市場価値と存在価値
沖縄の生涯学習フェスティバル・シンポジュームは思いがけなく、日常や生涯学習の基本問題が提起された。いまだにそこが問題か、という感想とやはりそこが根源か、という感慨が入り交じった。一つは別項に論じた学社連携が実現しない理由である。もう一つは、標記の価値の「多元性」である。
登壇されたアナウンサーの森田さんは自らのボランティア活動の中で役所が決めているプロの指導者の「謝金単価」の序列化に引っ掛かるという。特に、政策として、生涯学習ボランティアを推奨する中で、学習成果の社会還元を謳いながら、他方で、学習指導のプロへの謝礼がランク付けされている。具体的な実践に鑑みれば、謝金を受取って指導している指導者以上に、無報酬のボランティア指導者の中に優れた人々がいる。行政の評価はどうなっているんだ、と思うのも無理はない。しかも、講師の「相場」や謝金の額は世間の肩書きで決まる。通常は、一覧表まである。しかも、「中央講師」とか「地元講師」とかいう一般からは見えない基準もある。肩書きに加えて「中央か、地方か」の差別もあるのである。指導や講演の中身が「中央」か「地方」かで異なるはずはないだろうが差別は厳然とある。テレビで名の売れた有名人にはエージェントがついて巨額の旅費・謝金を要求される。森田さんが釈然としないのはその辺であろう。
しかし、こうした疑問は市場価値と存在価値(あるいは使用価値)を混同して論じていることが理由である。多くの日本人が喜ぶ以上、「肩書き」や「有名人」が高くつくのは仕方がないのである。「肩書き」の値段は本人の存在価値でも使用価値でもない。市場価値である。市場価値は基本的に需要と供給のバランスによって決まる。市場価値は大切な価値であるが、かならずしも事物の実質的価値と同じではない。本人の能力や人格と懸け離れた虚像が一人歩きすることも多い。市場や相場の気紛れである。特に、マス・メディアの時代は、メディアに登場したというだけで、「知名度」という価値を付与する。マスコミの「地位付与」の機能と呼ばれる。仮に、筆者自身や「風の便り」に注目するマスコミがあって、筆者がメディアに登場するようになれば、筆者の市場価値は倍増する。しかし、当たり前のことだが、筆者の中身は昨日までと一向に変わらない。存在価値も、使用価値も変わらない。本人は何も変わっていないのに、メディアによって市場価値だけが変わるのである。市場価値が本人の存在や使用価値とかけ離れてしまったとき、森田さんの疑問はますます深まることだろう。中身は自分で判断するしかない。買い手が多ければ、売り値は高くなる。もちろん、高いからいいとは限らない。行政担当者に人や中身を見る目がなければ、市場の虚像の価値に振り回される。住民が中央に憧れ、「有名人」に弱い”ミーハー”であれば、中央講師という虚像と「客寄せパンダ」のために、途方もない金を払う。「市民大学」や「自由大学」はこぞってその愚を犯した経験があるだろう。全国の社会教育が如何に無駄な金を使っているか測り知れないが、それもまた、民主主義の授業料と思わねばなるまい。市場価値が要求する経費はいつも、その事物が持つ存在価値、使用価値に換算して、支出を検討しなければならない。その金をボランティアの活動支援のための費用弁賞に使えばどのくらい実質的な生涯学習が進展するか?高齢者の生涯スポーツの振興に活用したら効果はどうか?青少年の伝統芸能継承の支援に使えないか?等々、等々。様々な検討が可能である。
「英語徴兵制」と「英語監獄」
日本の教育問題の解決には多くのショックを必要とする。ショッキングな表現だが「英語徴兵制」も、「英語監獄」も吉富 勝さんの造語である(2003.12.22,「国家戦略なき英語教育」、日経)。これほど思い切りのいい、概念の提示を見て、脳味噌に刺戟をいただくことになった。吉富さんの提案に快哉を叫んだことは言うまでもない。
吉富さんは経済企画庁で経済研究所長を務め、その後ペンシルバニア大学日米経営センター所長を務め、アジア開銀研究所所長を務められた。
日本は国際社会の舞台で生きて行く。当然、「英語の習得を日本の国家的な戦略の一環に据えるべき」である。それができないのは「今の文部官僚が政府の中でもっとも国際化されていない」からであると喝破する。当然、そのような官庁の監督を受けている現行の大学に英語力のある学生を育てる能力はない。そこで中高生段階で”英語徴兵制”を敷き、兵役に服するように”英語監獄”にいれるべきである。『日本語は一切使用禁止。日本人同士は同室にしない。家族や友だちとも接触禁止。もちろん「携帯」も禁止。話し相手は外国人の指導教官や留学生だけ』、という徹底振りである。ここまで適切に英語教育の改革断行を言い切った論を読んだことがなかった。日本の専門職の中からも一生国際的な議論に参加できずに恥をかき続けるより、半年の「英語監獄」暮らしの方を選ぶ方々も出て来るであろう。しかし、この提案を実現できる教育機関は日本には存在しない。実行しようとすれば国家予算をつけて新たに外国か、民間の機関に依頼するしかない。国家戦略の一環たる教育を外国や民間にまかせなければできないというのは哀しいことだが日本の現実である。
吉富さんの発想に学べば、不作法な子どものための「礼儀監獄」も工夫が可能である。へなちょこを叩き直す「体力・耐性監獄」も可能であろう。振り返れば、筆者も「子育て監獄」の「看守」であった。子どもが可愛いと思えば何のことはなかった。10年後の子どもを思えばそれが一番よい時があるのである。
かつて「戸塚ヨットスクール」は適切な指導チームを編成できずに、大きな誤りを起こした。ヨットを通して子どもの生きる力を鍛えようとした発想は「英語監獄」の発想と同じであったであろう。日本社会は戸塚ヨットスクール」の「罪」と「原理」を識別しなかったが、いずれその過ちを認めることになるであろう。
わが友人の一人が青少年「訓練所」構想を打ち上げようとしている。われわれはFuhben
Haus(少年不便の家)という名称を提案している。吉富流に表現すれば「自律監獄」であろう。自分でやらなければその日が暮らせないシステムである。過保護・飽食の時代だからこそ敢えて「不便」を作り出す意義がある。不便に耐えて、自分のことが自分で出きるようになれば、あらゆる指導が可能になる。
「英語監獄」構想に限らず、「型」の習得は、制度と環境による半強制的な「体得」である。「監獄」に適応して、「環境」が要求するものをクリアしなければ、「破門」されるか、その中では生きて行けないシステムである。教育である以上、指導者はいるが、真の監督者は「環境」である。指導方法は反強制的な環境のもとでの「サバイバル生活」である。理屈ではない。したがって学びの大部分は「学習」ではない。脳味噌だけでは歯が立たないのである。全肉体、全人格をもって環境に適応し、生き延びなければならない。古人は「型より入りて、型より出ずる」という。英語も「文型」という「型」であり、礼儀も作法という「型」である。自律もまた「日々の暮らし方」の「型」の組み合わせである。「体力と耐性」は気侭を捨てて、「型」に耐えることに外ならない。戦後教育が襤褸のように捨てて顧みなかったことが「型」の教育であった。そのことを日本を代表して世界で仕事をしてきた人が教えてくれている。
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