会が事前に定めるのである。価値が先在するということは原理的に子どもの意見は聞かない、ということである。したがって、何を価値とするかは、原則的に子どもの選択は認めない。「学力」との関連で言えば、何を教えるか、何を学ばせるかは社会が決める。それゆえ、あるべき「学力」の内容については子どもの意見は聞かない。教育論の中には子どもが学習の主体であるという主張もあるが、それは決められたカリキュラムの「枠」の中での主体に過ぎない。少なくとも「学力」の中身を子どもに決めさせることはできない。学習において子どもを主体にすれば「学力」の低下は避けられない。もちろん、子どもが楽しく学ぶことは重要である。勉強が楽しいのであれば、それに越したことはない。しかし、楽しく勉強が出来るということと、「学力」が向上するということは同じではない。多くの場合、楽しく学ぶのは指導者の腕の見せ所である。「学力」に限ったことではないが、少なくとも「学力」に関しては子どもが楽しくなくても学ばせなければならない。それゆえ、多くの場面で、子どもと指導者の衝突は必然なのである。学校と子どもの衝突もまた必然である。親もまた指導者として子どもに対する時、衝突は避けられない。衝突しても、原則として、子どもの要求に屈してはならない。したがって、学校は楽しくなければならない、というのは「あるべき目標」であり、「神話」である。楽しかろうと楽しくなかろうと学校へ行って、学ぶことは子どもに選択の余地はない。子どもは社会から独立して生きて行くことは出来ない。不登校が問題なのはそのためである。


3  「学力」低下の原因


  「学力」の低下は複数の要因による。それゆえ、学力向上も低下の防止も、総合的に考慮せざるを得ないのは論を待たない。しかし、学校教育において、抜きん出て重要なことは二つである。二つとは教える側と学ぶ側の条件である。「学力」は基本的に教える側と学ぶ側の問題である。教える側が真面目にかつ上手に教えなければ、「学力」の向上はない。教える側は「学力」の中身を決め、教え方を決めるからである。
  一方、学ぶ側が学ばなければ、もちろん、「学力」はつかない。幼少の学習者は基本的に受け身である。学習の時間的・空間的制約に耐え、学習の中身に耐え、指導者の教え方に適応することが出来なければ、学習は行われない。子どもに学ぶ条件がなければ、教育は成立しない。何をどのように教えようとしても効果は空しい。現代の子どもの実態を見れば、学力問題の大半は学習者の条件に関わっている。学習者は学習の構えも、資質も備えていない。体力がなく、耐性が低く、集中力に欠け、課題の達成・成功体験が欠如し、指導者を尊敬していない。怖がってもいない。怖がっていれば少なくとも一生懸命指導の指示に従おうとする。それが子どもである。
   教育論における「基礎・基本」派と「ゆとり」派の家庭教育への助言を読むとそこにはあまり大きな違いは見えない。陰山は学力向上策は"自立と耐性が鍵である"として家庭教育論を展開する。自立と根気と会話力が主要な論点である(*1)。一方、「みかけの学力」ではだめだ、として「考える力」、「創造力」の重要性を唱えた小宮山も学力向上には子どもの意欲や学習環境が重要で、母親や教師の子どもへの接し方、やる気を育てる「しつけや遊び」が有効であることを強調する(*2)。表面的には似たような提言に見えるが、根本の相違点は「子どもの位置付け」である。陰山理論は子どもを重視するが、主体はあくまでも指導者である。これに対して、小宮山理論は断然子どもが主である。小宮山にとっての問題は家庭や学校が子どもの主体性を十分に配慮していないことにある。「ゆとり教育」論者の共通点は「子ども主体論」である。日本の学力問題も、少年の危機も最後は子ども観によって左右される。

