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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第47号)

発行日:平成15年11月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. コミュニケーションの原点−「発表会」を問う

2. 品質管理の思想

3. 「不登校」の処方箋

4. 第40回生涯学習フォーラムレポート

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

コミュニケーションの原点−「発表会」を問う

1  「表現力」を問う

   表現とは何か、表現力とは何か?この両者を明らかにすることは教育成果の原点を問うことに等しい。何故なら、人間は社会生活を営み、社会生活は人間相互のコミュニケーションによって成り立っているからである。教育の原点の一つは共同生活のコミュニケーションを教えることである。

   この時、コミュニケーションとは表現の交換であり、意志の交流であり、感情のキャッチボールである。自然の風物は巧まずして美しいが、その多くは表現ではあるまい。風物の多くは、現象ではあっても、表現にはならない。風物は表現意志を持っていないからである。

   一方、人間は自然の一部でありながら、自然から独立した意志を有する。花を植えるにも、家をたてるにも、町を作るにも意志を伴う。人間の表現には表したいという意志や欲求が伴う。一軒の家が自然の中に配置された時、風景は表現になる。人が自然と家を素材に風景を演出したからである。それゆえ、表現欲求、表現意思のないところに表現はない。意志を持つという意味で表現は極めて高度な動物的、人間的能力だと言わなければならない。

   もちろん、表現の意志だけでは、表現の豊かさは保証されない。したがって、表現と表現力は当然別のものである。表現力は相手に届いて初めて「力」になる。対象に届かない表現は「力」がないのである。表現力の貧困とは表現されたものが「相手に届かない」という意味である。当然、表現力が貧しければ、コミュニケーションも貧しい。人間生活の原点が貧しくなる。学芸会も、発表会も、豊かなコミュニケーションの力を目指している。学芸会も発表会も子どもの表現の質と量の点検が目的である。

2   表現力の構成要素

   「表現力」もまた「教育力」とか、「老人力」とか、「市民力」等という抽象的な概念の一つである。したがって、子ども達の表現力の具体的中身を論じなければならない。今回はたまたま小学校の発表会を見せて頂いた。その限りにおいて言えば、子どもの表現力を構成したものは「声量」であり、「発音」の明確さであり、「セリフの意味と格調」であり、演技の「動き」であり、「表情」であり、個々の子どもの舞台上での「相互関係」であり、伝えるべきメッセージの「構成」などであった。照明の当て方とか背景画の描き方、バックグラウンド・ミュージックなどはこの際枝葉の問題であろう。子どもの表現力の向上を目指すためには具体的に何をどうするのか?それは声量を鍛えることであり、発音を正確にすることであり、動きを演出することである。要するに、上記の構成要素をどう指導するかが問われるのである。

3   聞こえないセリフはセリフではない

   学校において、聞こえない講義は講義にはならない。同様に、発表会の聞こえないセリフはセリフではない。見えない演技は演技ではない。遠いダンスも観客のために踊られたダンスではない。聴き手に聞こえて初めてセリフである。したがって、聞こえないセリフは表現ではない。聴き手に届かないあらゆる発表は発表の名に値しない。

   にもかかわらず発表会の半分のプログラムは後ろの席まで聞こえない。時には真ん中の席にすら聞こえない。子どもの発表会は発表する子どもに耳を傾けてやらねばならない。拍手も不可欠である。それが「応援環境」である。しかし、応援するにも聞こえない発表には応援のしようがない。見えない演技にも拍手のしようがない。

   上記の観点に照らせば、哀しいかな、発表プログラムの大半は「落第」であった。セリフは聞こえず、舞台に掲げられる発表会の資料は細かすぎて、遠視の人にしか見えはしない。後ろの席に私語が多いのはそのためである。人々がうろうろするのもそのためである。人々の興味を惹き付け得ないからである。会場がだれるのはそれらの複合的な結果である。客席に資料が見えるためには太字の「キーワード」だけを使うしかない。情報が多すぎれば、子どもも、客席も消化できない。発表会は大学のゼミではない。詳細を伝えることは出来ない。観客も詳細は望んでいない。発表が客席に届くためには、学んだことの重点に限定しなければならないのである。

