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生涯学習通信

「風の便り」(第50号)

発行日:平成16年2月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. ゲリラの時代

2. 教育はOne Wordか? −「教えること」と「育むこと」−

3. 第42回生涯学習フォーラム報告 「幼児教育・保育における心身の鍛錬」

4. 「風の便り」第50号によせて

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

教育はOne Wordか? −「教えること」と「育むこと」−


  子育てグループの方々に御会いした時、子育ては「共育」であるとおっしゃる。保護者も、指導者も子どもから学んで共に育つことが大切であるという。謙虚な物言いである。確かに、育てることの中から、学ぶことは多い。その意味ではあらゆることの中に「共育」はある。「我れ以外の者みな我が師なり」という発想に通じる。
   過日、たまたまお招きを受けた教育講演会のタイトルも「共育講演会」であった。しかし、教育はOne Wordではない。「教えること」と「育む事」の複合概念である。これまで様々な機会に鍛錬環境と応援環境のさじ加減を提案してきた。子どもの「鍛錬」とは指導であり、教え導くことである。一方の「応援」は自立心を育むことである。「応援環境」の重要性は教えることではない。本人を奮い立たせることである。応援とは子どもの自己努力の環境や条件を整えることである。自らの努力を育むことである。
それゆえ、鍛錬の大部分は基本的に「教える者」の直接的任務である。逆に、間接的任務は励ましと環境の整備である。「育むこと」の大部分は「教わるもの」の自己努力に関わる。

● やったことのない事は出来ない ●
  子どもは、初め、何も出来ない。自分のことも決められない。当然責任も取れない。それゆえ、「養育」は保護と指導から始まる。大部分の事は教えなければ出来ない。反復と練習抜きに決して上手になれない。しかも、指導は知識や技術に留まらない。学び方も、感じ方も、努力の仕方も、教わらなければ言葉の意味するところすら分るようにはならない。意味が分かっても一回では身に付かない。地道な反復練習が不可欠なのはそのためである。
  福岡教育事務所の鹿毛さんが知人のラグビー監督のことを話してくれた。監督は、「教えること」と「育むこと」の違いを鮮明に自覚されている。厳しい試合の中で、生徒が素晴らしいプレーをした時、評価者の一人が"ラッキーでしたね、あのプレーは"と評したという。しかし、監督さんは躊躇なく、"いや、あれは練習の成果です"、と答えた。幸運の結果だと見えたプレーは、生徒達が千回もの練習をしたという。偶然出来たことではない。当然、監督の指導と応援の中で、生徒はたゆまぬ反復と練習を繰り返したことだろう。しかし、その一つ一つに監督が付き合ったわけではあるまい。練習の大部分は子ども達の自己努力である。監督は彼らの精進を信じている。「お前ならやれる」と激励を欠かさない。「失敗は当然」とも許している。それが「育み」であろう。
  教育は教えることと育むことの二つの機能から成り立つ。教えるだけでもダメであろうが、ただ育つに任せればいい、ということにもなるまい。共に育つというのは謙虚な言い方だが、どこかで教えることを卑下したり、危険視していないか。共に育つことは大切であるが、「教えること」の責任を回避してはなるまい。多くの場合、教える人に出会わない子どもは自分の壁を乗り越えることは出来ない。部活でも、勉強でも教える人次第で子どもが激変するのはそのためである。職業としての教師は「教えてこそ」初めて教師である。教育民主主義の時代に「恐い先生」は当然、人気がない。「恐い」ことが良いというつもりはないが、教えようとすれば、自ずと気合いも入る。教えようとしているのに、学ぼうとしない者がいたら、放っておけない。自然と態度は厳しくなる。物わかりのいい、恐くない先生はやる気のない子どもには教えられない。教師である以上、教えようとしない先生は有害である。教えることの中には緊張感もある。学ぶ態度もある。教師ー生徒間の人間関係もある。恐い教師は好かれないだろうが、クラスはだらけない。宿題も忘れない。緊張感も持続する。「共育」という表現には師弟のあいだの「緊張感」が欠如している。指導する者と学ぶ者の心理的距離もない。友だち先生がダメなのは、学びの場の緊張感を持続できないからである。緊張感なしに人生の火事場は切り抜けられない。

