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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第47号)

発行日:平成15年11月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. コミュニケーションの原点−「発表会」を問う

2. 品質管理の思想

3. 「不登校」の処方箋

4. 第40回生涯学習フォーラムレポート

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

「不登校」の処方箋

保護者の責任、子どもの責任、学校カウンセリングの機能不全

 1   養育の責任

   筆者の上五島行きはなぜか海が荒れる。そのせいか、遥々と来た、という実感がある。このようにむき出しの自然と対峙して育てば子どももタフになるだろう、と思う。ところが実態は必ずしもそうではない。

   御縁が出来て以来、有川町は二度目の訪問である。帰途は夜になった。船から佐世保の灯りが遠く見える。帰宅は11時を過ぎるだろう。翌日は朝の便で北海道の仕事である。熟年の「生きる力」が試される時である。体力と耐性がなければ、1週間も連続する旅は持たない。まして愛嬌と勤勉を持続して町から町を廻る全力投球の”巡業”講演は難しい。強行スケジュールに耐え得るのは近年の生涯スポーツのお陰である。「生きる力」に幼老の違いはない。子どもの耐性に関する理論は熟年期の自分自身が研究の素材である。

   山下教育長以下有川町の関係者は島の今昔を知り尽くしている。その生育歴を聞けば、みなさん大変お強い。海がみなさんの遊び場であり、生活の場であった。それに引き換え、現在の子ども達を鍛えるシステムは機能しているようには見えない。「少年の危機」は養育の責任であることを痛感させられる。

   筆者が基調提案を終わった時、事務局が事前に用意した質問を読み上げた。それは「不登校」の処方箋を問うものであった。上五島も例外ではないのである。今や「少年の危機」に地域性はない。筆者が少年問題を「風土病」と呼ぶのはその意味である。日本の文化風土に共通している。

   質問は次のとおりであった。「すでに不登校に陥った子どもをどう指導するのか?」「苦しんでいる家族を周りは黙ってみているしかないのか?」講演が終了したあとの質問にしては問題が大きすぎ、中身が重すぎるのは明らかであるが、事前に関係者が相談した上でのご質問である。時間が足りないという理由だけで逃げるわけには行かない。覚悟を決めて以下の論理の要点を提案した。結果的に、当事者の保護者も、子ども自身も、学校カウンセリングも厳しく批判することになった。この時ばかりは、研究者は”辛い商売”である。

2   「守役」に預けよ!

   保護者にはお気の毒であるが、子どもがすでに不登校に陥った時、保護者では治療は出来ない。何故なら、不登校の原因は、子ども自身、保護者自身だからである。並み居る保護者の前でこれをいうのは辛い。苦しんでいる保護者がいることを思えばさらに辛い。しかし、「子宝の風土」においては、原理的に、保護者は不登校の”治療”には向かない。不登校は保護者の養育の信念が原因である。「子宝」の過剰な保護が原因である。子どもの欲求を過剰に受容し、子どもの意志を過剰に尊重したことが主たる原因だからである。子どもを大事にすることが保護者の信念である以上、保護者の養育方法は簡単には変わらない。それゆえ、保護者の手厚い保護の現状の中から子どもが自立を達成することは極めて困難である。

   子宝の風土においては、子どもの自立は世間に頼み、他者の指導にゆだねると決まっている。それが「可愛い子には旅」の思想である。「他人の飯」の実践である。具体的な実行役は、伝統的に「守役」と呼ばれてきた。質問に直答すれば、「苦しんでいる家族」には、わが子を他人に、それも厳しいトレーニングを請け負ってくれる他人に預けよ!と助言すべきである。「他人の飯」を食わせよ、とは子どもの思いや意志を聞くな、ということである。「他人」の下ではわがままも、勝手も言えない。引き受けてくれる他人は、制度的には、「ご養育係」であり、「守役」であり、「めのと」であり、「乳母」であり、「指南役」であり、「師匠」であった。日本社会の現在の不幸はそうした「守役」が身近にいないことである。個別の例外的教員は別として、今の学校では「守役」にはなれない。学校もまた、保護と受容の理論で子どもに対処するからである。