   発表に変化を持たせるための工夫は必要である。それゆえ、会場の参加を促すプログラムは有効である。しかし、会場に聞こえなければ、応援の保護者も参加のしようがない。事前に、参加協力を依頼し、参加の仕方を明示しなければ会場も戸惑うばかりである。当然、解説の子どもにはマイクを使わせなくてはならない。長いセリフは短く、単純化しなければ聞こえない。小さな教室の予行演習で成功しても、大舞台では効果が異なる。体育館の舞台では声すら聞こえず、字も見えないのである。指導教員の経験不足は明白であった。現代の発表モデルは「テレビ」である。しかし、体育館にはテレビスタジオの設備はない。「アップの映像」は不可能であり、「ズーム」の演出も不可能である。子ども達の声を拾う音響ですら十分ではない。だからこそ工夫が可能になるのである。テレビの真似で子どもの学習成果は表現できない。

4   「がまん会」にしてはならない

  上級生の劇や発表が何ひとつ聞こえないのに、最後列で、静かに自分の出番を待って待機している下級生は、今時の子どもにしては耐性があって、偉かった。しかし、発表会を「がまん会」にしてはならない。「分からない事」は下級生にとってはいい迷惑である。退屈な上に、上級生の演じる姿から学び得る最高のチャンスも逸している。ざわついている後部席を抜けて、体育館の2階の回廊に上がってみると、会場の全体が見える。セリフはもちろん聞こえない。幼児のかわいいダンスも遥かに遠い。見えない演技は演技にはならない。客席に花道を設けて子ども達をなぜ舞台から観客のまん中に下ろさないのか?自分達の目の前で躍動する幼子のダンスを見れば保護者は熱狂する。

 下級生に限らず、見えない踊り、聞こえないセリフは退屈に決まっている。2階の回廊では手伝いに来たボランティアの高校生数人が居眠りをしていた。哀しいかな、か細い表現では到底2階の回廊には届かない。発表会の迫力は高校生の好奇心に届かない。貧しい演出は高校生のボランティアスピリットを喪失させるのである。高校生が鈍感なのではない。発表会が鈍感なのである。高校生にとっても、子どもの表現が届けば、かわいくて、面白いプログラムが並んでいる。しかし、如何せん、聞こえないセリフはセリフではない。遠く霞んでいるダンスは自分のために踊られたダンスではないのである。

5   観客の中へ!

   政治運動は「人民の中へ」入って行って初めて政治運動となった。「ヴィナロード(人民の中へ)」と言ったと記憶している。初めて人々に思想表現が届いたのである。これに倣えば子どもの発表会は「観客の中へ」である。子どもが観客の中へ入った時、聞こえないセリフも初めて聞こえる。客席に降りてきた演技は、身近で自分のために踊ってくれているように感じる。

   通常、学校の講堂や体育館は舞台と客席に二分されている。それゆえであろう。先生方の頭も舞台と客席に二分されている。結果的に、発表は舞台でしかやるものではないと思い込んでいる。それゆえ、子どもの表現・発表はすべて舞台で行なわれる。保護者は客席から子どもの演技を見る。子どもが舞台の下に降りたのは全員が舞台に乗り切れない場合のみであった。そうなれば舞台と客席を一体化することは難しい。現状の子どもの演技力、表現力だけで観客を巻き込んで行くのは簡単ではない。それでなくても「声量」、「発音」、「動き」等は不十分である。もちろん、音響設備も決して完備されてはいない。セリフを観客に聞かせ、演技を観客に実感させるためには、時に子どもを舞台から降ろして、観客の目の前に連れて行かねばならない。そのためには客席の真ん中を空けて「花道」を作ればいい。歌舞伎の花道も、ギリシャの円形劇場も、要は、演技者と観客の距離をつめるための工夫であろう。歌唱力のある歌手ですら、時に舞台を降りて、客の中で歌う。舞台の前下は空いていたのである。初めから数人の子どもはそこに降ろしておけばいい。美しい日本語の暗唱・朗誦は客席を囲んで、子ども達を「コの字型」に整列させれば、「枕草子」も、「雨にも負けず」も朗々と客席に降り注いだであろう。「みつばちマーヤ」も「プチネコのタンゴ」も、英語で歌う「The Number Rock」も、子ども達が客席を行進して歌い、踊った時、拍手は降るように湧き、保護者は子ども達の健気さに思わず泣いたであろう。会場の熱気に煽られて恐らくは高校生も目覚め、惜しみない拍手を送ったであろう。