● 恐怖のシステム ●
  教える事を軽視するのは誤りである。教えることの厳しさを軽視することも誤りである。一生懸命教えようとすれば、当然、厳しくなる。先生が恐いとはそういうことである。どこの世界にも「恐さ」と「暴虐」を勘違いした者はいるが、それを批判する余り、「共育」に逃避してはなるまい。「恐い」だけで、教室の秩序は回復する。恐いだけで、よく聞き、よく集中し、宿題も忘れない。結果的に、教えられたことはきちんと学ぶことができる。大学生ですら怖い教師の授業は必死である。懸命にレポートを書き、怖れおののいて試験に備える。放っておけば、人は「易き」に流れる。学生が学ぶのは基本的に教師を畏怖しているからである。アメリカの大学生がよく勉強するのは大学が「落第」という脅迫のシステムに支えられているからである。飾らずに言えば、厳しい評価は「恐怖のシステム」である。日本の高校生が狂気の受験勉強をするのも不合格が恐いからである。大学生になった途端に勉強しなくなるのは日本の大学に教えることの厳しさが不在だからである。基準に満たない者は容赦なく落第させるだけで学生は勉強する。個人でも、制度でも、教えると言う機能は指導の厳しさの中に貫徹している。千回もの練習を積んだラグビー部の生徒達も疑いなく監督を畏怖しているに違いない。

ボランティアは「安上がりな労働力」ではないか!?
偶然が重なって幾つかのボランティア研修にお招きいただいた。これまでの研究成果を幾つかの視点に分けて提案した。関係者には"憎まれ口"に聞こえたのではないかと些か気にしている。誤解のないように論理を再整理してみた。

1. ボランティア論のきれいごと
   ボランティア論には「きれいごと」が多い。青少年のボランティア活動の必修化を認めないというのがその代表である。ある論者は、ボランティアは「世のため、人のため、自分のため」である、と断言する(*1)。そんなにいい事づくめなら子どもには強制してでもさせたらいい。しかし、必修化には反対である、と言う。反対論の根拠は、「自主性」の原則に反するからであるという。「個」が「全体」または「公共」の名のもとに特定の奉仕や貢献をするのは「自己犠牲」の匂いがして歓迎できない、という。ボランティア論の建て前はその「主体性」論に留まらない。
  ボランティアは「安上がりの労働力」ではない、という。これも美辞麗句の一つである。「安上がり」であろうとなかろうと、ボランテイア活動の「労働機能」を否定することは出来ない。
(*1) 松兼 功、ボランティアしあおうよ、岩崎書店、1997、裏表紙

2. 「安上がりな労働力」を否定できるか?
  ボランティアは「安上がりな労働力」ではない、という。本人に関する限り、ボランティア活動は確かに「労働」ではないだろう。それゆえ、「労働の対価」も要求しない。しかし、労働は「活動」の特殊形態である。物を創るのは生産活動であり、生活のお手伝いをするのはサービス活動である。労働も、ボランティア活動も社会的機能の遂行能力において、本質的な違いはない。ボランティアであろうと手伝いであろうと、社会的責任の遂行においては実質的な「労働力」として機能している。本人の気持ちやボランティアの建て前だけで「労働力」機能を否定することはできない。ボランティア活動を「労働力」として認めない説明は、あらゆる活動が「社会的役割」を遂行しているという現実を直視していない。
   筆者も英会話指導のボランティアである。当然、クラスの費用は「安い」。「駅前留学Nova」の10分の1ぐらいであろう。その「安さ」が多くの学習者を引き付けている。学習者のみなさんは「安いから来ました」と正直におっしゃる。この事実をひっくり返せば、筆者は「安あがりの英語講師」なのである。当然、多くの行政もそのことに気付いている。多くの病院も、福祉施設も同じように気付いている。ボランティアに依存するのはそのためである。人の能力やエネルギーを経済学は総括的に「人的資本」と呼ぶ。同じ人的資本が「ただ」或いは「費用弁償」だけで活用できるとすれば、活用しない方がおかしい。高かろうが安かろうが、「人的資本」の中身に違いは無い。職業的講師として教えても、ボランティア講師で教えても、筆者の英会話指導能力に違いは無い。教える熱意にも基本的な違いはない。その意味でボランティアは安い「労働力」でもあるのである。大人は青少年に対するボランティアの勧めにあたって、口当たりのいい「立て前」や「美辞麗句」だけを並べてはならない。
   「児童労働」はその一例である。子どもは一般論でいえば、労働者ではない。しかし、子どもが子どもなりに役に立てば、その時点で立派な「労働機能」を果たす。かつての「農繁期」はそうした子どもの労働力を当てにせざるを得なかった農業の時代の仕組みである。ネコの手も借りたかった時代であった。現代はそれが「田植えボランティア」や「森林ボランティア」に看板を架け替えたのである。「森林ボランティア」の背景には、人件費が高騰して、ボランティアの「労働力」を借りなければ、森を守れなくなった時代の背景があるのである。