3   原因の第一は「行動耐性」、「欲求不満耐性」の欠損

   不登校や引きこもりに代表される現代の子どもの挫折の原因はたった一つしかない。それはかれら自身の「弱さ」である。弱いとは「心身のがまん」が出来ないことである。子どもの「耐性」が欠如している時、不満も、がまんも困難と化す。一定の行動を持続することが出来ないのは「行動耐性」の欠如である。欲求不満で簡単に「切れる」のは、「欲求不満耐性」の欠如である。

   専門家の書物の中には、10人の子どもの不登校には10通りの原因があるかのように書いてある。しかし、事実は決してそうではない。10通りの原因に見えるものは、10通りの「切っ掛け」に過ぎない。人生は様々であり、挫折の場面もさまざまである。思うとおりにならぬ困難は至る所にある。したがって、切っ掛けはもちろん子どもの数だけ多様である。但し、原因はたった一つである。子どもが現実社会の「負荷」に耐えるだけの「生きる力」を身につけていないということである。「生きる力」の基本はこれまで論じたとおり、「体力」と「耐性」を基本とする。学力もやさしさもルールに従うことも大切ではあるが、体力と耐性のないところでこれらの要素のトレーニングは出来ない。それゆえ、子ども自身の弱さを克服しない限り、子どもの不登校は解決しない。子どもの弱さは体力と耐性、なかんずく欲求不満耐性の欠如に発する。遠回りのように聞こえるかも知れないが、不登校の処方は体力と耐性を鍛え直す事から始めるしかないのである。

   保護者は苦しいであろうが、「生きる力」のトレーニングは原則として保護者の力では無理である。理由は明快である。保護者が養育のプロセスで子どもの「生きる力」を奪ったからである。保護者の養育方法こそが弱さの主たる原因だからである。したがって、結論もまた単純である。伝統の知恵が教えるように「他人の飯」を食わせ、「世間の風」に当てて、第三者の「守役」に自立のトレーニングをお願いするしかない。しかし、通常、現代っ子の周りには然るべき「守役」は存在しない。「守役」の意味を理解できず、「生きる力」の分析が出来ない学校カウンセリングに相談するのは次の点で二重の悲劇をもたらす。

4   不登校の第2原因は子どもの「現状肯定」

   アメリカの心理学者ロジャースの流れを組む「非指示的カウンセリング(Non-Direct  Counseling)は、クライアント(相談者)本人を受容するところから出発する。「受容」とは本人の容認であり、現状の肯定である。極端にいえば、わがままも、勝手も、意志薄弱も、弱虫も、怠惰も、卑怯な言い訳も原則として、受け入れる。カウンセラーの基本は「積極的傾聴(Active Listening)」である。積極的傾聴は熱心に聞き、相手に理解を示し、同意を示し、同感を表す。”ああ、そうだった”とか、”わかるよ”とか、”辛かったのね”と相づちを打つ。支持と共感を伝えるためである。要するに、相手の「現状肯定」から出発するのである。

   そもそも現状に問題があるのに、「現状の肯定」から始めれば、子どもの立ち直る突破口を塞ぐことになる。学校カウンセラーを何百人配置しようと問題が解決しないのはそのためである。弱い子どもは必然的に現実から逃避する。逃避の現状を肯定すれば、子どもは問題に立ち向かうことは出来ない。現実に耐えて踏ん張る代わりに「気持ちは分かるよ」、「楽をしていいんだ」というメッセージを送れば、のちの「挑戦」への方針転換はますます難しい。

   不登校はいかように理屈を重ねようと学校の現実からの逃避である。100歩譲って、学校の環境が耐えられぬほどに劣悪であったとしても、なお、耐える子どもは耐え、挫けない子どもは挫けない。論者はこの事実を忘れてはならない。子どもの気持ちを分かってやっても、困難を克服しなければならぬ状況は変わらないのである。

5   「負荷」を取り除くな!

