お知らせ 第42回生涯学習フォーラム
日時: 平成15年1月17日(土)15時〜17時のち「センター食堂にて夕食会」
場所: 福岡県立社会教育総合センター
テーマ: 青少年ボランティアの目的、内容、方法、及び活用のシステム
発表者: 交渉中
参加論文: 青少年による「役割取得」の原理と限界(仮題)(三浦清一郎)
フォーラム終了後センター食堂にて「夕食会」(会費約600円)を企画しています。準備の関係上、事前参加申込みをお願い致します。(担当:肘井)092ー947ー3511まで
「風の便り」2003年号の登録について(最終回)
1年区切りの購読更新の季節になりました。
「風の便り」も48号となり、やがて5年目のサイクルにはいります。一年間のご支援ありがとうございました。多くの方々のご支援のおかげで、来年も購読料は無料で続ける事ができます。購読をご希望の方は90円切手12枚を同封の上事務局までお送り下さい。すでにお知らせしているとおり、アメリカの藤本 徹さんのお力添えで定例のフォーラム「参加論文」と「風の便り」を共にオンライン化しております。併せて御利用下さい。ご意見、感想など御自由にお寄せ下さい。
編集後記
「相聞歌」を学べー「筋肉文化」への警告
「筋肉文化」は筆者の造語である。人間の生活において筋肉がものを言った時代のシステムと感性の総称である。人類史において最も重要な人間の活動は「労働と戦争」であった。道具も技術も拙かった時代に筋肉に優れた男が「労働と戦争」の先頭に立ったのはごく自然のことであった。然るに、文明が成熟した現代、道具と技術が筋肉に取って代わったのもまた必然であった。かくして、道具と技術を駆使すれば、「男だけにできて、女にはできない」労働も、戦争も地上から消滅したのである。それは「筋肉文化」を支えてきた諸条件の消滅を意味する。「性役割分業」が否定されるのはそのためである。それゆえ、あらゆる生活場面において男女は対等になる。義務も責任も、権利も役割も対等になる。社会的に残ったのは「労働と戦争」を司った筋肉能力の差異ではなく、子孫の存続に関わる「産む性」か否かの生物学上の相違点である。社会が女性の側に立つのは当然である。
しかし、いつの時代も文化は「急旋回」が難しい。それゆえ、筋肉文化は長いしっぽを引きずっている。「文化の時差」を引きずっている。男女共同参画は掛け声ばかりの町がある。男達が変わらなくても済むかも知れないと秘かに期待しているのはそのためである。筋肉文化が築き上げた男優位のシステムと文化は当然男にとって快い。時には男のクズも、最上級の女より優位に立てる。各地の「女人禁制」がそれである。男が己の筋肉にものを言わせて、女をぶん殴るのもそれである。「レイプ」も同じである。「レイプ」に対する刑法や家庭内暴力に対するDV法が禁止したのはルールに反する「筋肉の優位」である。
これらに対抗するためには女も自衛するしかない。自衛策は「少子化」を突き付けることに代表される。抗議の対象は筋肉文化を許容している社会である。「晩婚化」も戦略上の自衛力である。今や「変わってしまった女」は、己の基準を満たさない男には見向きもしない。「変わりたくない男」は軽蔑の対象にするだけである。あまり選別の基準を厳しくし過ぎると「男日照り」の危険が生じるが、幸いにも現代社会は男女関係に対して寛容である。
最終的な攻撃・防御策は高齢社会の「介護」拒否である。平均寿命の長い女性だからこそ可能な戦略である。介護保険の制度化は「介護」拒否の象徴である。「熟年離婚」もそれに連なっている。少子化が社会現象となったように、「介護」拒否もいずれ「変わりたくない男」に突き付けられる最後通告となる。
そんなことを考えている最中、セクハラ防止の研修依頼が来た。男女のもめ事に関わる気は毛頭ない。中でも最も厄介なのが「セクハラ」である。何より「定義」がはっきりしない。被害者が「セクハラ」だといえばセクハラになる。言わなければ「ハラスメント(絡み)」にはならないが、事はそれだけでは終わらない。男は軽蔑され、顰蹙を買う。不幸にして、筋肉文化の教養を身につけてしまった男達にとって、男女共同参画社会の最初の試練はセクハラである。
DVであれば、「行為」の境界線は明確である。家事・育児の男女共同も、参加の「有無」は明確である。しかし、セクハラには白黒のはっきりしない「グレイゾーン」がある。愛の言葉のつもりでも「セクハラだ」と叫ばれたら防御のしようがない。しかも、動物を見れば分かるように求愛行動のディスプレイの大部分は「雄」が行なう。筋肉文化も当然原始の時代の動物行動を引きずっていて、「口説き」の主役は男である。求愛行動の中身と方法の前面見直しが必要なのである。
つい最近、「レイプ」を「元気」と混同して世間の顰蹙を買い、見事落選した政治家がいた。筋肉文化を引きずった時代遅れの馬鹿な男である。筋肉文化は時に力づくで女をねじ伏せていたのである。男女が対等の時代、女を口説くのは簡単ではない。愛嬌のつもりの性的からかいは己のアホの証明である。冗談のつもりの「猥談」は自分の母を侮辱すると同じく下品なディスプレイである。口説いているつもりのしつっこい絡みは、本人の鈍感と脳味噌不足の露呈である。男も、男女共同参画の時代に相応しく告白や口説きを学習しなければならない。求愛行動のディスプレイ方法は時代に即して再履修しなければならないのである。万葉集を読みかえしていたら、大津の皇子と石川郎女のやり取りに出会った。とりあえず男女共同参画文化の修業は「相聞歌」の練習から始めてはどうだろう。「サラダ記念日」でも、萬葉集でも、古今集でもいい、自衛のために昔に倣って、相聞歌を学ぼうではないか。
あしひきの山のしづくに妹待つと
われ立ち濡れぬ山のしづくに(大津皇子)
吾を待つと君が濡れけむあしひきの
山のしづくにならましものを(石川郎女)
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