6   進行管理表(者)の不在

   一つ一つの発表は子どもの表現力を問うているが、発表会のもち方は学校の表現力を問うている。今回、発表会を見て改めて自覚したことがある。学校は教科教育の専門機関ではあっても、表現指導の専門機関ではないのである。子どもに放送を任せるのもいい。子どもに照明を担当させるのもとてもいい。しかし、幕間が空き過ぎたり、全体の進行がぎくしゃくすれば、発表会は失敗である。それを防ぐためには校務に教務主任がいるように、発表会には、全体を見渡す進行管理者とプロデューサーが必要である。その下に子どもをつけて、行事の企画・進行を学ばせるのは最高の「体得」機会である。しかし、そのためには全体と部分の進行シナリオがなければならない。子ども達は事前にそれらをマスターしておくことが不可欠である。リハーサルはそのためにある。子ども達はアナウンスの放送内容は練習していても、プログラムの流れは理解していない。ぎくしゃくするのはそのためである。子どもにも演出や進行管理の練習をさせるべきである。プログラムから次のプログラムへの転換は、舞台の全貌、出演者の前後の動き、プログラムの中身が分かっていなければ、準備が出来ない。幕間が空いて会場がだれるのは交代に時間がかかり過ぎることが一因である。一年生が演じた「たいこ」は、本物の太鼓の代わりに教室で使う普段の机を叩いたアイデアであった。演奏も良かった。しかし、幕間の準備に5分30秒を要した。子どもの打ち手を舞台の袖に待機させ、上級生がひとり一つずつ机を運べば、恐らく半分の時間で準備ができたであろう。発表会は展開のスピードと整然さにおいても客席を圧倒しなければならない。プログラムの順番が準備作業との兼ね合いで決まるのはそのためである。それゆえ、全体進行のシナリオはそれぞれの演技を統括する個別シナリオにおとらず重要である。

7   忘れられた「表現力」

   学校フェスティバルはかつての「学芸会」と「祭り」の結合である。企画力、表現力、コミュニケーション力を試される。歌も、踊りも、暗唱も、表現であるが、アナウンスも、舞台設営も表現力を支える陰の力である。子どものあいさつも表現である。整列の仕方も、退場の仕方も、表現である。子どもに大人の紋切り型のあいさつをさせてはならない。「よろしくお願いします」という意味のないあいさつなど繰り替えさせてはならない。あいさつは子どもの発表と努力を語らせなければならない。整然と入場し、整然と退場する。その時、演技も表現も一段と輝くのである。舞台上に並んだ時身じろぎ一つなく「気を付け」の姿勢がとれるのも能力である。そこから集会の区切りが明確になり、「めりはり」が生まれる。世界の軍隊が一糸乱れず行進するのは表現力であり、行動力である。子どもの表現力も同じである。会場の準備も、プログラムの交代も表現力、行動力である。子ども達が出した「屋台」への客の案内と呼び込みこそは総合的表現力でなくて何であろう。 

8   企画・運営の指導

   会場には「会場係」がいる。舞台には「大道具・小道具」の係がいる。「照明係」も、「放送係」も必要である。プロデューサー教員の側には、全体進行を見渡す子どもの「進行管理係(MASTER OF CEREMONY)」を置いて発表会の企画・運営を体得させなければならない。子どもにアナウンスを任せる以上はアナウンスの基本を指導しなければならない。マイクの使い方も教えなければならない。舞台の設営を任せるのであれば、設営の基本を教えなければならない。会場係には受け付けと来賓の案内くらいは任せていい。学校はプログラムの中身の発表だけを発表会だと錯覚していないか?会の運営全体が発表会である。企画・運営こそが世間で応用のできる最高の能力である。子どもも、大人もやったことのないことは出来ない。教わらないことは上手には出来ない。発表会は「体得」の絶好の機会である。体験から学ぶのは「学習」ではない。「体得」である。クラス発表や全体リハーサルの試行錯誤を通して子ども自身が「やってみる」ことが重要なのはそのためである。それこそが「総合的学習」ではないのか?

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