『潜在光景』
教育や罰則への過大な期待
「潜在光景」とは松本清張の傑作短編である。長崎、幼児殺害事件が起こってまっ先に思い出したのは、「潜在光景」の中の少年であった。メディアが報じる世間の驚きや対策が、教育や罰則への過大な期待の裏返しであることに違和感を覚えたからである。殺害事件の犯人が僅か12歳の中学1年生だと分かって日本中がこのニュースに振り回された。鴻池大臣は、少年の保護者を「市中引き回しの上、打ち首にせよ」と発言して物議をかもした。大臣の間違いは、親の愛情やしつけが少年の生き方をすべて決定するという「迷信」を信じているからである。保護者の監督不行届きで起こる事件もあるが、そうでない事件もある。監督不行届きの事件については、鴻池大臣の意見にも一理ある。その手の親も世間には沢山いる。
しかし、教育も罰則もすべての悪を抑止することはできない。保護者は自分の子の犯した罪を悲しんで、被害者や、世間に詫びるべきではあるが、今回のような事件はおそらく責任の取りようがない。少年の屈折も、少年の中の「悪」も親の手が届くものと届かないものがあるのである。犯人の少年は自分の性癖や殺意を誰に教わったわけでもない。それは、中高生少女のパンツを買い漁っている大人たちが己の性癖を誰に教わったわけでもないのと同じである。発達途上の少年はいまだこの世の「悪」や「憎しみ」に染まっていないとする前提は明らかな間違いである。大人に限らず、少年の中にも、「悪」を導く「性癖」や、「嫉妬」や、「怒り」や、「憎しみ」などの激情があるからである。松本清張はその事を見事に描いたのである。
殺意の「潜在光景」
小説の筋立てを説明するつもりはないが、「潜在光景」の中の少年は幼くして殺人を犯している。父の亡き後、母に近付いた伯父を釣り場の事故に見せ掛けて海に落としたのである。事件の記憶は鮮明であり、自らの意志も鮮明である。それゆえ、少年は大人になった後も己の行為を忘れたことはない。成人となった少年は、普通の結婚をしたが、偶然昔の知り合いの女に巡り会う。女には幼い男の子がひとりいる。二人は男の子の目を盗んで忍び逢うようになる。二人は、だんだん状況に慣れて、男は子どもと遊びながら、帰りの遅い女を待つようになった。その頃から”彼”は幼い日の自分の分身に巡り会った事を感じはじめる。幼い男の子が発する幾つかの敵意と殺意を経て、男の子が自分を殺そうとしている、と直感したのである。ある晩、女の帰りが遅い日、暗闇に出刃包丁をもって立っていた男の子に直面して”彼”は思わず子どもの首を絞めてしまう。
男の子は命は取り留めたが、男は警察の厳しい取り調べに耐えなければならない。”彼”は正当防衛を主張したが、誰もが、女と暮らすために、邪魔になった男の子を殺そうとした、と推定した。誰一人、大の大人に対する幼い6歳の男の子の殺意など信じるものはいない。厳しい取り調べの果てに、”彼”は、自分が殺人未遂犯に追い込まれるであろう危機を感じた。”彼”はついに叫ぶように告白するのである。「なぜなら幼い時に私もこの子と同じことをやったことがあるからです」。少年の殺意は己の幼い日に自分が抱いた殺意に重なっているのである。それは自分にだけ分かる殺意の「潜在光景」であった。教育も罰則も少年の殺意を止めることはできない。
人間の中の「悪」
誰に教わったことでもなく、誰のせいでもなく、筆者もまた屈折した少年であった。屈折した少年は、屈折した思いを抱いて大人になっている。時に、よくぞ今日まで犯罪や格別の非行を犯さずに来たものだと思うことがある。幼いころから、啄木が歌ったように”われは哀しきテロリストの心を知る”という心境であった。空想の中では、暗殺も、爆破も、放火も、個人への復讐も、世の中への報復も何度となく繰り返している。実際にやらなかったのは、偶然にもその機会に恵まれなかったからである。一つ間違えば実行して、優しかった子煩悩のおやじを悲しませたことであろう。少年の日の筆者の屈折と優しい父の育て方はほとんど全く関係がない。鴻池大臣が間違っているのはこの点を見落としているからである。
松本清張が洞察したように、長崎少年にも屈折した思いがある。実態はおそらく分からないであろうが、殺意や、憎しみや、反社会的な性癖や、その他の屈折した思いであろうことは想像できる。少年に限らず、人間存在の本来の性質が「善」であるなどとは到底思えない。幼いがゆえに、まだ「悪」に染まっていないとも思わない。そして、少年の中の殺意や憎しみのすべてを教育や罰則で抑止できるとも思わない。我が屈折した想像力は誰に教わったことでもない。それゆえ、幼児に性的悪戯をしようとした上、殺害したのが中学1年の優等生であっても格別には驚かない。この世にはそういう少年がいるのである。
この種の少年が己の中の「悪」を実行しないのは、幸運にも、不幸や憎しみを忘れさせてくれる「人・事」に巡り会って、いつしか悪も、憎しみも胸の底に仕舞い込んだからである。この世の罰則に照らしてアホと人生を刺し違えても割が会わないと思ったことも理由の一つであろう。処罰が「抑止力」になるのはそういう時である。完全犯罪の自信があれば、とっくに実行に移していたかも知れない。それゆえ、少年の健全育成をすれば、少年の犯罪がなくなるなどというのは、誠に不正確で、甘い教育学の迷信である。罰則を強化すれば少年犯罪の抑止力になるというのも常識人の単細胞的判断である。教育も罰則も共に大切な社会のシステムであるが、人間に悪の想像力がある限り、教育でも、罰則でも、犯罪のすべてを抑止することはできない。
己の屈折した少年時代に鑑みて、そう思うのである。
「分からないこと」は分からない−「心の闇」などという妄言を忘れよ!