(*1) 陰山英男、学力は家庭で伸びる、小学館、2003年、目次
(*2) 小宮山博仁、よく学びよく遊ぶ子の育て方、ごま書房、1995年、まえがき


4  「子ども」観の分裂 ー「半人前」を「一人前」に扱ってはならないー         

  子どもの主体性論を押し進めると教育は成立しない。教育は先在的価値及びその価値に従って「社会が必要と判断したもの」を子どもに伝えることが任務である。指導場面における人間関係は、教師・指導者が「上」で、子どもが「下」である。学習の中身は社会が決定し、指導者が伝える。価値が先在するということは教育場面における主客の人間関係を前提としている。 ところが、子どもの主体性論は指導場面の上下関係を崩してしまう。主客の原理も崩してしまう。上下関係が崩れれば、子どもは指導者に従う理由はない。やりたくないことを我慢してやる必要もなくなる。家庭でも親子の上下関係は崩れている。この当たり前のことを大幅に崩したのが戦後教育の特徴である。子どもが楽しく学ぶのは大いに歓迎すべきだが、子どもの好きにさせれば教育が崩壊するだけである。「半人前」を「一人前」にするのが教育の使命であれば、教育は「半人前」を「一人前」に扱ってはならない。学校の主役は教師である。学校では子どもは自分の好きなように振る舞うことは出来ない。学校では子どもは様々な制約に遭遇する。やりたくなくてもやらなければならないことは多い。ルールとも、教師とも、他の子供達とも必ず衝突は起る。それゆえ、挫折も起る。挫折を回避するために、登校拒否児童に個人指導の教員を派遣してはならない。衝突が起らないように、子どもの機嫌を取ってはならない。学校へ行くというのは学業のためだけではない。制約や衝突を突破して「一人前」の力を付けるためである。制約や衝突に挑戦しようとした時、子どもは始めて自らの主体になろうとするのである。「一人前」の条件はそこから出発する。埼玉県志木市のように、不登校児童に教育行政が「家庭教師」を送って「修学」の代わりにするのは、登校・修学の「偽装」である。学校制度は子どもの生活の枠であり、社会的壁である。学校の中で子どもは制約や、衝突に遭遇する。学校は勉強を強要する。学校は子どもの思い通りにはならない。それ故に子どもは成長するのである。


5  「しつけ」の「質」が悪い                                      

  参考にした書物の中に次のタイトルがあった。「授業がダメになるから学級が崩壊するのか、学級が崩壊するから授業がダメになるのか」(*3)。答は恐らくそのどちらでもない。真の原因は子どもの質、厳格には「しつけ」の「質」が悪いことである。授業がダメになるのも、学級が崩壊するのも、学校に対する子どもの「構え」と「耐性」が欠如しているからである。学校も教師もこの根本原因に目をつぶっている。もしかすると、子どもの主体性論に発想を呪縛されて、子どもの「心身の鍛錬」から始めなければならないことに気付いていないのかも知れない。誰も表立って言わないが、現代の子どもの「しつけ」の「質」が悪いのである。学習も教育も成り立たない程に学ぶ「構え」ができていないのである。
  教師としての職業上「子どもが悪い」と言うことは辛いだろうが、事実は事実である。学習の前提条件を確立しない限り、「学力」は論じられない。なぜ、子どもが悪いと言わないのか?なぜ、学習の前提条件の確立に取り組まないのか?
  プロの教師達も恐らくは漠然と気付いている。世間も正面から議論すればいずれ分かってくれるであろう。今や、学校は昔の学校ではない。児童・生徒も昔の児童・生徒ではない。恐らく通常のやり方では授業は成り立たないのである。教師は職業柄自分の指導力を棚に上げて、子どもの「質」が悪いとは言えない。諏訪は「子どもは生徒と同じではない」ということに多くの人が気付いていないと指摘している(*4)。その通りである。学校には多くの子どもがいるが、児童や生徒になっていない子どもが多いのである。「しつけのできていない子ども」が児童や生徒になった時、初めて教室が機能し、学校が機能する。教育効果も出て来る。学習効果も上がる。結果的に、習得を期待された知識や技術のレベルも向上する。「学力」に関わる「しつけ」の核心は根気である。根気を抜きにあらゆる努力は成立しない。授業も、学校も子どもの努力を要求する。根気は体力と耐性に分解される。かくして「学力」論は「学校とは何か」と言う議論に繋がる。「学校」が成り立つためには、しつけのできていない子どもを「児童・生徒」に変えるところから出発しなければならない。現代の「学力」は「学力の前提条件」を問うているのである。「学力」は、再び、体力、耐性、集中力の問題に帰着するのである。
  体力と耐性が混合された「行動耐性」、「欲求不満耐性」こそが子どもの「努力」の鍵であり、「適応」の鍵であり、「学力」の鍵である。したがって、人生の鍵でもある。


(*3)河上亮一、授業がダメになるから学級が崩壊するのか、学級が崩壊するから授業がダメになるのか、なぜ授業は壊れ、学力は低下するのか、プロ教師の会編著、洋泉社、2001年、p.66
(*4)諏訪哲二、あとがき、同上書、p.215
 

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