3.ボランティア活動の「労働」化 ー「介護」の社会化ー福祉を「買う」時代 
   ボランティア活動は「労働」ではない。しかし、「草刈十字軍」や「森林ボランティア」が象徴するように、かつて労働で処理してきたことを、ボランティアの活動で処理するようになった。当然、ボランティア活動が労働を補うこともあるが、その逆も起る。かつて、ボランティアが行なってきた福祉分野の奉仕やサービスの多くは、今やプロが担う「労働」になった。「介護」の社会化が具体例である。「福祉を買う時代」が来たのである(*2)。ボランティアの「無償性」の看板も、ボランティア「非労働力」論の論理も高齢社会の変化には抗し切れない。
   高齢化は介護の社会化を必然的に進める。高齢社会の介護は「老老介護」の現象一つを見ても、すでに家族・家庭の担当能力を越えている。当然、介護に関わる専門の人々を配置しなければならない。
   ボランティアに金を払ってでも福祉をになって貰わないと間に合わない、という。それゆえ、「有償ボランティア」によって福祉を買う時代が来た、と書物は言う。しかし、ボランティアを支える支援の費用は報酬ではない。活動支援経費である。行政用語でいう「費用弁償」に近い。ボランティアの「無償制」の原理に照らしても、ボランティアは労働の対価を求めない。それゆえ、ボランティア活動に報酬や謝金を受取る「有償」はあり得ない。概念的にも、「費用弁償」と「有償」は区別すべきであろう。「子どもの居場所づくり」事業の文科省補助金の説明書には「ボランティア謝金」という項目がある。謝金は通常報酬を意味する。ボランティアは労働の対価は受取らない。それゆえ、ボランティアに謝金を設定している文科省は「無償制」の原則も、ボランティアの主体的意志も理解していない。謝金を貰ってやるのであればそもそもボランティアではない。
   高齢化が進展して、介護の社会化の時代が来たのである。職業としての介護が広く社会に認知され、「ヘルパー」という新語も生まれた。プロに労働の対価を支払うのは当然のことである。福祉には様々な活動場面がある。プロもボランティアも共に「労働機能」を果たす。結果として、仕事の面でプロとボランティアの線引きは簡単ではない。職業としての介護が成立したということは、ボランティアで支えてきた介護はもうボランティアでは支え切れない、ということを意味している。ボランティア介護が職業的介護となり、「労働」になったということである。ボランティアが介護を担当してきた時代は変わったのである。福祉分野はボランティアを「ただ」で使ってきた。「ボランティアただ論」はまさしく、実質的「安上がりな労働力」論に外ならない。国がボランティア振興法を決めないのであれば、自治体は条例をもってボランティアへの「費用弁償」を制度化し、活動の振興を図るべきであろう。本人の志においてボランティアは「安上がりの労働力」ではない。しかし、行財政の視点に立てば、ボランティアは「安上がりの労働力」でもあるのである。
(*2)  M.マクレガー・ジェイムス/J.ジェランド・ケイタ?、小笠原慶彰訳、ボランティア・ガイドブック、1982年、pp.204〜205

 

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