少年の非行や犯罪を巡ってその「動機」や「理由」を解明しようと関係者は必死の努力をつづけているようである。しかし、心理学者や医者が少年犯罪や非行の理由を、学問的に「発明」してはなるまい。あるテレビプログラムはそれらを総体的に「心の闇」と呼んでいる。このような表現にごまかされて少年犯罪の背景が分ったつもりになってはならない。「分からないこと」は分からないのである。「闇」という言葉は様々な背景を想像させる文学的な表現ではあるが、要するに”具体的なことは分からない”という告白に外ならない。又、「闇」の正体が分かったところで教育による少年犯罪の予防が可能になると期待するのは人間の観察がいかにも甘い。われわれは松本清張の「潜在光景」に学び、「心の闇」などという妄言は忘れるべきである。動機や理由が分かろうと分かるまいと、犯人が少年であろうとなかろうと、犯罪は厳しく処罰すべきである。理由は以下の通りである。
なぜ罰が必要か?
犯罪者には疑いなく厳しい「罰」が必要である。少年であろうとなかろうと「罰」が必要である。法律家が何を言おうと、処罰には三つの意味がある。第一は、被害者及びその家族の心の安寧、第二は、社会への損失補填、第三は、秩序の維持と犯罪の抑止である。現行法では、犯罪者の少年を「犯罪者」と呼ばず、「触法少年」と呼ぶという。馬鹿げた話である。また、「触法」少年が、法に触れたにもかかわらず少年であるが故に処罰されないというのも、ナンセンスな話である。「罪」を憎んでも、「人」は憎まず、というのも偉そうないい草である。己の罪を償うまでは犯人は犯罪者である。社会的償いを終えるまでは、「罪」と「犯人」を切り離すことはできない。犯人が処罰されなければ、被害者もその家族も浮かばれない。罰則の第一理由は犯罪への応報と被害者とその家族の安寧である。ハンムラビ法典に戻るわけではないが、処罰の根本は「応報」の思想である。被害者の死者はふたたび返ることはない。被害者の人権は加害者によって抹殺・否定されたのである。少年犯は数年の教育的措置のあとで何ごともなかったかのような人生を送る。それでは、死者も、死者を想う家族の心も救われない。それゆえ、少年法の罰則規定を一層厳しくし、その適用年齢を引き下げるのは、他者の人権を犯した行為への「応報」と被害者家族の心の安寧のためである。「親を処罰せよ」と主張した鴻池大臣はこの点でも理解が不足している。処罰されるのであれば、犯罪者の少年自身が処罰されるべきである。加害者の少年は、その犯した罪を償うまでは、普通の少年と同じように未来の幸福を保証されてはならないのである。少年の犯罪に対して、「医療少年院」送りや「教育刑」が一種の決まり文句になりつつあるが、教育的措置は被害者にとっても、その家族にとっても、誠にふざけた話であり、到底納得のできるものではない。人権をいうのであれば、被害者の人権が先きである。この点に関する限り、鴻池大臣の指摘は正しい。
罰則の第2理由は社会に与えた損失の補填である。犯罪が破壊した社会の秩序、犯罪捜査に費やした多大の費用とエネルギー、人々に与えた社会不安など犯罪は多様な社会的損失をもたらす。すべてこれらは税金でまかなう。犯人に幾許かの補填をさせるのは当然である。それは少年であると否とに関わらない。処罰に「強制労働」が必要なのはそのためである。
犯罪抑止力としての期待は第3の理由である。確かに多くの人が指摘するように、罰則の強化ですべての犯罪を抑止することはできない。罰則ですら抑止効果が疑われるのに、少年院や家庭裁判所が決定する教育刑で犯罪を抑止できるなどということは益々あり得ない。
抑止力の上でも、被害者の権利を守り、その無念を思いやる上でも、少年の凶悪犯罪に対する「教育刑」は的外れである。教育刑で社会の秩序は維持できない。少年非行や犯罪の大半は、耐性が欠如し、心に規範が確立していない者たちが、人生の欲求不満の八つ当たりを「弱い世間」に向けた結果に過ぎないのである。
教育刑などは最後の最後でいい。日本社会は逆立ちしているのである。 |