  解決は「負荷」を取り除くことではない。「負荷」に耐え得る「耐性」を形成することである。学校カウンセラーが積極的傾聴によって、子どもの心を開かせることに成功したとしても、不登校克服のために次は何をやるのか?子どもの気持ちを理解してもその辛さを分かってやっても、問題は何一つ解決していない。積極的傾聴とは基本的に聞き役の技術である。学校カウンセラーは相談を受けても、耐性のトレーニングは出来ない。カウンセラーが「生きる力」を体現して圧倒的な迫力で子どもに向かい合うわけではない。不登校を克服するためには、多くの場合、辛くても止めてはならない。やりたくてもやってはならない。やりたくなくても頑張ってやり抜かねばならない。師弟同行でなければそのような指導はできない。養育過程で保護者が出来なかったのはこのことである。子ども可愛さのゆえに、やりたいことはやらしたのである。子どもが不憫であるが故に、やりたくないことはやらなくていい、と認めたのである。結局は、子どもの欲求を放任したのである。子どもが自分の欲求不満をコントロールできないのはそのためである。不登校の処方箋は子どもを180度方向転換させなければならない。同時に保護者の養育行動を180度転換させなければならない。不登校児童の保護者は自らの養育方法で良かったのだと信じている場合が多い。だから変われないのである。子どもを変え、保護者を変え、厳しい基準に挑戦するという離れ業はほとんど不可能に近い。当然、学校カウンセラーができる範囲を越えている。昔から「子どもの走る坂道の小石まで拾うな」と言う。「大石」は拾うのである。人生の取り返しの付かぬ大事に至るからである。しかし、小石のような日常の小さな負荷を取り除いてはならないのである。「小石」で擦りむいても、躓いても、人生を狂わせるような大事にはならない。不登校は「小石」の負荷まで取り除いたことの結果である。

6   生きる「本能」

   「本能」と呼ぶことが適切であるか否かを筆者は知らない。しかし、恐らく人間には生きようとする原初的な欲求がある。頭で死を覚悟した人も、水に溺れれば必至にもがくにちがいない。もがくのは肉体が生きようとしているからである。精神は時に肉体を支配するが、逆に、肉体が精神に影響を与えることもできる。肉体は疑いなく生きようとする欲求を内蔵している。不登校の克服は肉体の「生きる欲求」の活用が頼りである。疲れた肉体は必ず眠りや休息を欲する。空腹の腹は必ず食うことを欲する。生き物の原点がそこにある。人間の原点もそこにある。人間の生活は、動いて、食って、眠るところから始まる。体力が生きる力の原点となるのはそのためである。体力が尽きた時、生き物の生存が終わる。体力が大切なのは「心身一如」の人間において、肉体の鍛錬はそのまま精神のがまん強さに繋がっているからである。不登校は、生きたいという「本能」に働きかけなければならない。本人の弱さが原因である以上、本人の肉体の鍛錬から始めなければならない。動けばお腹がすき、食べ物もうまい。疲れれば眠りが心地よい。ゆっくり休んで、食事を十分にとれば新しい活動を始めることができる。心身の負荷にも耐えることができる。その時、子どもの勝手やわがままは聞いてはならない。「甘ったれるんではない!」、「自分で生きるんだ」と断固として、言わなければならない。ほんの数か月の辛抱である。学校カウンセラーが子どもの心情を聞き出そうと聞き出すまいと、本人が生きることに目覚めない限り、子どもは己の弱さに立ち向かうことは出来ない。もちろん、学校に行けない子どもを不憫に思うだけの保護者に挑戦の強制はできない。「生きる力」の訓練は、体力と耐性の挑戦なのである。断固たる強制を含んでいるのである。そして、恐らく学校は断固たる強制は出来ない。現代の教育界は子どもの意志や主体性に振り回されて「他律」に踏み込む事は出来ない。学校カウンセラーは積極的傾聴によって、子どもの意見や主体性を尊重すべきだと強調する。カウンセリングが子どもの現状を肯定する事から出発すれば、子どもの生きる基準を設定し、挑戦に送りだすことはますます難しくなる。

   「受容」を強調する養育や教育では、誰も生きる力の原点を提示しない。一人前の基準への挑戦も勧めない。そして学校は「守役」の汗はかかない。「他律」とは基準を設定して、子どもの生活を他者が律することである。日々の暮らしの基準は他者が監督するが、基準を決めるにあたって子どもの意見を聞かないということではない。基準を決めてからは子どもの意見に振り回されないということである。「守役」を忘れ、「他律」を忘れた時、不登校を直す処方はない。

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